幕間

香川瑞樹の朝飯前

 三玉神社の巫女、香川瑞樹の朝は早い。


「……ん」


 まだ空が白み始めて間もない時間帯。

 ぱち、と瑞樹の目が開く。

 布団の中は温くて、離さないぞという布団の魔力と、まだ起きたくないぞという己の欲求が、一日の最初に戦わねばならない敵だ。

 が、


「──んしょ!」


 誘惑を跳ね除け、すいっと体を起こし、そのままぐ〜っと伸びをする。

 目覚まし時計の助け無しで起きられるのが、瑞樹の数少ない特技だった。


 すっと立ち上がって布団を軽く畳んだ後、崩れた浴衣を直してから自室を出て洗面台に向かう。

 蛇口を捻り、冷水を勢いよくばしゃばしゃと顔にかける。冷たさがきゅうっと沁みるが、これがないと頭がしっかり醒めないのだ。

 タオルで顔を拭くと、今度は歯ブラシ置きに挿さったピンクの歯ブラシとミントの歯磨き粉を取って歯磨きタイム。口もスッキリさせて覚醒にダメ押し。

 隅々まで磨き切ったら濯いで、


「……にっ」


 鏡の中の自分に笑いかけて、洗面台を後にする。

 一旦自室に戻り、箪笥の引き出しからバスタオルや着替えを取り出す。

 次にすることは、本殿の裏手にある泉でのみそぎだ。

 毎日欠かさずおこなう、巫女の大事な責務のひとつでもある。


 荷物を胸に抱え、薄暗く長い廊下を静かに歩いていく。

 同居人たちはまだ眠っているようだ。


(廊下の明かりはまだ点けないでおこう)


 ただ、もう少しすると同居人のひとりが起きてくる。

 それまでに支度を済ませて、台所で湯を沸かしておかなければ。


 雪駄を履き、がらがら、と社務所の引き戸を開けると、冷たい風が入ってきて思わず肩が縮み上がった。

 冬の訪れを感じさせる寒さになってきた。泉との行き帰りくらいは、ダウンでも羽織った方がいいだろうか……。

 そんなことを考えながら、瑞樹は御社殿の脇を通って、森を拓いて作られた石の細道を歩いていく。


 ちょうど社務所の影が見えなくなるくらい歩いた先に、その泉はあった。

 たまに夜更かしをした楽ノ神が眠そうな顔をして浮かんでいる時もあるが……今日はいないようだ。

 ほとりに立つ小さな小屋に入り、どさっと荷物を置く。

 雨の日でも嵐の日でも風邪を引いても怠れない責務において、せめて雨風を凌げる荷物置き場くらいは欲しいと思い、同居人のひとりに頼み込んで作ってもらったケヤキの小屋。一畳程度の本当に小さな小屋だが、着替えている間に濡れないだけでもぐっと快適になった。感謝してもしきれない。

 その中で、まだ体温が残る寝巻きの浴衣を脱ぐ。小屋は風は防げても冷気は防げない。ぶわわ、と鳥肌が立つ腕をさする。

 畳んで置いた後、下着も脱いでその上にぽいと放る。

 それから小屋の戸を開けて、


 暗転。


「あ〜寒かった……」


 巫女服に着替えていつものスタイルになった後、社務所の台所で湯を沸かしていた瑞樹は、耐えきれずに石油ストーブを解禁することにした。

 温風を吐く吹き出し口の前にいそいそと陣取って、手を翳す。

 指先が赤くなるほど冷たかった手から、じんわりと温かさが広がっていく。


「ふはぁ……」


 知らず、気の抜けたため息が漏れる。

 もう少しだけあったまったら、朝ごはんとお弁当の準備をしよう。

 ストーブの前でしゃがんだまま、今朝の献立を考える。

 柔らかな熱に頭がぽわぽわする。

 瞼が段々と重たくなっている気がするが、もう少しだけ、もう少しだけ……と、先延ばしにしている内、うとうと、うとうと、うとうとうと……


 ピ────‼︎

「ひゃあっ⁉︎」


 やかんの鳴る音で飛び上がった。

 弾かれたように立ち上がり、慌ててガスを止める。


「あ……危なかったぁ……」


 額に浮かんだ汗を拭って、火の番を怠ったことを反省。

 少し早いが、朝ごはんを作ってしまった方が(眠気を覚ます意味でも)良さそうだ。

 瑞樹は合わせから紐を取り出し、手早くたすき掛けをすると、ぱしんと頬を叩き、


「──よしっ!」


 その後、起きてきた同居人に口の端のよだれの跡を指摘され、絶対に誰にも言わないでと半泣きで懇願した。

 楽ノ神にでも知られたら、末代までからかわれるだろうから。

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