37、一体化①

 スーパーに出かけた日から数日後。朝ひげを剃るために鏡を覗くと――口元のひげは伸び放題にしていると生活に支障があるので、イワナガヒメの許可を得て整えさせてもらっている――、腫れぼったい瞼に視線がいった。前日夜更かしして寝不足というわけでもないので、イワナガヒメにとり憑かれている影響だろう。

 僕の顔全体は、憑依された当時に比べてもさらに老け込んで見えた。しわの寄った額に、充血して隈ができた目、しわしわで生気のない頬に乾いた唇。ぱさぱさで伸びっぱなしの髪の毛。男子大学生というよりも、汚部屋で一人暮らしをしている老婆といったほうがしっくりくる。服も洗濯せずによれよれだから、余計そう見えるのだ。自分の外見については流石に慣れてきたので、淀みなくシェーバーを走らせて顔を軽く拭き――タオルも何か月も洗っていない――洗面台から立ち去ろうとしたとき、突然声が聞こえた。

『望月健太。そなた、我との隔たりがより薄くなったのがわかるか?』

 僕はとっさに左手に目をやる。まだ着替える前だから、お守りはポケットに入っていない。にもかかわらず、明らかにイワナガヒメとわかる声が頭に響いた。となると、結論はひとつだ。

『僕たち、何も介さずとも意思疎通ができるようになったんですね』

『ああ。その気になれば、そなたの口を借りて話すこともできるぞ。もっとも、声帯までは支配できぬから、声色はそなたのものになるがな』

 イワナガヒメはおかしそうに笑う。クックックッというくぐもった笑い声は、最初聞いた時は魔女みたいで不気味だと思ったものの、今はもう慣れてしまった。僕自身の一部であるという感覚さえおぼえる。

 僕は急いで机に向かい、便箋とボールペンを取り出した。今日は大学に行っている場合ではない。講義なんかよりももっと大事な用事ができたのだ。

『つまり、僕の身体のコントロールを、イワナガヒメさんができるっていう認識でいいんですね』

『ああ。そなたには世話になっているからの。頻繁に支配権を奪う気はないが、サクヤの子孫のもとへ赴く際に必要であれば、我が支配することもやぶさかではないぞ』

『わかりました。そのこと、千穂にも伝えますね』

『そうするがよい。我がそなたのもとを訪れた目的が、ようやく果たせるということじゃからのう』

『はい』

 僕は万感の思いを込めて頷き、便箋にペンを走らせた。この経過、一刻も早く千穂に知らせなければならない。


 ・・・


 千穂からの返信は、それから一週間後に来た。今か今かと待ちわびていた僕は、ポストの投函音がすると同時に玄関先へと走る。綺麗な字で「望月 健太様」と記された封筒をハサミで丁寧に開けた。中には便箋が二枚――一枚は白紙で、内側に文章が書かれたもう一枚が挟まっていた――。早速取り出して中身を改める。


 イワナガヒメとの一体化が進んだとのこと、嬉しく思います。これで、健太くんがわたしの家に入っても傷つく可能性が低くなりましたね。

 わたしのほうでも、お父さんに頼んで一定時間だけ、守りの呪いの結界を緩めることはできないか確認してきました。健太くん(とイワナガヒメ)だけだとやはり呪いは発動してしまいますが、わたしと一緒にいる間は効果を抑えてもらえるようにしてもらえるとのことです。お互いに、準備は整いましたね。

 さっそくですが、来週の土曜日の午後三時、いつもの小屋まで来てもらえるでしょうか。わたしが家まで先導します。一緒に咲耶家の中を見てもらって、健太くんの体調が大丈夫そうだったらイワナガヒメと話してみたいと思います。

 健太くんのお手紙を読んでいて、イワナガヒメは強い悪意がある神さまじゃないんだということがわかりました。人間の話を聞いてくれる余地があるということも。だからわたしの思いがきちんと伝わるように、話してみますね。健太くんには大変な役目を負わせてしまうけれど、宜しくお願いします。

 久しぶりに会えるときを、楽しみにしています。


 短いが内容の濃い手紙をあらためて、僕はひとりで頷いた。僕の側も、千穂の側も準備が整ったならば、長く待つ必要はない。彼女が指定してきた日時に小屋へと向かうだけだ。

『いよいよじゃのう』

『はい。咲耶家の山に着いた際には、よろしくお願いします』

 例のごとく、僕が脳内で音読していた手紙の内容は、イワナガヒメには筒抜けなようだ。椅子の上でお辞儀をすると、イワナガヒメからも頷き返す気配がする。

『以前山に赴いた時、山中にかけられているまじないは概ね理解した。家の中がどうなっているかはわからぬが、少なくとも家までの誘導は問題ないだろう。我も久々のサクヤとの対話、楽しみにしておるぞ』

『そういってもらえると、ありがたいです』

 本当に楽しんでいるような気配が伝わってきてほっとする。


『そなたは、サクヤと我が和解することを望んでおるのじゃったな』

『はい。そして、できればあなたがかけている攻撃する呪いを解除して欲しいと、思っています』

『それはサクヤの子孫と対話してからじゃ。子孫らが、何故過剰なまでに自己防衛しているのか、サクヤの気配がなぜ家のほうから濃厚にしているのかを確かめねばならぬからの。きょうだい水入らずとまではいかぬが、なるべく穏やかに事を運ぶつもりじゃよ。安心せい』

『わかり、ました』

 仮に対話が上手くいかずに、咲耶家の中でイワナガヒメが怒ってしまった場合、どんな災いが降りかかるのか想像もつかない。しかしいまは、そうならないことを信じて臨むしかないのだ。

『あまり恐れるでない。我が身を預けた仲じゃ。そなたに害が及ばぬようにという配慮はする』

 それはあまり気にしなくていい。僕にとって大事なのは千穂の生活様式であって、僕の身体の状態ではない。そう考えていると、イワナガヒメがくすりと笑う気配がした。

『まこと、そなたは利他的な人間よの。サクヤの子孫を慮る気持ちは、巌のように揺るがぬ。そのゆるぎなさ、我は好ましいと思うぞ』

『ありがとうございます』

 イワナガヒメは、巌のようなという比喩をよく使う。きっと、巌から連想されるゆるぎなさ、どっしりした安定感というのが彼女の象徴なのだ。だから、それに近い存在に惹かれる。僕も、なるべくそうあるように努力してきたつもりだ。深く一体化することができたのは、そのおかげだと思っている。ゆえに僕は決心をぶらさぬよう、手紙を見える位置に貼って立ち上がった。

『じゃあ、来週、お願いします』

『任された』

 イワナガヒメの返事を聞いてから、僕はゆっくりと大学に行く準備をはじめた。

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