1-13 同棲生活のはじまりはじまり

「ひっっっっっ」


 月城さんのマンションに入って。

 たっぷりと間を取ってから俺は言い切る。


「ろい、っすね……!」


 広い。

 月城なゆたの現住居は想像していた倍以上広かった。


「はい……なので随分と持て余していて」


 LDKの前に聞いたこともないがつくのではないだろうか。

 アイドル時代に稼いだお金で、不動産業を営む親戚に薦められ購入したという。

 彼女の実家は関東圏にあるが、アイドル稼業中は多忙を極めていたため都内に住まいが欲しくここで〝独り暮らし〟を始めて、今もそのまま住んでいるとのことだった。

  

「っていうか! ここっていわゆる【最上階物件ペントハウス】ってやつですよね⁉ 外にプールもついてるじゃないですか!」

「あ、よかったら?」

「それ、ふつうは都内で独り暮らし中の人が言う台詞じゃないですよね」俺は思わず吹き出しながら突っ込んだ。「あとすみません。実は俺、……昔色々あって、恥ずかしながら」

「あ、そうだったのですね。ごめんなさい」特に謝る必要はまったくなかったが、彼女は申し訳なさそうに言った。「夜になるとライティングが綺麗にえるので、一応水だけは張ってありますが……私もここで泳いだことはないんです」

 

 プールの水槽の中には透明な円形のガラスに守られたライトが底や側面に設置されていて、微かに漏れたが差し込む幻想的な洞窟のように、しとやかに水中を照らしていた。そのまま水面から飛び出した光はまるで金色の蝶の鱗粉りんぷんのように美しく都会の夜の空気の中に舞っている。


 いずれにせよ、俺にとっては映画の中でしか見たことのないような光景だった。


「立っているのもなんですし……座りましょうか」

「そ、そうですね」


 俺は左手と左足、右手と右足を同時に出しながら近くのソファに座った。

 座面はふっかふかだったが、俺の身体はがっちがちだったので硬度の意味ではイーブンだった。

 

「お茶、飲まれますか? ドリップでよろしければ、珈琲でも」

「お構いなく、すみません……」


 同棲相手というよりは美人妻がいる生徒の家にに来た教師のような緊張感で俺は答える。

 ちなみに夕ご飯は職場で現場配布ケータリングの弁当の残りをいただいたため、ふたりとも自身のデスクで食べてきた。


「じゃあ、せっかくなので珈琲をもらえますか?」

「もちろんです。少々お待ちください」


 月城さんは頬を軽く上げてから、自身の分も含めて飲み物の準備を始めた。

 その様子を思わずじいっと見つめてしまう。――今日だけで彼女の新鮮な一面を多く見ている。

 

 目の前の状況は現実味が薄く、未だに完全に信じ切ることができない。まるでひどく長い白昼夢を見ているような気分だ。今にでも頭の中でじりりりりと目覚まし時計が爆音で鳴って『こんなもの夢に決まってるだろ』と現実主義担当の【脳内俺】に起こされてもまったく不思議ではない。

 

「お待たせしました」

 

 湯気の立つ2つのカップを持って月城さんがやってきた。

 どちらも兎の柄が描かれたマグカップだった(ハートを抱えた可愛らしい兎だ)。

 そういえば室内用のスリッパも兎柄のものだ。アイドル時代のインタビューで好きな動物は『兎』と答えていたことは事実だったんだなあ……などと感慨にふけっている場合ではない。つまりこれから待ち受けているのは、お互いの食器で飲み物を楽しむという、まるで新婚さんのようなシチュエーションだ。今にも震えそうな手で、どうにか珈琲を零さないよう全神経を集中させなければならない。


 ちなみに月城さんは紅茶にしたようだった。


「ハーブティーです。夜にカフェインをってしまうと、眠る時に目が冴えてしまって」


 そういう時は枕元で子守歌を歌ってあげましょうか? などという冗談はもちろん口にしなかった。そんな発言をしていることが世界中の【月城なゆた推しナユリスト】に発覚したら血祭にあげられてしまう……いや、現時点において月城なゆたの部屋で一対一テータテートの状況にあるというだけで既にただじゃすまない気はするが。

 

「! この珈琲……お、美味しいです」


 美味しいです、の前に緊張から『フヒヒ』と下卑げひた笑い声がこぼれそうになるのをギリギリのところでこらえて。

 俺は率直な感想を伝えた。


「ふふ。ドリップ珈琲ですから、だれが淹れても同じですよ」

「そんなことないです!」


 思わず語気を強めてしまった。

 月城さんがぴくりと反応してこちらを向いた。

 

 俺は慌てて取りつくろうように珈琲をすすってからもう一度。

 今度は控えめの声で、だけどはっきりと伝わるように言う。


「月城さんがれてくれたからこそ、美味しいんです」

「ん……ありがとうございます」


 月城さんは暖を取るようにカップを両手で握りこみながら、俺にお礼を言ってくれた。

 いやいや! お礼を言いたいのはこちらの方ですよ‼


「「………………」」


 そして、沈黙。

 壁時計の針が秒を刻む音だけがリビングに響く。

 気まずい。何かを話さなければ。しかし下手なことを言ってを出すのも良くない気もする。

 仕方ない、ここは無難に『ご趣味は?』とか聞いてみるか。お見合いか! 

 

「「あ、あの!」」


 お互いにかぶった。


「「あ……どうぞ……あっ」」


 その後すらも被った。仲良しか!

 そしていよいよ不慣れな者同士のお見合いみたいになってきな……。


 こほん。

 俺は咳をしてあらためて、


「ど、どうぞ」

 

 ぺこり。

 月城さんは律儀にお辞儀をして、


「寂しかったんです」

「え?」

「こんなに広い場所で、ひとりで暮らしているのが」

、なるほど」


 なにが『ああ』だ。

 何を期待しての『ああ』か、この時の作者の気持ちを述べよ。(200字以内・配点15)

 

「ですから、ちょうどをできる方を探していたんです」

「……その相手、本当に俺で大丈夫だったんですか⁉」


 思わず訊いてしまった。

 

「江花さんが仰っていたんです、中本さんのこと、色々」

「な、なにか変なこと言ってませんでした……?」

「ふふ。まさかですよ」月城さんは自然に微笑んで、「むしろ、とっても信頼されていることが伝わってきました。私、江花さんのこと、信頼しているんです。信頼している人の信用している方なら――安心できます。それに、むしろ私にのほうが、気を遣わせなくて良いかなとも思い……」


 それは自身が【月城なゆた】であることを気にしてのことだろう。

 確かに彼女とルームシェアともなれば〝よからぬこと〟を考えるやからが多く出てきそうだ。芸能人、ましてや一世を風靡ふうびしてそのまま電撃引退を表明しまさに【伝説と化したアイドル】となど、きっと得意満面でまわりに言いふらすに違いない。いずれにせよ俺は『元太客でしたグッズもCDもブルーレイもグッズも全コンプしてますフヒヒ』とは口が裂けても言えない。


 やはり『俺が月城なゆたの元・ファン』であることは徹底的に隠さなければならないとあらためて決意した。

 月城さんの心の安寧あんねいのためにも。


「それで今日、実際にお会いして確信しました。ああ、この人ならだって」


 完全に節穴ですよ! めちゃくちゃあなたのこと追っかけてましたよ! 特A級の【月城なゆた推しナユリスト】ですよ‼

 とはもちろん言わずに質問してみた。

 

「それは……どのあたりでですか?」

「ううん、そうですね」月城さんは人差し指を顎先に当てながら目線を上に向けた。「ランチのメニューを拝見したときからですかね」

「結構初期からですね⁉ やっぱ俺の食のチョイス、なんか変でした……?」

 くすくすと月城さんは笑って、「いいえ、とっても素敵でした。だから安心したんです」


 その声音こわねは。仕草は。表情は。

 やっぱりどうしたって、俺の胸を激しくときめかせた。


「あ、あと……私に敬語は使わなくて大丈夫ですよ? たぶん、中本さんの方が先輩です」

「そうなんですか?」

「はい。私、江花さんのふたつ下ですから」


 アイドル時代は〝年齢非公開〟だったため、ここでも超重要機密事項を仕入れることができた。

 ふたつ後輩ということは――今年で21になる歳か。ふむ。ちまたで噂されていた予想とかけ離れてはいなかったようだ。

 

「でも、社会人としては先輩ですし」

「一か月も変わりませんよ――じゃないですか」

「た、確かにそうですが。では……

「はい」彼女は木漏れ日のような微笑みを浮かべて頷いた。

 

 俺の顔が熱くなっているのが自分でも分かる。

 嬉しさやら困惑やら恥ずかしさやらで、今にも溶けてしまいそうだ。


 しかし。

 この時の俺はまだ気づいていなかった。


 

 月城なゆたとの【同棲生活】は、まだまだ開演前で幕ですらも上がっていなかったということに。


 

 ――本番は、このあと待ち構えていた。



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