第2話:五里霧中
鉄骨の隙間から僅かに月の光が差し込んでいる工事現場の中を進む。
運動靴の乾いた音も周囲に響いている気がするほど、辺りは静寂に包まれていた。
「おーい、誰かー! いたら返事をしてくれるー⁉︎」
呼びかけてみるが、ビルの壁に反響するばかりで応える音は何もなかった。
子どもの声はしばらく聞こえていなかった。助けを呼ぶのに疲れてしまったのだろうか。
「大丈夫かな……」
「本当に子どもなら、体力的にも苦しいだろうしな」
「本当に子どもだってば」
「そうだったな」
反論してもどこ吹く風な煌に釈然としなかったが、一緒に来てくれただけでもありがたいことを忘れてはいけない。それに文句のひとつでも言ったらさっさと帰りそうな予感がした。元々信じていないし。
「……煌ってさ」
「なんだ」
「神様とか信じるタイプ?」
「全く」
「だよね」
「目に見えるものだけを信じるタイプだ」
「ああ……」
彼らしい。
「そりゃ信じないか」
「そうだな——」
「お前も、本当は疑ってるんじゃないか?」
「……え」
思わず足が止まる。
予想外の言葉を言われたから。
ではなく。
簡単なことだろ、と煌は続ける。
「さっきまで歩いていた道から、このビルまではそれなりに距離があった。あの場所まで子どもの声が聞こえるなんてあり得ない。スピーカーでも通さない限り」
「う……」
「お前の幻聴じゃあないと思いたいがな、このビルをざっと回ったら、」
〈だかれたけすてこにいこるよ〉
「っ——‼︎」
聞こえた。
「いた!」
「あ、おい、——」
駆け出す。
疑いが一気に晴れる。
今度こそしっかりと聞こえた。
やはり子どもはいた。
どのフロアにいるかも明確にわかる。
言い争ったり疑っている場合ではなかった。
何をするにも、見つけなければ始まらないとは自分で言ったことなのに。
優柔不断な自分が嫌になる。
「——ここ、だっ」
階段を幾つも駆け登り、息も絶え絶えに辿り着いたのは、ビルの屋上。
月明かりに照らされたクレーンや資材がそこらに置かれ、作業員のいないコンクリートの広場はより寒々しさを際立たせている。
見渡す限り、子どもの姿は見えない。
声は再び聞こえなくなっていた。
子どもが隠れられそうな物陰はいくらでもあったが、雨風をしのげそうな場所は全くなかった。
実在がわかった以上、子どもの体力への心配が募る。
どのくらいの間ここにいたのだろう。
誰もいない広場でひとり。
寂しく——辛かったに違いない。
「どこにいる……⁉︎ いたら返事をしてくれ!」
息を整えながら呼びかけるが、やはり返事はない。
ひとつひとつ物陰を見ていこうとして、勇吾は広間の奥へ一歩を踏み出し——
「……?」
その視線の先に、『異常』がひとつ。
「……あれ、は……」
広間の最奥。
積み重なった資材の上に座らされているそれ。
それ自体には何の変哲もない。
普段目にすることもあるもの。
ふわふわとして、触り心地が良さそうな。
月明かりに照らされて、円な瞳がつやつやと光る。
両手に収まるくらいの大きさの、首元に赤いリボンが結わえられた——
「クマの……ぬいぐるみ?」
ぞわっ——と。
その時、勇吾の背を激しい悪寒が駆け抜けた。
それはこの後、何かとんでもなく大変なことが起こるサインだと、勇吾は昨晩の夢から知っていた。
あれをどうにかしなければならない。
いや、どうにかって、どうすれば?
昨日の夢のような力は勇吾にはない。
体には万能感も多幸感もないし、無力感と焦燥感が巡るばかり。
しかも、勇吾の後ろからは、
「勇吾、見つかったか——」
何も知らない煌が階段を登り切ってやってきた。
まずい。
「ダメだ煌!」
「え」
「逃げ」
〈 おえまは いならい 〉
ぱあっ——と辺りが明るい緑色に染まったと同時。
鈍い音と共に煌が、まるで人形のように吹き飛ばされた。
「あ——」
嘘みたいな光景に言葉を失う。
幸いビルの外に放り出されなかったものの、彼の体は勢いよくコンクリートに叩きつけられた後、ごろごろと転がって、動かなくなった。
「あ、あ」
喉から乾いた声が漏れる。
勇吾はからくり人形のようにぎこちなく、力の源へ目を向けた。
「な……」
目を見開く。
ぬいぐるみの両腕から緑色の炎が噴き出している。
いや、正確には、淡い緑色の陽炎を纏った巨大な腕が、地面に投げ出されていた。大きさは辺りに置いてある資材とそう変わらず、煌がいきなり吹き飛ばされたのは、その腕がこちらまで一瞬で伸びてきたからなのだろうと想像する。
気のせいか、ぬいぐるみの瞳もぼんやりと緑に光っているように見えた。
そしてその小さな体からは、無機物とは思えないような威圧感を放っている。
まるで、夢で見た『あかい人影』のような。
(これも、夢?)
思わずにいられなかった。
ぼやけた陽炎も、神様じみたオーラも、あの夢の中で見た。
そもそも常識的に考えて、あんな超常的な現象など起こるわけがないのだから夢であるはずなのだ。
だから、
〈 ねえ かまてっよ 〉
「——」
ぐわっ、と緑に輝く腕が迫ってきても、勇吾は動かずにいた——いや、動けずにいた。
必然、
「ぁ——」
鉄骨で殴られたような衝撃が、横っ腹を捉えた。
ぐい、と視界がブレる。
体の中からぼきぼきめきりと聞いたことのない音が聞こえた。
天井が地面になったり地面が天井になったり目まぐるしい。
体中をコンクリートの硬質が殴りつける。
やがて暴力の嵐が去った後には、
「ぐ、ぎ、ぃぎ……」
勇吾は、呻き声を上げるだけの血だるまになっていた。
歯を食いしばって制服の裾を握りしめても足りないほど、全身を堪えきれない激痛が駆け巡っていた。
どうして煌のように一瞬で意識を刈り取ってくれなかったのだろう。
そうすれば、痛みに苦しむ必要もなかったのに。
「ぃ、だい、いだぃいっ……」
涙が
確信してしまった。
これは現実だ。
だって腹を殴られたらこんなに苦しい。
骨が折れたらこんなに気持ち悪い。
全身をコンクリートで打ちつけられたらこんなに痛い。
これが現実でないのなら、あの夢ですら本当に夢だったのか信じられなくなる。
ずしん、ずしんと重い物体が近づいてくる音が聞こえる。
巨大な双腕を足にして、あれが近寄ってきたのだ。
〈 きゃは は ははは あんそでれくて うしれいねえ はははあは は 〉
ぬいぐるみ——のような怪物は、笑っていた。
甲高いノイズ混じりの、男にも女にも聞こえない音を発して。
ばしん、ばしん、と緑に燃える腕を地面に叩きつけている。可笑しくて笑っているのだろうか、その音を聞いて勇吾は一層絶望的な気分になった。
もう一度あの腕を喰らったら、自分の命が危うい気がする。
しかし、もう一度喰らえば、この苦痛からも解放される気もした。
それほどに今が痛い。辛い。苦しい。
このまま何もしないでいた方が、ずっと楽に——
「……?」
涙で歪む視界に、自分のものではない手が見えた。
あの怪物がわざとそうしたのか、偶然そうなったのかは定かではないが——勇吾は倒れている煌の近くに転がっていた。
彼も傷の度合いは似たようなものだった。それでも自分と比べて、意識がないだけ幸せだと思った。
恐らく、この先に待ち受けている結末は同じ。
次にあの腕が振り下ろされる時は、勇吾だけでなく、煌も巻き込まれる。
勇吾だけなら身を捩って無理にでも逃げられるかもしれないが、意識を失っている彼はそうもいかない。
その時。
(——あ)
ふと気付いた。
もしされるがままになって、死んでしまったとして。
そもそも。
夢を引きずって轢かれかけて。
助けを求める声に惹き寄せられて。
危なっかしいと友人を半ば善意に付け込む形で引き込んで。
大怪我をさせたのは自分だ。
煌を巻き込んだのは自分だ。
だとしたら、これから煌が死ぬのは、自分のせいだ。
(いやだ)
起こってしまう。
夢の中では未遂だったが、今度は本当に。
自分の手で誰かを殺してしまう。
取り返しのつかないことを起こしてしまう。
あの時と同じように。
〈 もっと あぼそう あぼそう—— 〉
「……ぃや、だぁああぁあああっ‼︎」
目前で怪物の腕が振り上げられた時、勇吾は激痛を押して起き上がり飛び出した。
何か考えがあるわけではなかった。
何か思いつく余裕があるわけでもなかった。
彼に出来たのは、倒れる煌の前に立って、少しでもダメージが減ることを祈ることだけだった。
両手を力一杯突き出して、体で受け止めるようなポーズになっているが——正直、あんな膂力を持つ腕を止められるなんて思ってはいない。
ただ、煌は殺させない。
もし自分が死んだとしても、絶対に。
(思い出せ)
昨日の夢。
手からビームを出した時のことを。
両手に力が集まるイメージ。
気休めにしかならないだろう。
所詮は夢の中の出来事だ。
でも、それで煌を守れるのなら。
「ほんの少しでも、止めてやるっ……!」
〈 あぼ そ 〉
振り下ろされる。
それに勇吾の手が触れた、刹那。
——身体中を駆け巡る、万能感と多幸感——
バシンッ‼︎
「うわぁっ——⁉︎」
どさっ、と勇吾はその場に尻餅をついた。
しかしそれは、相手の攻撃によってもたらされたものではなく。
「これ、って……」
勇吾は手のひらから淡い紫色の光が散ったのを間違いなく見た。
あの時、『あかい人影』に放ったのと同じ光。
そして今、体に満ちている力も。
紛れもなく、あの夜と全く同じ——
「神様の、力?」
【第3話に続く】
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