32、身体に宿るもの③
いつものように小山の入口で小さな鞄に鈴を取り付ける。左ポケットにはお守りも入れた。片足で踏みこんだ途端に、軽いめまいを覚えて立ち止まる。立ち眩みに近い感じで一瞬ふらついただけかと思ったけれど、静止してもふらつきはおさまらない。じっとしていてもどうにもならないと思い、一歩ずつ、木に掴まりながらゆっくりと山を登り始めた。
上に進むごとに、めまいと同時に気持ち悪さが強まっていく。たぶん、イワナガヒメを身体に宿したことによる影響なのだろう。きっと咲耶家を中心とした森全体が、イワナガヒメのことを拒んでいるんだ。僕が鈴を持っていなかったら、悪影響をもっと強力に受けていたかもしれない。一応念のため、ポケットに手を入れてお守りに触れた。
『イワナガヒメ、さん。大丈夫ですか?』
『この程度の呪い、我は問題ない。そなたの身体がもつ限り、我に影響が及ぶことはない』
『わかりました。では先に進みますね』
イワナガヒメ自体には悪影響がないことがわかり、僕はそのまま歩く。吐きたい気持ちになるのをぐっとこらえて、ようやく小屋が見えるところまで来た。一度呼吸を整えたりしたら本当に吐いてしまいそうだったので、急ぎノックをして扉を開く。いつものように中にいた千穂は、僕を見て目を見開き、腰を浮かしかけた。
「健太くん、だよね? その見た目、もしかして……」
「うん。イワナガヒメ、を、連れてきたよ」
口を開くなり酸っぱいものがこみ上げてきて、慌てて手で口元を抑えて飲み込む動作を繰り返す。千穂の前で醜態を晒すなんてもってのほかだ。扉に掴まったまま崩れ落ちそうになる僕の身体を、千穂が支える。
「本当に、イワナガヒメがここに、健太くんの中にいるんだね」
声を出したら危険な感じがしたので、僕は頷きだけ返してうずくまる。めまいもだんだんひどくなり、周囲の景色がぐらぐら揺れて見える。動く風景の中で、千穂が手を差し伸べているのがなんとなくわかった。
「気持ち悪いんだね。きっと、イワナガヒメがわたしの家の“守りの呪い”と反発しあって、健太くんの身体に悪影響を与えているんだ。肩を貸してあげたいけど、わたしが触ったら余計に悪化しちゃうかな」
僕は口元を抑えたまま、回る目で何とか千穂を捉えようと試みる。しかし僕がこんな状態だと、千穂とイワナガヒメに対話してもらうどころか、イワナガヒメの言葉を千穂に伝えることもままならない。なんとか体調の悪化を防ぎたいところだが、どうしようもないのがつらいところだ。
「健太くん、歩ける? 今日はいったん山の下まで送るよ。健太くんがイワナガヒメを連れてきてくれたことはわかった。だから今度はわたしが、どうやったらイワナガヒメと対話できるか考えてみるよ」
わずかに首を横に振ったのをどう捉えたのか、千穂の口調が強くなる。
「でも話し合うのはいまじゃない。今無理したら、健太くんの身体が危ない」
ほら、と先回りして小屋を出た千穂が、僕の肩を少し引っ張る。彼女に触れられた瞬間、鋭い痛みが脳天を貫き、身体が大きく跳ねた。耐えきれず口の中のものが少し手についた。ばれないように、口を強く結んでからポケットに手を突っ込み、汚れた右手を拭う。すぐに手を口元に戻してから、彼女に触れられぬよう注意しつつ慎重に小屋の外へ出る。
「やっぱり、わたしが触れるとさらに症状がひどくなるみたいだね。先導するから、ゆっくり山を降りられる?無理はしないでね。きつそうだったり、健太くんが立ち止まったらすぐ様子を見に戻るから」
そういって歩き始めた千穂を止めることはできず、僕は黙ってあとをついていく。咲耶家の子が近くにいるせいか、山を降りていってもめまいと吐き気は軽くならない。むしろ時間が経つごとにだんだんひどくなっているような気がする。山の外に出たとしても、ダメージから回復するまでにだいぶかかってしまいそうだ。
行きの倍くらいの時間をかけて、山のふもとまで辿りついた。一歩、コンクリートの道に出た瞬間に少しだけ症状が軽くなる。千穂は山から出ることはなく、三歩ほど引いた場所から僕を見下ろしている。
「ごめんね、無理させちゃって。でも、イワナガヒメと一体化している健太くんと今のままじゃ会話ができないことはわかった。……ちょっと待っててくれる?
千穂は着物の袖から紙とボールペンを取り出し、さらさらと何かを書きつけている。
「これ、いつもの小屋の住所。手紙を書いてくれたらわたしのところに届くから、今日話す予定だったこと、文字にして送ってもらってもいいかな? そこに健太くんの住所を書いてくれたら、わたしも返信できるから。面と向かって話せるようになるまでは、文通をしよう」
僕には彼女の提案以上に現状を打開できる案を思いつかなくて、声も出せない状況なので頷きながら差し出された紙を受け取るよりほかなかった。
「じゃあ、わたしがずっとここにいると、健太くんがしんどいと思うから、今日はもう戻るね。手紙、待ってるね」
理解したしるしに大きく頷いて見せると、千穂は手を振って山の中へと帰っていく。僕は返事をすることもできず、ただその後ろ姿を見つめていた。
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