第一章:夢のような話
第1話:意馬心猿
「——おい、勇吾っ!」
「へっ?」
ぐいっと腕を引っ張られてよろめくと、さっきまで自分の立っていた場所の数センチ横を車が通り過ぎていった。
夕暮れの地平線に消えていくそれをぽかんと眺めてしまってから、
「うわ危な……」
「危ねえのはお前だろ」
「お前、朝のホームルームの時もぼーっとして、挨拶の時一人だけ立ちっぱなしで笑われてただろ……帰宅部だからまだマシだが、来年の受験なんて、どうなるかわかったもんじゃねえな?」
「う、ごめん……」
返す言葉もなく肩を縮めていると、煌は「はあーっ」と呆れ混じりのため息をついて、
「何か、そんなに夢中になることでもあったのか?」
「……夢中……」
考えてみれば、確かに夢中だったのかもしれない。
昨晩に見た、同じくらいの年の女の子を助けて、怪しげな人影を撃退する夢。
目が覚めた時は肩を落としたものだが、今でも思い返すほど囚われていたらしい。
何故かって、あの夢は何もかもがリアルすぎた。
少女と『あかい人影』の神様みたいな威圧感も。
力を貰った時の万能感も。
彼女の体の感触も——
「……」
「……お前……」
「えっ何」
じとっとした視線を感じて振り返ると、
「……そういうのは家でやれよ」
「え⁉︎」
顔でも赤くなっていただろうか。
煌は呆れというよりげんなりした表情で勇吾を見ていた。
これには言い返さないわけにはいかないと、「いや」と勇吾は声を上げる。
「違うんだよ! ただちょっと変な夢を見たからさあ……」
「変な夢だぁ?」
それから勇吾は、昨晩見た夢の内容を話して聞かせた。
抱きしめられたシーンは恥ずかしかったので割愛したが、どうにか煌の誤解を解くべく弁舌の限りを尽くすと、
「……」
彼は何を言うこともなく、ただ、何とも言えない表情で黙った。
一日ぼーっとしていた原因のくだらなさに言葉を失っているのか、それともまた何かおかしな勘違いをしているのか、別の理由があるのかわからないが、やがて煌は言った。
「どーでもいいな」
「あ、うん……」
そりゃそうなのだが。
「でもまあ、災難だったな。そんな夢見て」
「え」
思いがけない言葉に勇吾はきょとんと目を瞬かせた。
自分がおかしいのだろうか。
超能力で敵を倒して女の子を救うなんて、男なら誰もが憧れるシチュエーションではないのか。
流石に、人を殺しかねないと実感するほどのリアリティは行き過ぎだが……何を言ってもただの夢だ。
まさか、災難とまで言われるとは。
そんなつもりはなかったが、呟いた声には不満がこもった。
「そう、かなあ……」
「車に轢かれかけるほど意識持ってかれてるんだから、災難だろ、実際」
「……それもそうか」
一瞬で納得させられた。
危なかった。
「ほんとごめん。ありがと、煌」
「……何もないなら構わん」
またひとつ息をついて、歩き続ける煌。
うん、と応えて勇吾も続く。
言葉ひとつひとつに照れも恥ずかしがる素振りも全くないのが彼らしい。
人によっては面白みがないと感じるかもしれないが、そんな彼に勇吾は何度も助けられていたし、このあっさりした性格に憧れていた。
付け加えると、彼の右耳にだけ着けられたシルバーのピアスが、ずっと前からカッコいいと思っていた。本人には絶対に言わないが。
……それにしても。
(こんなに気になるとか、どうしてなんだろ?)
学校を出る頃には流石に忘れているだろうと思っていた。
しかし、忘れるどころか一層気にかかるようになっている。
あの少女の安否。
『あかい人影』の正体。
自分が操っていた力が何なのか。
それだけではない。
今朝、目が覚めた時からずっと、胸がざわついている。
風が肌を撫でるたび、耳を通るたび、目の端に木の葉が通り過ぎるたび——それが何かとんでもない事件のきっかけになるのではないかと錯覚しそうになる。
これから、思いもよらないことが起きるような気がしている。
煌に話せば「気のせいだ」と断じられるだろう。
昨日までの自分だってそう言う。
中二病再発かと突っ込む。
(違う……これは、気のせいなんかじゃない……)
いいや、そんな気がするだけだ。
理性が否定する。
そんな非科学的なことは、それこそ夢の中だけで充分だ。
こんなおかしな予感は、人生に一度だけで充分だ……。
(頭がぐちゃぐちゃだな……)
汗を拭くふりをして夕焼けを遮る。
太陽の光が妙に眩しかった。
針のように脳に刺さって、思考を邪魔されているみたいで不快だった。
何より、自分自身は何も変わっていないはずなのに、あの夢ひとつで変わった気がしている自分が気持ち悪かった。
(……煌に言ってみようかな)
一笑に付されるだろうが——遅い中二病かと言われるだろうが、言わないよりは気が楽になるかもしれない。
このままウジウジ悩んでいるよりはずっといい。
そうしよう。
「ねえ、煌——」
〈 たす けて 〉
「⁉︎」
「勇吾?」
立ち止まって見回す。
小さな子どもの声だ。
男か女かはわからなかったが、弱々しく、消え入りそうだった。
胸のざわつきが強くなる。
「煌、今、子どもの声がした。助けて、って」
「はあ? 子ども?」
煌には聞こえなかったのか、立ち止まった勇吾に合わせて歩みを止め、周囲をざっと見渡した。
「……周りにそれらしいのは見えないが……本当に子どもの声が聞こえたのか?」
「……聞こえた……と思う……」
「どっちだよ」
「え〜、と……」
訝しげな煌の顔を見ていたら、幻聴だったのではないかと不安になってきた。
もう一度聞こえてこないか、耳をすます。
聞こえてこなければ、自分の勘違いだったと笑えるのだが——
〈 だれ か た すけ て )
「ほら聞こえた!」
「何だと……?」
今度こそ確実に聞こえたはずなのに、煌はまだ眉を寄せている。
「なんで聞こえてないんだよ!」
「いや、お前こそ何が聞こえてるんだ? 俺には人の声なんてこれっぽっちも……」
「じゃあ耳が悪いよ! 耳鼻科行った方がいい!」
「んなっ⁉︎ そ、それならお前も行った方がいいだろ! 耳に何か詰まってんじゃねえのか!」
「はあ⁉︎ 詰まってるわけない、昨日耳掃除したし耳垢しか出てこなかった!」
「きったねえな! じゃあ頭が悪いんだろ! 脳神経外科行ってこい!」
「それシンプルに悪口じゃない⁉︎」
〈 たす て けこ こいに る よ 〉
「って、こんなくだらない言い合いしてる場合じゃない! 探さないと!」
「だからお前、本当に何が——」
「聞こえてないならいいよ! 僕ひとりで探すから!」
「——っておい待てって! 勇吾!」
煌の言葉を遮って走り出した。
夕焼けを背にして、聞こえた方向を頼りに駆ける。
どこにいるかさえわかれば、連れてくるなり、警察に連絡するなりやり様はある。
しかし、何をするにしても。
「見つけなきゃ、何も始まらない……!」
大通りを外れ、雑居ビルの路地裏を走りながら、勇吾は聞こえた声を思い出す。
間違いなく子どもの声だった。耳鼻科と脳神経外科に行くべきなのは煌の方だと思う。
しかし、
(なんだか、あの声——)
勇吾は、ざわつく胸の内に、小さな疑念が芽生えていることに気がついた。
あれは何というか、空気に響いて散っていくような、不思議な声だった気がする。
普通の子どもの声だと言われても、肯定し難い……例えるならば、ハウリングしたスピーカーから聞こえてくる、甲高い雑音混じりの——
「……いや、違うだろ」
呟いて、路地を抜けた先、大型ビルの工事現場の前に立つ。
どんな声だったか、今はどうでもいい。
重要なのは、誰かが助けを求めているということ、その一点だけだ。
もう手遅れにはさせないために、
「行くぞ……」
「勇吾!」
「!」
振り返ると、息を切らした煌が追いついてきたところだった。
彼は一度立ち止まってふうっ、と息をつくと、
「俺も行く。お前ひとりじゃ危なっかしいからな」
「煌……」
病院行けとか思ってごめん……と勇吾は内心で謝った。
「……ありがとう。正直、めちゃくちゃ心強い」
「礼は後だ。それより案内しろよ? 俺は聞こえねえんだから」
表情こそ仏頂面だが、その眼差しはいつも頼りにしている友人のものと間違いなかった。
「うん、任せて。行こう」
「おう」
言い合わせ、二人は『関係者以外立入禁止』の看板の横を通り過ぎ、囲いの向こうに足を踏み入れた。
【第2話に続く】
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