プロローグ➁
八歳の時に両親を事故で亡くした『一ノ瀬 青葉』こと――私は、十歳年の離れた兄と二人で暮らしていた。
両親の保険金があったお陰で、路頭に迷うことなく二人で生活することができていたが、大学に入学したばかりの兄は、私が将来困ることがないようにと、学業だけでも大変だったろうに、深夜と早朝のバイトを掛け持ちしていた。
勿論、私の面倒をきちんと見ながらである。
兄の大切な青春時代は、私に消費されてしまったと言っても過言ではない。
それなのに愚痴一つ言わず、いつも優しくしてくれた。
私が十八歳になった時。兄の結婚をきっかけに家を出て、一人暮らしを始めた。
兄は最後まで反対していたが、無理矢理それを押し切った。私から解放されて、自分の幸せだけを考えるべきなのだ。
兄の選んだ女性は、義妹とはいえ、赤の他人である私にまで心を砕いてくれるような、とても優しい人だったから尚更だ。
……これ以上、兄のお荷物にはなりたくなかった。
運良く就職できたIT系の会社は、とても忙しいところで、朝から深夜まで必死に働かなければならなかった。
限りなくブラックに近い会社だったが、わたしは辞めようと思わなかった。
団結しないとやっていけない状況だったせいか、人間関係は良好で、残業した分は僅かながらも報酬が貰えたのもあるが、忙しく働いていれば、一人でいるのが寂しいと思う時間が減るからだ……。
思いがけず突然降って湧いた休日に、出かけるのも億劫だった私は、ダラダラしながらネットサーフィンをしていた。
その時に、たまたま目にした『悪役令嬢』なるジャンルの小説を読み始めた私は、その世界にのめり込んだ。ありとあらゆる悪役令嬢ものを読み漁り、更には乙女ゲームの沼にもどっぷりとはまった。
数多の困難の果てに幸せになるヒロインを祝福しながら、断罪されてしまった悪役令嬢達の不遇さを嘆き悲しむ日々――。
ただでさえ仕事が忙しいのに、更に趣味にも忙しくなってしまった私に、恋人なんてできるはずもなく、『そろそろ地元に戻って来きて結婚でもしろよ』という兄からのメッセージを聞き流したまま――気付けば二十七歳になっていた。
……寂しくなんてない。
私には小説や乙女ゲームがあるから。
――あの日。
連日の深夜残業でくたくたに疲れていた私は、歩きスマホがよくないことだと十分に分かっていながらも、仕事で疲れた心に癒やしを与えるために、カバンの中からスマホを取り出して、お気に入りの小説投稿サイトを開いた。
「あ、
小説家であり、乙女ゲームのシナリオライターでもある蒼井カンナ先生のファン待望の新作は、自身の大人気乙女ゲーム『聖なる乙女の祈りは
「氷公爵が相手……って、マジか……。ヒロイン大丈夫?」
氷公爵こと――『ルーク・フォレスト』。
ルークのヒロインへの執着愛は、半端なかった。
ハッピーエンドなら、愛する夫と領民達に囲まれて、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。――で終わるのだが……バッドエンドは、目も当てられない結果になる。
ルークのルートのみに何故かバッドエンドが複数個も存在していただけでなく、ハッピーエンドにするのが物凄く難しい人物である。
因みに――他の攻略対象者はハッピー、ノーマル、バッドエンドの三パターンしかない。
「………………」
……いやいやいや!大丈夫!
これはあくまでもハッピーエンド後の話なのだ。
疲れ切った私の心には、激甘い糖分が必要なのだ!!
ハッピーエンドにするのが難しい分、ルークの溺愛ぶりは凄いはずだ。
「絶対読む!ていうか、今読んじゃうもんね〜!」
私の疲れを癒しておくれ!
「ええと……なに、なに〜。ルークには年の離れた妹が一人いた。両親に先立たれたルークは、唯一遺された家族である妹を溺愛していた」
歩きスマホしていることをすっかり忘れて、夢中で小説の文字を目で追う。
それはひとえに人通りが少ない時間帯だからできたことだったが、小説に夢中になりすぎていた私は、この先にある地下に長く伸びた地下鉄の階段の存在をすっかり忘れてしまっていた。
「『溺愛されて育った妹は、兄が連れて来た聖なる乙女が気に入らず、執拗な嫌がらせを始める。嫌がらせはどんどんエスカレートしていき、遂には紅茶に毒を混ぜてしまう。最愛の人の命を奪おうとした妹に激怒したルークは、サディスティックで有名な部下に妹を嫁がせて――』」
その日は運の悪いことに、いつもの動きやすいぺったんこヒールのローファーではなく、ヒールの高いパンプスを間違えて履いていた。
「ちょっ!お前、こんな所で水溢すなよ!危ないだろうが!」
「わざとじゃねーし!このペットボトル柔らかすぎて、蓋開けにくいんだって!」
「それなー。油断すると潰しちまうからな。……まあ、すぐに乾くだろうし……大丈夫か」
「ただの水だし、大丈夫だーって!」
――そして、更に運の悪いことに、地下鉄の入口の階段がたまたま濡れていて、滑りやすくなっていた。
「『妹はサディスティックな夫から、拷問のような行為を受けた末に死亡した――』って。妹ちゃん、酷すぎない!?…………え?」
物語が架橋を迎えた時に、夜中であることを忘れて思わず叫んだ私は、叫んだ勢いで一歩踏み出した足をつるりと滑らせ、そのまま階段を転がり落ちた。
「………」
頭の下にジワリと生温かい感覚が広がっていく。
身体は全く動かないが、不思議なことに痛みは感じなかった。
次第に薄れゆく意識の中。
「大丈夫ですか!?聞こえていたら、返事をして下さい!」
バタバタと騒がしくなる周囲を他人事のように感じながら、頭に浮かんだのは兄の顔だった。
「……お……にい……ちゃ……」
最期に一目だけでも会いたかった。
新しい家族を見つけた兄の元にはもう私の居場所なんかないのだと、変な意地を張らずに会いに行けば良かった。
もうすぐ三人目の子供が産まれると言っていたのに、一人目の時も二人目の時も仕事の忙しさを理由にして、出産祝いを送っただけだった。
兄は『たった一人の妹なんだから。家族なんだから、いつでも戻って来い』と言ってくれていたのに……。
「しっかり!間もなく救急車が到着します!気を確かに持って下さい!!」
正しく甘えられなかった意固地な妹でごめん。
こんなうっかり死んでごめん。
悲しませてごめん。
「……ご……め…………ん」
温かな涙が冷たくなった頰を伝った瞬間。
私の意識はそこで途絶えた。
――どうして、こんなに大切なことを忘れていたのだろうか。
青葉はわたしの前世だったのに……。
あの時に不注意で階段から落ちた青葉は、きっとそのまま死んでしまったのだろう。
一度ならず、二度目の死因も階段からの転落死なんて……全く笑えない。
……って、あれ?
過去の記憶の再生が全て終わったのか、ゆっくり流れていたはずの時間が、急に元に戻ったのを感じた。
ちょ……!ちょっと待って!?
もうちょっと感傷に浸る時間とか無いわけ!?
これがわたしの最期になるかもしれないのに……!!
目前に迫る床。
全身を床に叩きつけられる衝撃に怯えて、ギュッと瞳を閉じて体を縮まらせた私は――――幸運なことに、二度目の衝撃を味わう前に意識を失った。
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