5、呪い返し①

 僕の家は、アパートの四階にある。大した距離でもないから階段を使うことも多いけれど、今日はなんとなくエレベーターに乗ることにした。階段は外付けだから、外を歩いている人からも姿を見られる。でも今は、誰の視界にも入りたくない気分だったのだ。

 灰色のエレベーターは、ところどころ黒ずんでいて手入れがきちんとされているのか怪しい。扉がスライドするときはギィと、油をさしていない自転車のような音がする。片開きのそれが最後まで開ききるのを確認してから、僕は中に入った。


 フロアボタンは細い金属の棒で引っかかれたかのように傷だらけだ。ボタンの上下のスペースも相合傘などの落書きがされている。この辺りは治安は悪くないはずだが、少なくとも今いるエレベーター内に限って言えば、夜だけ人気ひとけがある繁華街のようだった。

 とはいえ、普通に乗る分には問題ない。凹凸のある四の数字に触れて、「閉まる」ボタンを押す。再びギィという雑音を立てながら、右側にしまわれていた扉が左側に向かって閉じていく。その途中で、ガコン、と嫌な音がした。

 フロアボタンに向けていた目線を左に移すと、エレベーターの扉と縁の境目に、黒くて丸いものが挟まっていた。誰か人が挟まってしまったのかと思い、慌てて「開く」ボタンを押そうとしたがどうも様子がおかしい。人間が挟まっているのだとすれば、何かしら声を上げるはずだし、そもそも頭頂部をこちらへ向けてくるだろうか。少なくとも、顔は僕の方に向くものじゃないだろうか。密室の外を見ようと覗き込み、とっさに「閉まる」ボタンを長押しした。


 黒くて丸いものの向こう側には、誰もいない。つまりこれは、人の生首だ。首から上だけが、挟まっているんだ。どうして、何のために。僕は直感的にわかった。先ほどの大将の頭だ。僕を追って、ここまでやってきたのだろう。

 「閉まる」ボタンを押し続けても、物体が挟まっているのだ。エレベーターの機能は自動的に開こうとしている。でも、あの頭を中に、僕と同じ空間に入れちゃいけない。もう髪の毛にしか見えない黒い部分を、思い切り殴りつけた。一瞬、首が外へと引っ込む。そのタイミングで再度思いっきり「閉まる」ボタンを叩いた。頭が外でぶつかるゴン、という鈍い音がしたが、無事扉は閉まり、ゆっくりと上昇をはじめた。

 四階で扉が開くとき、頭がついてきていないか気になり薄目で見ていたが、中に飛び込んでくる物体はない。おそるおそる外に出て周囲を見渡しても、生首らしきものはない。ほっとして、四〇五号室の鍵を回した。


 結局、家にいたお母さんにも、夜ご飯のタイミングで帰ってきたお父さんにも、大将の話をすることはできなかった。僕の目には、僕の身体が大将を殺めたように映っているが、自覚はない。手の感覚も覚えていないし、そもそもあのとき僕の身体を動かしていたのは僕の意志じゃない。それを、どう説明すればいいのかわからなかった。鈴を見せれば証拠になるのかもしれないけれど、再び包みを解くことで、両親の前で僕の体内に入ってこられたら困る。結局、鈴はポケットにしまったまま、僕は夜ご飯を済ませた。

 お風呂に入る前に鈴をハンカチごと取り出して、丁寧に机の上に置く。今は鈴を壊した人が近くにいないからだろうか。特に何の反応もない。包みを開いてそぉっと中を覗いてみる。そこには、包む前と全く同じ状態の、真っ黒な鈴があった。振ってみるのはさすがに怖いからやめにして、僕は再び鈴を視界から隠す。部屋の電気を消して、お風呂場へと向かう。鈴を覆うハンカチが先ほどより少し黒くなっている気がしたが、部屋全体が暗くなったせいだろうと考えることにした。


 部屋に戻り、何もする気が起きずにベッドに潜り込む。今日は宿題がない日でよかった。宿題をやっていたら、否応なしに小学校のこと、ひいては大将のことを思いだして手に着かなかっただろう。今も、落ち着いているとはいいがたい。でも、今日一日、夜は何もしなくてもいいのだとわかるとほっとした。


 いつも一緒に抱えて寝ているイルカのぬいぐるみを手繰り寄せる。電気を消して薄暗くなった部屋の中でも、水色と白でできたイルカはぼんやりと光って位置を教えてくれる。子どもっぽいと笑われるかもしれないけれど、僕はこのぬいぐるみが一緒だとぐっすり眠ることができるのだ。

 うつらうつらしているとき、ふと手の感触に違和感を覚えて目を開けた。僕がいつも抱えているぬいぐるみは、柔らかくて少し弾力がある。でも今の手触りは、硬くてざらざらしている。まるで、人の頭のように。


 そこまで考え、飛び起きた。僕の手の中には、抱えていたはずのイルカのぬいぐるみはない。代わりに、黒くてもしゃもしゃした丸いものがあった。とっさに突き飛ばすと、それはベッドの上を転々と転がる。ちらりと、大将の顔が見えた気がした。

 それ以上見ていられなくて、僕は何も持たずに部屋を飛び出した。お父さんとお母さんが眠る寝室に行こうとして、はたと立ち止まる。もし、両親の部屋にもあの丸いのがいたら? 僕は二人を危険な目に合わせてしまうかもしれないし、何より今までのことを説明しないといけなくなる。それに、行く先々に丸い頭が現れるのだとしたら、僕の逃げ場はどんどんなくなってしまう。

 結局、僕は廊下から自分の部屋の扉を閉めて、扉にもたれかかった。ずるずると、その場にへたり込む。何もしていないと先ほどの黒い塊のことを思いだしてしまうので、必死に意識をそらそうと努めた。

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