2-8 カノジョはそこに立っていた

 お風呂上りにソファで那由なゆと隣同士に座った。

 いつもより距離が近いのはきっと気のせいじゃない。

 

 那由はふだんと違う、すこしゴージャスな雰囲気の寝間着パジャマを着ていた。つるっとした素材で表面につやがある。その肩口と触れ合いそうになる。そのたびにどちらからともなく、すっと身体をずらす。まるで磁石の同じ極が近づきすぎた時みたいに。


「「………………」」

 

 どんな会話をしたのかはあまり覚えていない。確か『耳をすませば』の話もした気がする。

 しかし、どちらかと言えば今の俺の頭の中で鳴り響いているのは牧歌的な『カントリーロード』ではなく、より攻撃的アグレッシブなヴェルディのレクイエム『怒りの日』だ。脳内で鳴り響く音楽に合わせていくつもの戦闘機が飛び交っている。それほどのに今の俺はあった。

 

 ――女の子とふたりきりで、ソファに座って会話をしているだというのに。


 そのことが、俺の心臓の鼓動を果てしなく高鳴らせた。

 

「そ、そろそろ寝ましょうか」俺はからからに乾いた喉から声を絞り出した。

「そうですね……明日もお仕事がありますし」


 時計を見ると夜中の3時近くになっていた。

 

「もうこんな時間だったのですね……才雅さんとお話をしていると、あっという間に時間が過ぎてしまいます」


 そんな教科書ラブコメではテンプレートとも言える台詞を、自覚的か無自覚的か那由はささやいてきた。

 

「お、俺も、です」

「……ふふ」那由は口元に指をあててはにかんだ。「今日の才雅さん、ちょっと変です。また敬語に戻ってますし、動きもなんだかしてますし」


 それはブレーキの壊れたあなたに緊張しているからです、マイスイートハニー。

 ……とまでは言えなかったけれど。

  

「き、緊張しているからかもしれま、せん」


 俺は今度は正直にそう打ち明けた。

 

「緊張、ですか?」すると那由は膝の上に置いていたクッションをきゅうと胸で抱えて、「良かった。才雅さんもだったのですね。私も――お、同じ、です」


 などと。頭から湯気を出しながら呟いてきた。

 

 当然、彼女の〝熱〟は俺にも伝播でんぱする。身体の芯からぐつぐつと煮えたぎるように蒸気が染み出てくるのが分かる。部屋の壁側にある姿見に映った俺の首から上が、まるで茹でダコみたいに真っ赤になっていた。


「な、なんだか……熱いですね」


 那由の方も顔を赤らめて、パジャマの胸元を開いて片手で仰いだ。

 その隙間からちらちらと覗くふくよかな白い双丘の膨らみに。

 どこからか漂ってくる彼女の甘い香りに。


 俺の身体を構成する細胞がさらに沸騰していく。

  

「……っ!」


 たまらず立ち上がろうとしたその刹那。

 ふわり。お互いの手がソファの上で


「「……あ」」


 世界が静止した。

 どれだけの時間が流れたのか分からない。十秒かもしれないし、十分かもしれない。

 どくん。どくん。どくん。心臓の音が激しく胸を打つ。全身を打つ。空間を打つ。

 

 触れ合ったその手をことは、もはや息をするよりも簡単だ。


 ――仮にも〝彼氏彼女〟の関係であれば、手を繋ぐことなんて些細なことじゃないか。

 

 どくん。どくん。どくん。

 永遠にも思えた沈黙の果てで、俺は。


 俺は――

 

「おやっ……!」


 触れ合った手を握ることなく。

 その場で勢いよく立ち上がり。


「おや……?」


 小首を傾げる那由に向かって、ぎこちなく言った。


「おやすみ、なさい……‼」


 やっぱりカクカクとしたその動きと敬語に。


 那由は可笑しそうに口元に手をやったあと。

 すこしだけ寂しげに視線を床に落としてから。


 いつもみたいに微笑んで言った。


「はい――おやすみなさい、才雅さん。また、明日」

 

      * * * 

 

 お互いに『おやすみなさい』を言い合って。

 廊下に出てリビングの電気を消した。南側の窓から深夜の東京の明りが差し込んでくる。

 その深い紺色の灯りに俺たちは照らされる。

 

 ――ようやく、終わった。


 恋愛譚ラブコメの嵐は止んだ。激しいも一時休戦。

 しかし身体の火照りと神経のたかぶりはおさまらない。

 

 このあと俺はベッドの上でひとり、眠れない夜を過ごすのだろう。


 廊下の足元に間接照明が灯っている。天井灯をつけなくても、歩いて進むには充分な明るさだ。

 そんな薄暗がりの廊下を、リビングを出て俺は自分の部屋のある【右側】に。那由も自室のある【左側】に折れた。


「……では」と俺は言った。

「はい……では」と彼女も言った。

 

 ぱたぱたとお互いのスリッパの音が響く。

 俺は途中でふと足を止める。後ろを振り向く。那由は――振り向かない。まっすぐに廊下を進んでいる。

 LDKや俺の部屋がある【手前側】と、那由の生活空間がある【奥側】をへだてる扉は今は開きっ放しになっていた。

 もうすぐ那由は突き当りで右側に曲がる。その奥にある寝室で――彼女は眠ることができるのだろうか。


 俺は先ほど那由と触れ合った手の部分を、もう片方の手で撫でた。

 そこに残った微かな彼女の感触を思い出す。


 人と人との関係性を変えるためには、何かしらの【行動】が必要であるらしい。

 

 もしもあの時。

 俺が那由の手を握りしめていたら――ふたりの関係性はなにか変わっていたのだろうか?

 

 それでも。

 実際問題として、俺は頭が沸騰しそうなほど熱を持ちまともな思考ができず、身体はかちこちに固まって――その手を握り返すことはできなかった。

 ばいばい、手繋ぎ。ばいばい、変化。

 

「ううっ……!」


 今になって後悔の念が身体の奥から滲むように立ち昇ってきた。


(俺は一体何をやっているんだ?)

 

 せっかく遠く憧れた【月城なゆた】と同僚になり、同棲し、疑似的に〝お付き合い〟することができたんだぞ?

 そして遂に――その月と機会があったのに。一体俺はどうしてしまったんだ。


『そうだぞ! この弱虫チキン野郎め!』と俺の中の悪魔が俺を罵倒ばとうしてきた。

『呆れてモノも言えないわ! 本当にキン●マついてるのかしら』と俺の中の天使も追従した。……っておいふざけるな! 天使のクセに悪魔以上の下品な罵声ばせいを浴びせてきやがったぞ!


「く、そっ……」


 それでも結果に変わりはない。

 俺は触れ合った【彼女カノジョ】の手も握り返せない、弱虫野郎だ。


(何が恋愛経験豊富だよ……。気持ちだけ舞い上がってたクセに、初心者以上に緊張して――むしろ後退してるじゃないか)


 耳を澄ませると、那由のスリッパの足音は消えていた。おそらくもう自分の寝室に行ってしまったのだろう。

 これにて完全に。この後は部屋に戻って朝までひとり反省会だ。


「はああああ……」


 俺は深く溜息を吐いた。

 下唇を噛みしめて。

 ひとり寂しく薄暗がりの廊下を進もうとしたら。


 くいっ。


 と。

 背中を誰かに引っ張られる感触があった。


「……え?」


 思わず後ろを振り向く。


 そこには。

 まぎれもなく。

 

 俺のである那由が立っていた。


「……月城、さん?」


 やはりどうしても敬語になってしまう。

 彼女は俺にとって、遥か宇宙の向こうにある手の届かない存在なのだ。

 月の女神のような、本来であれば一緒に喋ることすらもおそれ多いお方なのだ。


 そのお方が。


 右手で何かの名残を惜しむように、俺の背中を引っ張って。

 左手で鼓動を確かめるように、自らの胸の前に当てて。


 薄暗がりでも十二分じゅうにぶんに分かるくらいに頬をに染めながら。

 

「あ、あのっ……」


 〝彼女カノジョ〟は。

 

 ――った。

 

 

 

「い、一緒に寝るのも……だめ、ですか?」


 

 

 そんなもの。


 

「――っ‼」


 

 ――そんなもの。

 

 

 断る、

 

 

 わ

 け

 な

 ど

 。




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