1-2 日本という国は何と不平等で救いがないのだろう

 199X年、10月。


 このまま「凡人よりもだいぶ下の、ずっとうっすら不幸な人生」を歩む筈だったとし子の人生の転機は、高校卒業後に更生の為と親に無理やり入団させられたアマチュア劇団に【達川】というアニメ監督がふらっとやって来た事で訪れた。


 達川は劇団の主宰者・遠藤の高校時代の卓球部の後輩であった。

 入部届を提出しに部室にやってきた新入生の達川に、部長がカップ酒をグビグビやりながら「コイツ、みんなのオモチャ。お前も先輩扱いしなくていいからな」と殴られて顔を腫らした遠藤を紹介したのが二人の出会いである。

 それでもしばらくの間は遠藤を先輩として扱っていた達川だが、3日経った辺りから徐々に会話の中にタメ語が混じり初め、1週間経った頃には特に理由もなく遠藤の後頭部をはたきながら「お前さぁ、マジ死ねよぉ」などと軽口を叩いていた。

 あっという間に逆転した関係性は、その後2人が卒業するまで変わる事はなかった。


 交通整理のバイトをしていた遠藤が不運にも飲み会帰りでベロンベロンの達川に見付けられてしまったのは、それから更に32年後の事であった。

 歳をとって髪の毛と活力を失った遠藤と、品性と良識を失った達川の間には平等に同じだけの時間が流れていたが、両者を隔てる格差は途方もなく大きくなっていた。


「あれぇ?遠藤じゃん!」


 過去の忌まわしき記憶を瞬時に呼び覚まされ、反射的に顔をしかめて目を逸らした遠藤の膝を、達川は手加減なく蹴りつけた。「人違いだったらどうしよう」などという遠慮は微塵もない。酔っているからではなく元々そういう人間なのだ。


「遠藤だろ!?おお!?返事しろよお、おい!」

「…………」


 警備員仲間の年寄り達は遠藤が酔っ払いに絡まれている事に気付きはしたが、止めに入る勇気も体力もないので皆示し合わせた様に見て見ぬ振りをした。


「お前さあ、こんなトコで何やってんの!?」

「し………」

「はぁ!?」

「…………仕事です。」


 遠藤は己の不甲斐なさを噛み締めるかの様に弱々しく答えた。

 若い頃から頭も悪けりゃ要領も悪く体力も無ければ度胸もなく、五十幾年の人生の大半を負け犬とそしられながら過ごしてきた。

 恐らくは今後も幸薄かろう人生なら、せめてその生い先短い時間くらいは心穏やかにつつがなく過ごしたかった。

 ……それなのに。

 それなのにここでこんな奴に……達川に、その穏やかな余生を踏み荒らされるなんて。なんて事だ。


「え……えっと……ああ……あの…。」

「変わらず覇気のねえツラだなあオイ!」


 達川は金持ちの小学生が貧乏で小遣いを貰えない同級生をイビる様な口調でヘラヘラと遠藤をなじった。

 2人がもし小学生であったなら、遠藤の頑張り次第で二人の関係性が逆転する事もあったかもしれない。が、今アラフィフの2人の間にある格差は今後より大きく広がりこそすれ、縮まる可能性は限りなく低い。


「あ…あの……劇団の運営する資金を稼がないといけなくて……。」

「はぁ?お前劇団なんかやってんの!?」

「は、はい………」

「ぶわはははははははは!」


 達川は沿道を指差し、今日イチの大きな声で達川を嘲笑った。達川が項垂うなだれたのを見て嗜虐心に火がついたのか、達川はもう一度遠藤の脛を強く蹴り付けた。遠藤は鼻の奥から「んがっ」と豚の様な悲鳴をあげて遠藤を更に笑わせた。


   ◆


 高校生活の3年間を虐められながら過ごした遠藤は、そんな自分を変えたいと20才の頃にアマチュアの演劇サークルを立ち上げていた。


 ミニコミ誌で集った同好の士は「プロの世界に飛び込む勇気はないけどお芝居ごっこはやってみたい」という怠惰で自堕落な若者や「最近テレビドラマ見てたらみんな退屈な芝居ばっかしよるでしょ。あれくらいなら私も出来ると思うんですわ。」と俳優業をナメにナメているジジババなどといった片田舎の掃き溜めの住人の見本の様な奴らばかりだったが、どうにかこれらの難物共をなだめてスカして引っ張って100万円程の借金をこさえつつ旗揚げ公演を敢行したところ、何と市の文化コンクールの奨励賞を受賞してしまった。

 賞金も商品も出ず、貰えた物といえば薄っぺらい賞状一枚のみというしみったれた賞だったが、それでも幼少期より無数の人格否定と迫害に晒されて来た遠藤にとっては、身に余る、かけがえのない、そして……唯一の成功体験だった。


『かつての自分の様に、イジメに遭っている子供達に夢や勇気や元気を与えたい!』


 このサークルを母体としたアマチュア劇団を率いての公民館や児童会館でのボランティア公演がその後の遠藤のライフワークになった。金にならない劇団の運営はどうやら今生の内に返せなさそうな額の借金を遠藤にもたらしたが、それでも生涯をかけて打ち込める物にようやっと出会えた喜びの方が遠藤にとっては大きかったのだ。


   ◆


「子供の純粋な反応を見る度に心が洗われるんです。僕が今まで悩んできた事や苛まれて来た事なんて、ちっぽけでくだらないんだって。」


 遠藤の身の上話を、達川はタバコを吹かしながら半笑いで聞いた。その表情は労いや慈しみではなく、30年近く前の安っぽい思い出に縋り付き、自分の人生がとうに詰んでいる現実から目を逸らす初老男への嘲りに満ちていた。


「客層は主にガキか?」

「まぁ主にお子さんと……あと、お年寄りですね。」

「へぇ、奇遇だな。」

「……奇遇……ですか。」

「俺も今、アニメの監督やってんだよ。」

「そうなんですかぁ……………………え!?アニメ!?」

「何だよその反応は!」


 遠藤の反応に機嫌を損ねた達川は、吸っていたタバコを達川の手のひらに押し付けた。


「ああっ!」

 手袋をしていたので熱くはない。が、この手袋は警備会社からの支給品なのだ。こんな事をされては弁償させられる。また借金が増える。


「あ…アニメってのは…?」

「ガキとオタクから金を巻き上げる愉快な仕事だ。」


 遠藤は耳を疑った。


(こんな人格破綻者が…子供達に夢を与える、アニメの制作者…!?)

「流石に映画監督だの芸能界のプロデューサー様みたく大女優やモデルを愛人に囲ったりは出来ねえが、売れる為にゃ手段を選ばなかったり押しに弱くて事務所にも守って貰えない声優ぐらいなら余裕で喰えるぜ。」


 かつて自分の事をあれ程までに苛烈に虐げた達川がこうしてまた自分の前に現れ、真摯に舞台と向き合いながら苦しい貧乏生活をしている自分に自分の何倍もの金を稼いでいる現実を突きつけ、尊厳を蹴りつけに掛かって来るなんて。

 日本という国は何と不平等で救いがないのだろう。


「しっかし、お前んとこの劇団の若いのはお前の何をそんなに尊敬して付いて来てんだ?」

「ええ……。なんかみんな、ついて来てくれてるんです。」

「誉めてねえよ。勘違いすんなボケ。どいつもこいつも馬鹿過ぎて救えねえな、っつってんだ。」

「……すいません。」

「ホント訳わかんねえなぁ、場末の劇団員って連中は。」


 達川は矢継ぎ早に言葉を紡いで遠藤のプライドを容赦なく踏み躙り、そのついでに劇団員達の事をも痛罵した。

 遠藤の人生が、夢が、希望が、生きる理由が……全てが、突如現れた下品で粗野な酔っ払いによって徹底的に否定され、破壊されていく。

 重ねて言うが達川は酒を飲んでいて言葉のパッキンがバカになっている訳ではない。元々こういう人間なのだ。遠藤もその事は重々承知している。恐らくシラフでも全く同じ罵詈雑言を遠藤にぶつけ、その尊厳をメッタ打ちにした事だろう。


「お前みたいなのについて来る様な盲目バカ共ってのはどんなツラをしてるんだ?ちょっと拝んでみたくなってきたな。」

「はあ…?」

「稽古つけに行ってやるよ。来週水曜18時な。稽古場はどこだ?」

「えっ!?」

「えっ、じゃねぇよお前。いい年コいて目上のモンへの口の利き方も知らねえのかよ。」


 達川は高校の先輩の遠藤を明確に目下扱いした。


「す、すいません。でも……」


 達川の恐ろしい提案に、遠藤は一際色濃い狼狽と困惑の表情を浮かべて沈黙した。

 勿論常設の稽古場なんぞ持っていないので稽古はどこぞの多目的ホールやアトリエなどをお金を払って借りなければならないが、そんな急に場所を押さえろと言われても金もなければバイトも休めないので困る。

 が、これ以上好き勝手に痛いところを突かれると年甲斐もなく泣いてしまいそうで何も言えない。


 遠藤はさらにそのまま数秒黙り込み、この酔っ払いが気まぐれに「嘘だよバーーーカ!」と笑い飛ばしてくれる様願った。

 学生の頃、達川は遠藤をどやしつけたり脅しつけたりしてさんざっぱら遊んだ後「嘘だよバーーーカ!」と言って、怯え切った遠藤の情けない顔を指をさして嘲笑う遊びをよくやっていたのだ。


「……………ああ?何つった?聞こえねえよバカが!」


 遠藤は一言も発していないのに、酔っ払って勝手に幻聴を聴いた達川に思いっきり後頭部を殴られた。ヘルメット越しに脳を揺らされて視界が霞み、しばらく元に戻らなかった。

 どうやら、悪夢はこの一夜では終わらないらしい。

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