6. 母と子
静かな昼下がり。
部屋で一人酒を飲んでいたわたしのところに突然訪ねて来たのは、友人であるキャロルだった。
「あらキャロル。あなたも一杯やる?」
「いいえ、わたしは結構だわ」
細かいウェーブのかかった赤毛をかきわまし、彼女はわたしの向かいの椅子に座ってほおづえをついた。
「ねぇアリス。ジャムの一人暮らし、家出だったって知ってた?」
「あら、家出?」
「らしいわよ。エダのところに置き手紙して。まぁ、家出っていうか自分で生活するから出ていくことにした、って程度みたいだけど」
「ふーん。でも、それはそうでしょう。だってジャムはわたしたちのこと好きだもの」
それにしても、ここ最近見かけないと思っていたが、エダにも断りなく強行していたとは。
心当たりはある。ジャムには一人暮らししたい理由があった。一人で部屋を借りようかと迷っていたのをわたしは知っている。その理由はもう、なくなってしまったようだけれど。
それでも泣いて戻って来ないのは、大人へ向かって歩いているからなのだろう。
「自分で生活するなんて可愛いじゃない。ジャムももうそんな歳になったのねえ」
つぶやくようにわたしは言って瞳を細めた。時の経つのは早いものだ。もうあれから十七年も経つなんて。
一人暮らしして、そのために仕事もして、そういう責任感が出てきたのなら良かった。
「ほんとね。十七年だって……歳をとるはずよね、わたしたちも」
キャロルもしみじみとして、ため息をついている。
大人になるにつれ、辛い出来事に出会うこともあるだろう。ジャムはつい最近人生で初めて深い傷を負った。泣いたり酒を飲みすぎて潰れたりなにも食べなかったりとまあまあな騒ぎだったのだ。
でもちゃんと前を向いて立ち上がった。もう比護してあげるだけの子どもではないのだ。
「あの子も一人立ちするのね。寂しいわ」
心底寂しそうにそう言ったキャロルに、わたしは笑いかける。
「でも、あの子にとっての母親はわたしたちだけよ」
ジャムは優しい子だ。決して自分の母親たちを忘れてしまうような薄情者ではない。それは皆わかっていることだ。
「自満の息子だわ」
* * *
わたしがジャムに初めて出会ったのは、今のジャムと同じ十七歳の時。
「ねえ、その子、どうしたの?」
その当時、わたしは他の仕事仲間四人と一緒に暮らしていた。そのうちの一人、エダがなんと亜人種の赤子を抱いて帰って来たのだった。
抱かれた腕の隙間から垂れているしっぽ。普通の人間にはないものだ。
そのしっぽがぷるると震えた。
「え? 途中で拾っちゃったの。だって捨てられてて、寒そうにしてたから」
あれはそう、春の半ば頃。夜がまだ冷えていた頃のことだった。
ほら、と言ってエダが見せてくれたのは一枚の紙切れ。それには、その赤子をわけあって捨てるので、どうか拾った方は育ててあげて下さいという自分勝手なことが書き殴られていた。
わけあってと言うが、理由などおそらく一つ。この赤子が亜人種だからだろう。
「夜寒いじゃない? だから連れて来たの」
「まぁ、いいんじゃない?」
そう言ったのはケイトだった。
「明日治安警備隊に届ければいいんだし。それよりその子、見せてよ」
「いいわよ。どうぞ」
エダがさし出した赤子をわたしが受け取る。それを他のケイト、キャロル、リンダがのぞき込む。
熱く感じるほどに高い体温と、やわらかな肌の感触。
「猫科亜人種かしら。かわいい子ねー」
それがわたしの第一印象。なんて愛らしい子なんだろうと本気で思った。
その赤子には、猫の耳としっぽがついていた。特に珍しくもない、亜人種としてはよくいるタイプだ。
だけれど、皆じっとその赤子を見つめていた。あまりにも可愛らしかったから。
「こんな可愛い子捨てるなんてバチ当たりよね」
リンダがそう言い、わたしの腕の中から赤子を抱き上げる。
「そう思うわよね。そこでね?」
突然、わたしたち四人の間からエダが首を出し、皆を見回す。
「一つ相談なんだけど」
「なあに?」
そう聞き返したキャロルの顔には笑みが浮かんでいた。エダの言わんとすることがわかったからだろう。
いや、みんなわかっていた。わたしだって。
「この子、わたしたちで育てられないかしら?」
やっぱりだった。そして、わたしたちは一も二もなく賛成した。
「だってね」
エダは照れたように笑って、赤子を見つめる。
「だって帰ってくる間中この子の寝顔見てたら、なんか惚れちゃって」
赤子に惚れた。その表現は普通なら使わない。けれど、その時はわたしも皆もその表現が正しいことを理解していた。
だって、わたしたちも赤子に惚れちゃったんだから。
「じゃあ、名前決めましょう! 名前」
赤子をしっかり抱いたまま、リンダが明るく言い放つ。
「わたし、この子の名前が呼びたくてしょうがないわ」
「賛成。なんにしましょうか?」
名前。名前は大切なもの。一生一緒にいてくれるもの。
だから、ピッタリの名をあげたい。
「はい、リンダ」
「どうぞ、キャロル」
学校の先生と生徒のように二人はふるまい、笑い合った。
「シティーラなんてどう?」
「却下」
「どうしてよ〜! ちょっとエレガントに決めてみたのに」
そう文句を言ったキャロルは、エレガント? というケイトの突っ込みに口を閉じた。
「この子はこんなに可愛いんだから。もっと可愛い名前がいいわよ」
そう言ってキャロルを見るケイトの瞳は半眼になっている。
ケイトは普段はそんなにお喋りじゃない。そのケイトが意見するときは本気の時だ。
「わかったわよ〜。じゃあ他にある人〜?」
キャロルは負けを認めたらしい。さっさと司会者側にまわってしまった。
もちろんわたしも考えた。けれど、どれもなんとなくこの子にはふさわしくない気がしていた。
そうやって全員で悩み出したその時。
わたしは何気なくテーブルの上に視線を動かしてあるものを見た。そして、思いついてしまった。
この子にピッタリの名前を。
「はい」
申しわけ程度に左手を上げて挙手。
「どうぞ、アリス」
先ほどのリンダの真似か、まったく同じことを言ってキャロルはわたしをうながしてくれた。
「ジャム」
「 え?」
「ジャム。ね、ピッタリだと思わない?」
奇妙な間。そして。
「ジャムかぁ〜。いいわねー」
真っ先に賛同してくれたのはエダだった。にっこりした彼女はうんうんと頷いたりしている。
「そうね、なんかピッタリ」
リンダも頷き、キャロルと顔を見合わせて頷き合う。その様子を見て、ケイトがそれに決めましょうと太鼓判を押す。
「ねえでもアリス、よく思いついたわねー」
心底感心したようなキャロルの言葉に、わたしはテーブルを指差した。そこには、瓶に入った使いかけのマーマレードジャム。
……みんな呆れた。
そんなこととは知らず、わたしたちの可愛い息子ジャムはおだやかな寝息をたてていた。
* * *
「ハーイ、ジャム!」
ジャムは、酒場のカウンターで肉を頬張っていた。ごくごくと飲みほしているのは水だ。
「アリス!」
「久しぶりじゃない、不肖の家出息子」
なぁんて、ちょっとからかってから彼にウィンクをしてみせて、となりの席につく。わたしは遠慮なく
「家出って……そんなものじゃないってば」
「あら。置き手紙までして出ていって顔も見せないんだから立派な家出でしょう」
「ごめん、悪かったよ。顔は出すようにするからさ」
「よろしい」
ジャム。わたしたちの一人息子。大きくなったわ。背はせいぜいわたしと同じくらいしかないけど、それもまた可愛いところ。特別低いってわけでもないしね。
あの時、ジャムに一目惚れしたわたしたちは正しかった。だってこんなに素敵な宝物を手に入れることができたんだから。
「今日は酒じゃないのね」
「からかわないでくれよアリス〜心配かけて悪かったよ。けどさぁ……はぁ……」
急にシュンとしてテーブルに突っ伏したジャムの頭をなでる。
わかりやすくまだ引きずっている様子だ。でも、こうしてちゃんと言葉に出来てるんだから立派だ。きっと乗り越えられる。
「ねぇージャム。あんたも大きくなったわよね」
「はぁ? なんだよいきなり」
ジャムは思いっきり怪訝そうな顔をして首を傾げた。ふふ、そんな仕草するところも可愛いわ。
「キャロルが寂しがってんのよ、あんたが一人立ちするって」
「キャロルが?」
「そう。実はわたしもちょっと寂しいけどね。だって一人暮らしする理由もなくなったし、泣いて戻って来るかと思ったのよ」
そう言ったら、ジャムはなんだか複雑そうな顔をした。
「でも戻って来なかった。ああ、ジャムはこれから自分の世界を自分で作り上げて行くんだなって思ったらさ」
「いや俺、みんなに甘えてばっかりだったから……」
「大丈夫よ、わたしもキャロルも、いつかはジャムを一人立ちさせてやんなきゃいけないってわかってるから」
「うん」
ジャムは頷き、水ををぐいぐいとあおってから、わたしを見る。
「でも俺、みんなのことはずっと大事だよ。俺の母さんはアリスたちだけだから」
やだ、ジャムったらまた可愛いこと言ってくれちゃって。
こういうことを素直に口に出来ちゃうところが、ジャムのいいところよね。
「知ってるわよ。わたしたちの息子もジャムだけよ」
そして、ちょっと二人で笑い合った。
ジャムはわたしたちの手を離れて旅立つ。けれど彼も、わたし達も知ってる。
わたしたちは、かけがえのない親子だってこと。そして、ジャムがどこにいたって、なにをしたってわたしたちはジャムの味方だってこと。
世界中がジャムから背を背けても、わたしたちだけは彼のことを両手を広げて迎えてあげられる。
いつだって。
「ねえ、ジャム」
「うん?」
たった一言だけで、わたしたちの気持ちは通じる。
「愛してるわよ」
【第三話 ディアマンティナの逸話 完】
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