39、咲耶家①

 千穂が前を向くなり、彼女の数歩先に巨大な和風建造物が現れた。蜃気楼のようにゆらゆらと立ち上ってきたそれは、何度か瞬きすると確固たる家屋として存在していた。まるで、以前から変わりなくそこに在ったかのように。僕が住んでいる四階建てのアパートが丸々六つは入るくらいの規模だ。いや、山の下から見上げているから全貌はわからない。実際にはもっと大きいのかもしれない。

「これが、千穂の家」

「うん。今まで守りの呪いで隠していたけれど、わたしが敷地内に入ったから健太くんにも見えるようになったんだ」


 千穂はそういうと、僕の右手首を握る。とっさのことで、反射的に身体を固くしてしまった。

「ここから先は、手を繋いでいこう。わたしから離れると危ないし、何よりわたしと直接接触していたほうが呪いの影響は受けにくいはず。健太くんは、触れられて大丈夫?」

 前回小屋まで行ったときのように気持ち悪くなっていないかという意味では大丈夫だが、好きな女の子に触られているという意味ではあまり大丈夫ではない。体調面に支障がない分、どうしても意識はそちらに傾いてしまう。それにしても、決して衛生的とは言えない僕に触って、千穂のほうこそいいのだろうか。

「千穂」

「うん? なに?」

 首を傾げる彼女にまた心臓がうるさいくらいに鳴り始めたが、なんとか無視して言葉を続ける。

「手首じゃなくて、手、つなごう。僕の手首、ずっと洗っていないから汚いよ。そんなところを千穂に持たせたくない。手首より先なら一応外から帰った時洗うようにしてるから、汚くないと思うけど」

「わたしは、あんまり気にならないけどな。健太くんがそういうなら」

 千穂は明るく答えて、手首を握っていた手をするりと手のひらへと滑らせる。普通の“手をつなぐ”形になり、彼女はくすくすと笑う。

「こうしていると、親子みたいだね。健太くんとわたしは同い年だから、親子っていうのも変だけど」

「ううん。千穂がそう思うなら、そうかも」

 さっき千穂に口数が多くなったとほめられたばかりなのに、それしか返すことができなかった。異性と手をつなぐシチュエーションは、小学生の近隣への校外学習とか、僕には縁がないけど彼女とのデートとかのほうが思い付きやすい。でも、外に出たことのない千穂にとっては親と手をつなぐというのが、唯一の接触機会なのだろう。そう考えると何だかやるせない気がして、続ける言葉が出てこなかった。決して千穂との手繋ぎに動揺したわけではない、と思いたい。

「じゃあ気を取り直して、行こうか」

「うん」

 僕たちは一歩、家の敷地へと足を踏み出した。


 竹垣に囲まれた空間に踏み入ると、水中に潜ったかのような圧をわずかに感じた。心なしか呼吸も少し苦しい気がする。しかし、千穂に申告するほどしんどいものではなかったので、黙って彼女の半歩後ろを――手を繋いでいるので、必然的に僕たちの距離は縮まる――ついて歩いた。イワナガヒメも今は特にコメントすることがないのか、静かにしている。

「今日はお父さん、書斎に引きこもっているから別に挨拶もしなくていいって。結果だけ教えてくれればいいって言われてるから。だからあんまり気を使わなくて大丈夫だよ。あとここで靴、脱いでね」

 千穂は土間の縁を指し示す。僕たちは一旦手を離して、それぞれ靴を脱いだ。もっとも千穂は下駄なので、作法を気にしなければ手をつないだまま脱ぐことも可能だったかもしれない。

 つないでいた手を離した瞬間、水の中にいるような圧迫感がより強くなった。短距離走を走った直後くらいの息苦しさが押し寄せてきて、慌てて千穂と手をつなぎ直す。彼女の手に触れたとたんに、強烈な圧は潮が引くように去っていった。

「健太くん、大丈夫?」

「うん。いま手を離したとき、かなり呼吸がしんどくなったけど、今は平気かな。行けるよ」

「わかった。母屋には外せなかった守りの呪いがいくつも残っているから、特にしんどいかも。一応ゆっくり行くけど、無理そうだったら遠慮しないで言ってね。健太くんの身体を傷つけたくはないから」

「ありがとう」

 再び立ち上がった僕たちは、母屋だという建物の廊下をゆっくりと歩く。歩くたびにキシ、キシと鳴る木の廊下はかなりの年季を感じさせられた。


「咲耶家の人たちって、いつからこの家に住んでいるんだっけ?」

 今あまり関係ない質問を口走ってしまう。しかし千穂は気を害する様子を見せず、うーんと首をひねる。

「わからないけど、うんと前からだと思うよ。家自体も明治時代とか、いやもっと前からあるかもしれない」

「じゃあ、重要文化財とかになってたりは……」

 思わず、床を踏みつける足がすり足になる。大昔からある建造物なら、滅多なことをして傷つけてしまうわけにはいかない。

「いや、それは大丈夫。健太くんも一回体験してると思うけど、咲耶家以外の人が近づいても、家屋は見つからないようになってるから。いくら古くたって、そういうものに指定されることはないんだよ」

「でも、攻撃する呪いも守りの呪いもなくなれば、建物だって隠す必要はなくなるよね? そうなったら、脇の柱とか、貴重なものだって認定されるかもしれないよ」

 僕はちょうど通り過ぎたところにある、黒い柱を指差した。いつからそこに在るのかわからない、年輪が浮かびあがった柱は艶があり、おいそれと触るわけにはいかないような威厳を醸し出している。

「そっか。これから健太くん、いやイワナガヒメとする話によっては、そうなる可能性もあるんだね。わたし、自分のことばっかり考えていて、家のことまで思いが及んでなかった。色々考えなくちゃいけないね」

「うん。でも、それが普通の生活を送るってことなんだと思う。いいことだよ、きっと」

「そうだね。……そろそろ着くよ、居間に」

 千穂の呼びかけに、僕は改めて気を引き締める。おそらく居間には、コノハナサクヤビメのお札が置かれている。そこに近づけば、イワナガヒメが咲耶家の呪いの仕組みを見抜けるかもしれない。

 僕たちは手を取り合って、廊下の左に見える部屋に足を踏み入れた。

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