2-9 ジェットコースター・ラヴ
「知っていましたか?
俺の部屋。
その
ふたりでころんと、平行に並んで寝転がっている。
オキシトシン。
好きな人どうしでいると放出される幸せホルモン。
「へえ、知らなかった……でも、それって、」
そう尋ねようとして口をつぐんだ。
「ああ、いや……なんでもない」
「ふふ。私たちの関係だと、どうでしょうね」
言わんとしたことを読み取った那由は、
「どう思われますか? ぐっすり眠れると思います?」囁くような声で那由が訊いてくる。
「どうでしょう……すくなくとも、今の俺は、眠れる気がしません」
「どきどきして、ですか?」
「はい」と俺は頷く。「
「私と同じで」
もちろん。
「キミと――同じで」
俺は恥ずかしさを誤魔化すように視線をずらしながら答えた。
「ですが、なんだか……じわあ、と。身体の奥の方から、染み出てくるような気がするんです」と那由は言った。
「幸せホルモンですか?」
「はい」
それはつまり。
今のこの状況を、那由はシアワセに思ってくれているということで。
思わず起き上がって飛び上がって夜空に向かって叫びたくなるくらいに嬉しい事実だった――けれど。
そのシアワセの原因は、隣で寝ている相手が〝俺〟――
それとも単に、相手は誰でもよくって。
憧れだった〝恋愛ごっこ〟を体験できているからこそシアワセを感じているのか。
どちらなのかは、分からなかった。
月城なゆたは。俺の月は。
――今、何を理由にシアワセを感じているんだろう。
「「………………」」
視線が一瞬まぐわって。
すぐに恥ずかしくなって互いに目を逸らした。
一方で、俺の場合は。
こうして一緒に寝る前から。
きっとその幸せホルモンとやらは分泌されていたんだと思う。
キミと会社で出会う前から。
キミの劇的な微笑みに堕ちたあの瞬間から。
きっと俺の脳内では、そのホルモンがぐちゃぐちゃに放出されて。
それできっと、人生を〝シアワセな方向に〟狂わされたのだ。
魔性の月。
人を惑わす
それが今――
手を伸ばせば。
手を伸ばせば――そのすべてに触れられる。
だけど。
今はこれだけで十分だ、と俺は思う。
――こうしてキミの間近で夜を越せるだけで。
「おやすみなさい、才雅さん」
ばくばくと弾けるような――
那由が小さく囁くように言った。
「おやすみ――那由」
彼女は俺の名前を呼んで。
俺は彼女の名前を呼んだ。
「………………」
時計の秒針が鳴っている。その音に耳を澄ませているうちに。
俺の隣から、すううう、と微かな寝息が聞こえてきた。
「ん? ……もう、寝たのか。幸せホルモンとやらのおかげか? それとも――」
きっと疲れていたこともあるだろう。
明日は仕事があるのに〝記念日だから〟という理由で、夜遅くまで俺の帰りを待っていてくれた――どこまでも心優しい、憧れで、自慢の
――いつかくる〝本番〟のために、恋愛の練習相手になってくれませんか?
彼女のそんな言葉がぐるぐると頭の中を巡る。
そして心に小さな〝穴〟を開ける。『いつかくる本番のために』――彼女とはそういう契約になっている。
俺はあくまで、本番までの足掛かりなのだ。
たとえ那由が心臓を高鳴らせていたとしても。
かりそめの幸せホルモンが分泌されていたとしても。
――それはいつかの本番のための
その事実が俺の中でまるで重苦しい
そうして染み出た黒い
(分かってる。これはあくまで
俺は彼女の中では〝経験豊富な恋愛熟練者〟ということになっている。
実際は友達以上恋人未満の〝子どもの遊び〟程度の恋愛経験しかないのに。
それでも
俺は
知識も、経験も。
たいした違いはないくせに。
ほとんどすべてが、初めてのクセに。
「……はは。今ある全部、
夢なら夢でいい。
いつか覚める夢なら。
今この瞬間だけは。
(この瞬間だけは――)
気づくと俺にも
これがまさしく幸せホルモンの影響なのだろうか?
あれだけ眼が冴えていたのに。神経が
今では穏やかな心地よさが、じんわりと俺の身体を覆っていく。
心の穴から染み出た黒い霧を晴らしてくれる。
薄れゆく意識の中で。
どこまでも飾らない想いの果てで。
目の前で
このままずっと。
――どうかこの夢から覚めませんように。
そんなことを思った。
* * *
こうして俺たちは。
付き合うよりも先に
手を繋ぐよりも先に
まったく。
歯車は複雑に絡み合っている。順番はぐちゃぐちゃだ。
――ジェットコースター・ラヴ。
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