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爪を切っていた。
私の部屋の中にある空っぽのゴミ箱に、私だった爪がカラリカラリと落ちていく。
ふとゴミ箱に目をやると、いくつかの切り落とされた爪が立って、むくむくと膨れていき、いつの間にか黒い大きな塊となって私の前に飛び出てきた。
私は少し驚いて、持っていた爪切りを床に落としてしまった。意外と落ちた音はしなかった。
黒い塊が私に話しかけてくる。
「爪を、痛みを伴わずに切り落とせるように、自分の過去もそうなればいい、って今思っていただろう?」
「多分ね。私は過去に囚われているから」
「囚われた盲目の王女様?」
「それは……、『この闇と光』のレイアじゃないかしらね。でも、過去に囚われるのは……、誰にでもあることだと思うの」
「それはそうだな。『この闇と光』のレイアも、その父である王も、だな」
「そうね。神が私たちをそういうふうにした。なんてね」
「神は存在するのか?」
「神は居るかもしれないし、居ないかもしれない」
「居たとしても、神の意志はランダム?」
「神の意志は……、ランダムね。理不尽じゃない。この世はね。注目されるのは、成功した人だけよ」
「では、夢の中へ行かないか?」
「それはやめておく」
「君の意志もランダムだろうね」
「おそらくは」
「そうか」
そう呟いて、それは爪の大きさまでバラバラに戻ってから、その場に溶けるように消えた。
落とした爪切りを拾い、再び爪を切り始める。
私の心が揺れていく。
私は過去に、囚われにいく。
高二の終わりごろ、私の世界が一日で急変した。
政府がとある強力な感染症の感染予防として、一斉休校を要請したからだ。
私は大学受験のため、この時期に勉強しなければいけないと強く思った。しかし、私の意に反して勉強の内容がなかなか頭に入らなくなった。
休校は新学期に入ってからも続いた。私は大学受験のことを夜寝ている七時間以外は考え続け、次第に夜もちゃんと眠れなくなった。
せっかく部活もやらず、勉強に専念して現役合格するつもりだったのに、これではこの予想外に生まれた時間に、青春を謳歌した人に成績を抜かされてしまう、と焦った。
私は精神的に不安定になって無駄に時間を過ごし、そして時間が過ぎていくのが怖くなり、「勉強ができる」感覚を忘れていった。
さらに、授業のペースを目安にして勉強していた私は、休校期間中の勉強のペースに自信がなくなった。
自習室目当てで、高二の春から映像授業の塾に通っていたが、コロナで自習室が使えなくなった時期もあったし、そもそも私は塾が全体的にうまく使えなかった。
父が「受験で使う範囲まで休校中に予習しておいたらどうだ」と言うし、塾の人も塾の動画の受講を嫌なほど勧めてくるので、予習も少しはしてみたけれども、私の頭が悪いせいで内容が入ってこず、空回りばかりした。
そして、塾の教材をやっている余裕がなさそうだったので、塾をやめようかものすごく悩んだが、私の精神的な弱さと、感染症のせいで高校があるかどうか分からないという不安からやめられなかった。
こうすればよかった、というのはあるけれど、多分それができるほど当時の私は強くなかった。
私は私を追い詰めすぎた。
数Ⅲは教科書レベルの問題が解らなくなって泣いた。
学校にメールで質問したら先生から答えが返ってきた、と勉強の得意な友達から休校期間中に一回話したときに聞いたので、私も質問してみることにした。
「もう全然分かりません」と絶望的な気持ちで出したメールに答えたのは、彼だった。
数学の先生は高校にたくさんいる。それに彼は三年生になってから、私たちの学年の担当ではなかった。彼から質問の答えが返ってきたのは嬉しかったけど、どうして、私を助けてくれるのだろうと思った。
さらに、そのメールにはまた分からなくなったら質問してください、と彼のメールアドレスが載っていた。
私はこのメルアドをしばらく使わなかった。私の北側大学が親に否定される日までは。
なぜなら私の親が止めたからだ。
私の父は心配症だ。
私の父は、よくこう言った。
「男は全員危ないから気を付けなさい」
私は一人っ子で、男兄弟もいないので、実際の雰囲気はよく分からない。人によるんじゃないかという気はする。
親は言った。
道端を歩いている人でも、近所に住んでいる人でも、学校の先生でも、塾の先生でも、男なら気を付けろと。
また、そのことだけに限らず、私の親は、幼い頃からずっと私の行動に色々言った。
私は割と過保護に育てられた。親に応援されたことはあったし、色々支えてくれていたとは思う。でも、私はどうも自分を責められたり、否定されたりしたときのことの方が強く記憶に残っている。
色々と親のせいにするのは、私の弱さだろう。
私は親から自立できていないのだ。金銭的にも精神的にも。
私の実力不足かもしれない。
でも時々こう思いたくなる。
私を取り巻く環境は神の意志で……、神の意志はランダムだと。
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