第13話 秘密の時間
『もしもし』
「アンナ、どうした?」
『1時間くらい遅くしてもらってもいい?』
「わかった……でもどうして?」
『ごめんなさい、まだお父様への根回しが終わっていないから……シュウがすぐに到着しちゃうと……ちょっとアレだからね?』
「問題ないよ。婚約を認めさせるためには……タイミングも重要だろうし」
『ええ、そうね。ありがと……』
「じゃあ、時間は19時から20時に変更にして、待ち合わせ場所は――」
ラカンドール噴水の前で――そう口に出そうとして言えなかった。
なぜならば、いつの間にか立ち上がっていたオフィリア王女が「あっ」と言ったのが聞こえたからだ。
いや、それだけではない。
薄暗い視界の端に何かが降ってくるのが見えた。
予想通りに、バッシャンという音とともに目の前が真っ赤に染まった。
ポタポタと甘酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐった。
すぐにワインだとわかった。
なんせ先週飲んだばかりだったから、よく覚えている風味だ。
「も、申し訳ありませんっ!初乗車ということを記念してワインを開けようとしたのですが――」
すぐに焦った声とは対照的に口元を歪めたオフィリア王女の姿が近寄ってきた。
『ねえ……どうかしたの?』と魔具からアンナの心配そうな声が聞こえてきた。
「いや、大丈夫――」となんとか平静を装って答えようとした――が、またしてもいえなかった。
「シミになってしまいますから、さあ、『汚い』ローブをこちらへ!」
『ねえ……シュウ?そこにいる女はだれ?』
「あ、アンナっ!誤解なんだ!」
「シュウ様、すぐに脱いでくださいっ!」
オフィリア王女はなぜか懸命にローブを脱がせようとする。
しかし豊満な胸が当たっていることに気がついていない。
流石にこの態勢はまずい。
「少し離れてくれ!」
引っ付く王女を引き剥がすように横へと押し退けた。
するとどこか柔らかな感触がした。
そう感じた瞬間——
「あっん」
喘ぐような声がオフィリア王女から漏れた。
……あ、終わった。
『……サイテー。私が婚約を認めてもらうために必死になって反対派閥に根回している間に浮気?』
「ご、誤解だっ!少し話を――」
『シュウも……そこの女も絶対に許さないからっ!』
「待ってくれ――」
ツーツー、という無機質な音が返ってきた。
すでに魔具同士の通信魔術が切られている。
あのプライドの高いアンナのことだ。
きっと簡単には許してくれないだろう。
もしかしたらこのまま別れることになるかもしれない。
今の所、アンナとは結婚していない……当然、クレスファン家からも援助を受けていない。
だからこそ財政難のオレの実家の未来も遠くないうちに終わる。
流石に王宮魔術師になって1ヶ月ほどのオレの給与では領地を立て直すことはできやしない。それに、近い将来かかる妹たちの就学費用すらも工面できない。
ほんとに……ここで終わりかもしれない。
そんな絶望的な表情を察してか、サディスティックな雰囲気を醸し出したオフィリア王女がオレを見下すように見た。
「ふふ……申し訳ございませんでした」
「あんた……わざとだろ」
「いえいえ、本当に手が滑ってしまいまして」
「っち」
「ふふふ」
オフィリア王女のラベンダーの瞳が涼しげに細められた。
くっそ……楽しんでいるのか。
「そもそもなぜ今更、オレに構う?」
「ふふふ、まさか魔術学院を卒業してからわたくしとお会いできなかったことを根に持っているんでしょうか……?」
お可愛いこと、オフィリア王女はくすくすと小さく笑った。
そして、すぐに雰囲気が変わった。
気がついた時には、すでに遅かった。
ガシッとオレの両肩に小さな手が乗せられていた。
そして、オフィリア王女はオレをソファーへと押し付けた。
「――くっ」
背中がソファーに押されて、肺から空気が押し出された。
くっそ……意外と力がある。
小柄で線の細い身体だから油断していた。
こんなにも細い腕に力があるとは思わなかった。
いや……重力操作系の魔術でも使用しているのか。
吸い込まれてしまいそうなほど大きなラベンダーの瞳が間近で覗き込んでいる。
まるで一瞬の隙も逃さない獲物を狙う猟師のように数秒ほどじっとしていた。
唇どうしが触れてしまいそうなほどにシミひとつない整った綺麗な顔が近づいてきた。
わずかな呼吸の音でさえも聞こえきそうだ。
奇妙な情態のまま数秒ほど経過してから、小さな桜色の唇が動いた。
「このままここで終わってしまう関係なのでしたら、それまでの愛情だったということですよ?」
「それは……どういうことだよ」
「ふふふ、さあ?」
オフィリアはオレの言葉を無視して立ち上がった。
そして、おそらく冷蔵庫らしき魔具の隣に置かれていた通信用の魔具らしきものを手に取った。
くっそ……なんなんだよ。
それにあの締め付けれるような圧迫感はなんだったんだ?
いやそれよりも、この馬車は本当にお試し用の馬車なのか?
王族専用……いや、オフィリア王女専用の馬車なのではないか。
そんなことが脳裏に浮かんでいる間、チラチラとこちらの様子を伺いながら話をしているオフィリア王女と視線が合った。
ニヤッと口元を歪めたような気がした。
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