35、霊的な存在①

 イワナガヒメの言いつけを守るようになってから、さらに数か月が経過した。季節は冬、もうすぐ年末といった時期だ。僕の事情を知っている巧真でさえ引いていた部屋の中に他人を招くわけにはいかず、そもそも人を近寄らせない見た目と臭いになっているため外で友人と会うこともなく、誰とも話さない日々を過ごしている。むろん、こんな外見では両親に心配をかけることは必至なので、実家にも帰らないつもりだ。時折電話やメールはしているし、不安視されたり不審がられたりすることはないだろう。

 僕はひととおり大学の課題を済ませると、食料を調達するために玄関の扉を開けた。元々経費削減のために簡単な自炊をしていたのだが、イワナガヒメの指示で生ごみを捨てることができず、キッチン回りが不衛生になってきている。イワナガヒメがついているからそんな場所で調理したものを摂取しても身体は壊さないはずだが、やはり口に入れるものは適度に新鮮なものがよくて、最近はありあわせの総菜類を買って食べているのだ。生ごみの代わりに各種トレイがごみとして出るが、それを廃棄することに関してはイワナガヒメも何も言わないので助かっている。いくらイワナガヒメの依頼に従うからといって、部屋がごみ屋敷になってしまっては生活するのも一苦労だ。


 いつものように左ポケットにお守りを入れて――近頃はいつでもイワナガヒメと話ができるよう、お守りは肌身離さず持つようにしている――近所のスーパーに向かうと、途中の路地で薄汚れた格好をした男性とすれ違った。ついさっきまで、泥だらけの現場で作業していたのではないかと思わせるくらいに土汚れが付着した紺色のジャケットに、これまた汚泥のような粘着物がべったりと付いたジーンズ。いつ洗ったのかもわからない、脂ぎった髪の毛。イワナガヒメと共生する前の僕だったら避けて歩きそうな見た目だ。でも今は僕の外見も似たようなものだ。何事もなかったかのように、そのまま通り過ぎる。

『あやつ、つかれておったな』

 癖で左ポケットに手を入れるなり、イワナガヒメの呟きが聞こえた。

『つかれてた?』

 疲れていた、という意味かと思い反芻すると、イワナガヒメからは否定の念を感じた。最近は脳内で言葉にしなくても、イワナガヒメの意志を読みとれるようになってきた。

『霊に取り憑かれておる。人の精力を吸って生きる霊よ。件の人間、長くはもたぬな』

『もたないって……死ぬってこと、ですか?』

 恐る恐る問いかけながら、先ほどの男性が通っていた道を振り返る。脇道に逸れたのか、人影はもうなかった。

『心臓を止めるほどの力はあの霊はもたぬ。だが、人間の意識が命を殺すことはあろうて。人は己の意志で生きのびることも、死ぬこともできる稀有な生物よ。近いうち、かの人間は生きる気力を失うだろう』

『自分の意志で、死ぬ……』

『とくにこの国は自殺が多い。そなたもよく知っておろう。確かに人間に取り憑き、精力を奪う霊はおるが、その結果死を選ぶか否かは、憑かれた人間次第よ』

 イワナガヒメの言葉を受けて、己の身を省みる。確かに僕も、すれ違った男性と近い境遇なのかもしれない。取り憑いているという霊がどういった類のものかはわからないが、身体を清潔に保てない辺りは、僕と似ている気がした。でも僕は、目的があった上での行動だから死のうなんて全く思わない。

『むろん、そなたの考えはわかっておる。じゃが我と生活を共にしてここまで弱音を言わぬのは珍しいと思うぞ。たいそう肝が据わっておるな』

 僕の思考を読んだかのようにイワナガヒメは言葉を響かせる。その中には現状を面白がるかのような雰囲気が含まれていた。

『僕は、あなたの代弁者として咲耶家に行く義務があります。そんな僕が、あなたを嫌っていたら対話がまとまるものもまとまりません。そもそも僕自身は、イワナガヒメさんともコノハナサクヤビメさんとも何か確執があるわけじゃありませんから。嫌いになることも、自分自身が嫌になることもありません』

『友も作れず、親と顔を合わせることができなくてもか』

『はい』

『やはりそなたは面白いのう。共にいて飽きない存在よ。他の神や霊が人に憑くのをよそごととして捉えていたが、たまには悪くないのう』

『そういってもらえると、ありがたいです』

 僕は心から――もっとも、イワナガヒメには僕の思考を見透かされるので、本心か否かはすぐわかってしまうのだが――そう答えた。千穂ははっきりとは言っていなかったけれど、イワナガヒメと僕が一体化するためには、イワナガヒメに信頼されることが必要だと考えている。彼女から好意的に思われているのは、いい傾向だといえるだろう。


 いったん脳内会話を中断して道を歩いていると、ふと先ほどのイワナガヒメの発言が思い出された。改めて左手をポケットに突っ込み、お守りに触れる。

『さっき、他の神や霊が人に憑くって言ってましたけど。それってよくあることなんですか?』

『よくあるかは知らぬが、何度か見たことはあるな。特に霊は多い』

 いきなりの質問だったが、やはり思考を読んでいたのだろう。イワナガヒメの返答にはよどみがない。

『神さまと霊って僕の中では違いがよくわからないんですが、霊のほうから興味を持って近寄るんですか。それとも、僕がイワナガヒメさんのところに行ったみたいに、人間のほうから近寄っていくものなんですか』

『どちらもあるが、霊に関しては圧倒的に前者のほうが多いのう』

 イワナガヒメは遠くを見て、回想しているような雰囲気であった。

『人間にとって神と霊の違いは些細なものよ。せいぜいが神社で祀られているか否かぐらいの差じゃろう。大抵の場合、霊がうろついている場所に近づいた人間がいたら、とり憑かれる。もっとも、霊が関心をもった時に限るがの。神は、己が子孫を見つけた際に、彼らの在り様が気になってとり憑くことはあるようじゃ。我には子孫がおらなんだ。ゆえにそうそう憑依することはしなかったが。醜貌だから、我は嫌われておるしの』

『みんながみんな、嫌っているわけではないと思いますけど』

 神社に行く途中ですれ違った女性を想起しながらいうと、イワナガヒメが首を横に振る気配がした。

『世辞は不要じゃ。ともあれそなたのおかげで、面白い経験をさせてもらっておるよ。サクヤの子孫に会うのも、そなたと共に赴くのなら悪くない気がしてきた』

『それは、よかったです』

『そなたの調子なら、そう遠くない時期にサクヤの子孫のもとへ赴けるじゃろう。我も楽しみにしておるぞ』

『はい』

 ちょうどスーパーの入り口に到着したので、そこで会話は打ち切りとなる。ただでさえ見た目と悪臭のせいで人から敬遠されがちなのに、イワナガヒメとの対話に意識を集中させすぎて他人にぶつかりでもしたら最悪だ。難癖を付けられたりして、近所唯一の買い出しスポットに通えなくなるのは困るので、僕は慎重にポケットから手を出した。ここから先は、買い物に集中しなければならない。

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