第一章 異世界
包丁と女子高生
子供達が元気に駆け回る真っ昼間の公園。
縒れたスーツに身を包んだ籐也が、ベンチに凭れ掛かり抜けるような青空を眺めていた。雲をもう何十分と見つめては、缶コーヒーをぐるぐると回し、でかいため息を吐く。
「澄み切った青空だことで」
死んだ魚のような目をした籐也が嫌味を空へと呟いた。
サービス残業、休日出勤なんて当たり前。所謂、ブラック企業に勤めている籐也は、終わらない仕事、辞めてく人間の後始末のせいで、ここ一年程、ずっと碌な休みがない。
そのせいで、家に帰れず。会社の硬いベッドと、今時ブラウン管のテレビが置いてある昭和に取り残されたような休憩室が籐也の家になっていた。
「今頃、俺の分まで仕事してんだろうな」
と、他人事のように呟いて電源を切ったスマホにチラリと視線を向ける。
親子連れで賑わう真っ昼間の公園に、スーツ姿は珍しい。この時間に居るとすれば、クビを切られて家に帰れないサラリーマンか、サボっているサラリーマンだけだろう。
籐也は、後者だった。
長年勤めて、初めて適当な言い訳をしてズル休みをした。
限界だった。いや、とっくに限界など超えていた。体にはガタがきているし、正直メンタルなんてボロボロだ。
ボロボロになろうと会社は何もしてくれない。使えなくなったら、はい、さよなら。直ぐに次を雇う。
「なんで、頑張ってたんだろうな」
自分を笑いながら、籐也はタブを開け、ほろ苦いコーヒーを喉へと流し込んだ。
口の中に広がる苦みが美味しいと感じる。
昔は嫌いだった筈のブラックコーヒーが、今じゃすっかり好きになってしまった。
コーヒーを飲みながら視線を公園へと移すと、向かいのベンチで女子高校生が籐也と同じく空を眺めていた。
風に揺らされサラサラと靡く長い黒髪、ぱっちりした二重と長い睫毛。ほんのり色づいている頬とピンク色のぷっくりとした唇。赤いリボンが目を引くセーラー服。
何処の誰が見ても、きっと皆が口を揃えて彼女を美少女というだろう。
籐也も思わず見惚れてしまい体から力が抜けた。持っていた缶コーヒーは、手から滑り落ち地面と、ぶつかりブラックコーヒーを空中にばら撒いた。
カン!という音で我に返った籐也が地面を見ると、飲みかけだった缶コーヒーは地面に溢れ、跳ねたコーヒーが裾を黒く染めていた。
「……あー、やっちまった」
手のひらで擦って見るが染み込んだコーヒーは取れない。籐也が「高かったのに」や「クリーニングに出さなきゃ駄目かぁ?」と呟きながら、ゴシゴシと裾を擦っていると鈴を転がしたような声が聞こえた。
「落としちゃったんですか?」
「えっ……」
籐也が視線を向けると、其処には先程の女子高生が前屈みになって染みになった裾を見ていた。喋る事もないと思っていた、女子高生が草臥れたサラリーマンの籐也に話しかけてきた事が信じられなくてじっと見つめていると、女子高生が首を傾げた。
「……あの?」
「えっ、はい。手が滑ってしまっていい歳したサラリーマンが、公園で真っ昼間にコーヒー溢して笑っちゃいますよね」
「笑ったりしませんよ。私も、溢す事ありますし、寧ろ私のほうが酷いかも。あの、良かったらこれ使って下さい」
と、女子高生が笑いながら差し出したのは汚れ一つない白のハンカチ。まさか、ハンカチを差し出されるとは思っていなかった籐也は、女子高生を見ながら口を開いた。
「あっ、いや……気持ちはありがたいけど、このハンカチは受け取れないですよ」
綺麗なハンカチをコーヒーで汚す訳にはいかないと、籐也が右手を前に出し左右に振る。
「……あっ、すみません。いきなり、話しかけてハンカチまで差し出してしまって迷惑でしたよね。すみません」
籐也の言葉にハッとして、顔を赤らめた女子高生が頭を何度も下げる。
「あ、いや。そうじゃな……」
「本当にごめんなさい」
籐也が違うと言う前に、女子高生は籐也から離れると鞄を持って公園の出口まで足早に歩き出してしまった。
折角、親切にして貰ったのに突き放す形になって、籐也は額を押さえながら心の中で自分を罵倒する。
罪悪感で押し潰されそうになっていると、目の前を影が横切った。
顔を上げると黒いマスクをした痩せ気味の男が、目の前を通り過ぎていた。
関わってはいけない人間だと本能的に感じた籐也が視線を外そうとしたその時、感情の抜け落ちた真っ黒な瞳が籐也を映した。
男の生気のない瞳に、ゾワリと背筋に冷たいものが走る。
視線を外したいのに男の瞳から目が離せない。
ただ見上げる籐也に、男は興味を失ったのか視線を反らした。遠ざかっていく足音を聞いて、籐也は無意識に止めていた息を肺いっぱいに吸い込む。
ドッドッドと早い心臓を服の上から押さえつけて、いう事を聞かない頭を無理矢理動かし、男に視線を向けると女子高生の背後にぴったりとくっつき、一歩、また一歩と近づいてゆく。
ゴキゴキと首を鳴らしながら男がポケットから、刃渡り15センチ程の包丁を取り出した。
「ほう……ちょう……?」
男の手にあるのは、日常的に誰しもが見る包丁だ。だが、男は料理に使うわけでは無く女子高生へと刃を向けている。
見慣れた包丁が凶器になる。
逃げろと叫びたいが、籐也の口から声が出ることはなかった。喉で声が堰き止められ「ぁ……あ……」と唸る事しか出来ない。
男に気づいていない女子高生へどんどん近づいていく。耳に届くのはこの状況と似ても似つかない子供達の笑い声。
籐也以外、誰も気づいていない。
このまま、見てみぬ振りをすれば彼女は殺されるだろう。平和な公園は阿鼻叫喚であふれる。
今までの人生。人に言われたことをして、波風立てないように生きてきた。ありふれた人生。何も成し遂げられない人生。
それで良いんだろうか。
「俺は……」
がりっと唇を噛む。口の中にじわりと鉄の味が広がっていく。籐也は地面に赤く染まった唾を吐き出すと、石畳が黒く染まった。
女子高生が刺されれば、これ以上の血が石畳を黒く染め、辺りには鉄臭さが広がる。
腰抜けの俺ではなく、まだ若い彼女が死ぬ。
「……そんなの、良い訳ないだろ」
誰にも聞こえない呟きを空中に落とし、籐也はゆっくりと立ち上がった。男に視線を向けると、女子高生へ向かい包丁を振り上げていた。
それを見た瞬間、籐也は勢い良く地面を蹴った。
振り下ろされていく包丁が、まるでスローモーションのように見える。籐也は必死に両足を動かす。
普段、動かさない身体が悲鳴を上げているが、籐也はスピードを落とす事は出来ない。間に合えと心の中で叫びながら、男へと手を伸ばした。
―がしり。
男が籐也に気づくよりも前にフード掴んだ。右手に渾身の力を込めてフードを引っ張ると、男の重心が後ろに傾く。
その隙をついて籐也は、男の首に腕を回す。唖然としている男を強く押さえつけた。
「きゃぁぁぁっ!!!!」
物音に振り返った女子高生が公園に響き渡る程の悲鳴を上げ、やっと公園に居た全員が籐也達に視線を向けた。
一拍の間を置いて、公園に悲鳴が響き渡る。
出口に向かって走る者、その場から動けない者、警察に通報する者。平和な午後は一瞬にして消え去った。
「はなせぇぇぇぇえ!!」
我に返った男が、包丁を振り回し始めた。籐也は必死に押さえながら、涙を浮かべ固まったまま動かない女子高生に向かって口を開いた。
「逃げろっ!!!!」
鬼気迫るその声は、女子高生を正気に戻すには十分だった。
潤んだ瞳が籐也を映す。瞳に映っているのは、草臥れたサラリーマンなどではなく映画に出てくるヒーローのようだ。
「あっ、あり……がとう。ごめんっ、なさい」
そう声を喉から絞り出して、女子高生が振り返ると出口へと走り出した。遠ざかっていくその背中に籐也は安堵して笑う。
無意識に体から力が抜け、押さえつける力が少し弱まった瞬間――籐也の首筋から鮮血が飛び散った。
「えっ……」
視界に映る血液を籐也は目を見開いて見ながら、「はっ……はっ」と短く息を吐きだし震える手で首筋に触れると、生暖かいぬるりとした血液が籐也の手のひらにつく。
唇と身体を震わせながら、自分の手についた血液を見た瞬間、籐也は石畳へ倒れ込んだ。
まるで、鉛を背に乗せられているかのように身体が言う事を聞かない。喉から何がせり上がって来て、ごふっと籐也は口から血液を吐き出した。
女子高生の血ではなく、籐也の血が石畳に広がっていく。死ぬのは女子高生ではなく、自分だと言うことに気がついて籐也は嘲笑した。
「ごっ……しぬ……のは……おれっ、かっ」
体を震わせ、ごふっと血を吐き出す籐也が薄れていく意識の中で、男が逃げる女子高生を追いかけている事に気がついて血まみれの手を伸ばす。
―殺さないでくれ。
血が迫り上がってきて声が出せない籐也は心の中で叫びながら、男と女子高生へ近付こうとするがやはり動けなかった。重たくなる瞼を必死に開けながら、女子高生の背へと手を伸ばす。
―どうか、逃げて、くれ
意識を失う瞬間、振り返った女子高生が籐也の元へ戻ってこようとしている姿が見えた気がした。
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