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唇の皮が軽くむけていた。
私は軽く唇に手を当てて、むけていた部分の皮を取った。
血は出ていない。
すごくガサガサでも、すごくうるうるでもない私の唇。
私の唇から出て行って、二度と戻ってこない言葉たち。
私は我がままで、彼に甘えていた。
まるで私が実の父親に甘えて冷たく接したり、無視したりするのと同じように、私は彼に言葉をぶつけていた。
私は彼を怒らせた。彼なら言葉足らずでも私のことを理解してくれると勘違いしていた。怒る彼の声は授業中にクラスが騒がしいのを注意したときよりうんと低かった。
自己満足のために私は彼に謝った。
彼は優しかった。
私は幼かった。彼の前ではさらに。
彼なら全てをさらけ出せると思った。
受け止めてほしかった。彼なら受け止められると思った。
なぜ、彼にこんなに甘えられるのか自分でもよく解らなかった。
——追い詰められた獣と同じ直感だった——
レイアが聴いていた『罪と罰』の朗読テープが頭によぎる。
今思えば、もう少し彼に向かって別の言い方ができただろう、と思う場面が、私の中で浮かんでは消えていく。
成績不振に陥った高三と、それに当たられる高校教師。
放課後の暗闇に包まれた廊下。
秋のひんやりとした空気。
世界が彼と私の二人きりであるような錯覚。
「何か、他に話したいことはある?」彼が私を見つめながら訊く。
私は、しばらく、彼に現時点で話したいと思うことを考えたが、彼と話したいと思っていたことは話し切ったあとだったので、しばらく無言で彼が切り上げるまで彼の側にいた。
「よさそうだね。……勉強しろ……」
彼が私に不機嫌そうに話し、私が「ありがとうございました」と言う前を彼は(ああ、はい)という顔をして通りすぎ、階段を上っていく。私はそんな彼を後ろから追いかけて、職員室のある二階まで一緒に階段を上る。私は彼の時間を奪っていた。時間は貴重だ。そんなこと、分かっている……。
「先生の仕事って大変なんじゃないですか?」私は彼に訊く。
「ああ、おれは効率よくやってるから大丈夫だよ」彼は答える。
そんなに落ち着いて答えられるなんて、彼はきっと優秀なのだろうと思った。私には先生の仕事で辛いことなんて、話しにくいのかもしれないけれど。
さらに、私は彼と親しく話し合うようになってから、会うたびに彼の左手の薬指を見るのだった。
最初に会った時は、そこには穏やかに光がともっていた。
私が高三になって、彼とよく話すようになってからは、その光を私が目にすることはなかった。
家事を手伝っているときに壊しそうだから外したのかも、と思った。
それはまるで、彼が世界で一番大切で、誰にも傷つけさせないと考えているであろう誰かを守るように。
でも、こんなことを気にしているのは、きっと私の方ばかりだ。
おかしいと思いながら、胸の奥にしまい込んだ記憶。
私は囚われている。その記憶の中に。
最初に会った時だ。
彼がクラスのみんなに自己紹介をしている途中に、突然私は彼に懐かしさを感じた。どこかで前に会ったことがあるような。気のせいだと思った。
しかし、彼の話が一段落したときに、教室の中の数多くの生徒の中で唯一私に声を掛けたのだった。
「前に教えたことある?」
(教えてもらったことはないと思うのですが、私も会ったことある気がしたんですよ) とは言えなかった。周りの目が気になった。私は今の自分が考えられる事実を伝えることしかできなかった。
「ないと思います」
彼は(あれ?) と不思議な顔をしつつも教室の前へ戻っていった。
その最初の授業が終わってから、彼にそのことを伝えにいこうかとも思ったが、彼は足早に教室を去っていき、まあいいか、大したことじゃないだろうと思ってやり過ごした。
しかし、そのことがきっかけで彼に覚えた親しみが消えることはなかった。
私は高一の自分の中に引きこもっていた時期辺りから、先生に質問しに行くなんて無理、と思っていたのに、彼にだけは数学の質問ができた。
もともと親しみやすく、人気のある先生だったので余計近づきやすかった。
そこに恋愛感情はないとずっと思っていた。
しかし、彼が授業中にする彼の過去の話と自分の過去を重ね合わせては彼になんとなく惹かれていた。
なぜか彼の雑談だけはよく憶えていた。
彼の周りにつきまとっている生徒を見たり、彼が恋愛的に好きだという生徒の話が耳に入ってきたりするたび、無意識的に嫉妬していた。嫉妬などしていないと思いたかった。
「ずいぶんと過去に囚われているな」
ふいに声が聞こえた。
気が付くと、私の唇がパンパンに膨らんでいた。
急いで自分の部屋の机の中にしまってある手鏡を取り出し、それで自分の顔を見ると、唇が赤く腫れあがっていた。
真っ赤に腫れた唇は次第に茶色くなり、やがて黒く染まっていく。
パンパンに腫れている部分が私から剝がれていき、そこには私の唇に似た黒い影があった。
「なにもかもすでにだったかもしれないって?」それは黒い唇を動かして話し始める。中に歯は生えていなかった。
「私にはよく分からないの。最初に会ったときは、彼の出身大学も何も知らなかったの。でも、彼は私がそのとき目指していたような学歴だった」私は答える。
「彼に最初に会ったときの懐かしい感覚を互いに感じていたことを知らなければ、彼に対して動かなかった?」
「それは確かね。結果だけ見れば、私は彼を選んだことになる。でも、彼は最初から選ばれていて、私の目の前に在った気がしてならないの」
「『この闇と光』のレイアと父のように、彼と君は互いの額にカインのしるしでも視たと言うのか? 外に流れることなく、裡を視るであろう者としてのしるし……賢者のしるしを」
「それは……。そうなのかもしれない。分からない。高一の頃から数学に力を入れて勉強していたら、意図してはいないけど彼に繋がった。そして彼は私の魂の導き手となったの。でも……、私は彼に対して何ができたかは分からないわ」
「彼が君の魂の導き手となったと?」
「共通テストが終わってから、彼の元へ相談しに行ったの。そのとき『他の人に止められてやめようと思うことはやめとけ』という彼の言葉に、勉強する分野を材料系から情報系に変えてでも、なんとなくついていきたいと直感的に思ってしまったの。国公立大学の試験直前に私立大学を決めないといけなくて、あまり考えられる時間がなかったのもある。でも、自分の選択に自信は無かったし、選んでからずっと違和感を感じていたから、大学を変えられないか親を説得もした。親が猛反対したから無理だったけど」
「彼に囚われているのか。通う大学でさえも」
「選んだのは私よ。これで正しいのかどうかはまだ分からない。でも、私はどこにいても勉強に手を抜くつもりはないから、努力して返ってきた結果なら受け止めるわ」
「そうか。じゃあ、逆に彼は君に囚われているのか?」
「それは分からない。囚われていてほしいと思うことはある。でも、彼は私に囚われるべきではないのよ」
「でも、彼は君に向かって言ったじゃないか。『大人は考えることが色々ある』と」
「そうね。彼は私に囚われていないとしても、きっと何かに囚われているはず」
「彼は君から離れられるのか?」
「それは……、知らない。でも、彼が私から離れたいと一ミリでも思っているのであれば、そうなることを祈るわ」
「嘘つけ。君が彼を精神的に手放すことはないだろう。なら、彼が自分から離れてほしいとは思わないはずだ。……夢の中へ行かないか? 少しは彼から解放されると思うぞ」
「それは……。完全に行きたくないと言ったら嘘でしょうけど……。分からない。もう少し待って」
「そうか」
それはそう呟くと、唇を固く閉じてから私に背を向け、部屋の壁をすり抜けてから、どこかへ飛んで行った。
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