1-14 それでは『おやすみ』をしましょうか

「それでは……こちらをお渡しします」


 月城つきしろさんのマンションの〝カギ〟だった。

 

 これを受け取ることで、今後この場所は俺と月城さんのまさしく〝城〟となるのだ。

 

 ……などといった傲慢な考えなど持っているわけがない。ここはあくまで月城さんの持っているマンションだ。

 

 ルームシェアと彼女は言っているが、一部の間借りのようなものだ。『お部屋はこちらをお使いください』と通された部屋も、学生時代に住んでいた部屋の1.5倍くらい広かった。家賃は『そんな、りません』と言われたが、なんとか説得をして払わせていただくことになった。月に数万円。それでも都内の賃貸相場よりはずっと安い。日々の生活費や高熱費などの分配も『そちらも結構です』と断られたが、またあらためて決めていくことになった。そのあたりの調整もという気がして、なんだかやぶさかでない。


「……つつしんで、受け取らせていただきます」 


 ごくりと息を飲み込んで俺は言った。


 鍵の授受じゅじゅは案内された俺の部屋で行われた。

   

 月城さんの白くて長い指先が、合鍵のキーホルダーをつまんでいる。

 兎をかたどった小さな人形キャラクターだ。

 俺の目からはその鍵が、なんだかとても【神聖なもの】に映った。

 思わずそのオーラに気圧けおされて後退すると、背中で電灯のスイッチを押してしまった。


「「……あ」」

 

 オフ。部屋の灯りが切れる。兎のキーホルダーが月城さんの指先で揺れて小さく音が鳴った。

 慌ててふたたびスイッチをつけようとしたけれど……目はすぐに慣れた。

 カーテンは開いていたので、そこから東京の夜の明りが入ってきて部屋の中を蒼く照らした。

 

 目の前の月城さんは――

 電気が切れたことを特に気にすることなく、合鍵を俺の目の前にじいっと差し出してきた。

 俺はスイッチを探すのを中断して、手をお盆の形にして前にゆっくりと突き出した。まるで葉先から零れてくる水をすくうように。


「「………………」」

 

 ちゃりん。

 俺の手の中に、持っていた合鍵を月城さんは落とした。

 掌の中で金属音が鳴る。そこからはなんだか鍵以上のずっしりとした重みが感じられた。


「ありがとうござ――」


 お礼を伝えようとしたが、途中で言葉が切れた。

 目の前で鍵を渡してくれた月城さんは。

 電灯の切れた仄暗い部屋の中で、夜の光に照らされる月城さんは。


 

 ――


 

「――っ!」


 思わず息を呑む。

 ああ。これだ。この笑顔だ。

 彼女のこの笑顔に――俺はを持っていかれたのだ。

 視線とか。感情とか。心だけじゃない――俺のすべてをだ。


 それだけの力が、彼女のその微笑みには存在していた。


 カーテンが揺らめいて、光の陰影が月城さんの表情を隠した。

 風がおさまって気づけば――彼女はさっきまでの〝自然な笑顔〟に戻っていた。


「あらためまして……これからよろしくお願いしますね」


 月城さんが片方の髪をかきあげて。

 形の良い耳を見せつけながら言った。


 

       * * * 


 

 それからの記憶は曖昧だ。


 うす暗い部屋での【合鍵の授受】という神聖な儀式めいた行為を終えて。

 これまでの夢みたいな現実の積み重ねにより、俺の脳内は完全にしてしまった。

 

 とにかく俺と月城さんはふたたびリビングに戻って、色違いのスリッパとお揃いのカップで夜のティータイムの続きを堪能した。

 そのあと月城さんは食器の片づけをしてくれた。(手伝いますと言ったら『お構いなく。くつろいでいてください』と言われ任せることになったが、今の俺の心理状態でくつろげるハズもなかったため、ソファに座りながら片づけをする月城さんのことを横目でじっと追っていた。バレてませんように)

 

 その間もいくらか会話をしたはずだが、詳細は覚えていない。


 仕事についてはひとつだけ。

 彼女は特になんでもないような話の流れで、『たぶんこれから、マネ部の中本さんはすごく……お忙しくなると思うんです。ですので……あまり気を遣いすぎないでくださいね』などと言ってくれた。

 しかし、この時の俺はそれが本当に意味することを理解できないでいた。きっと仕事が始まれば否が応にも分かるのだろう。

 

 お風呂にも入った。

 一緒に住むということはそういうことだ。家の中の様々な設備をする必要がどうしたって生じてくる。


 『中本さん、よかったら先に入ってきてください』と言われた時に、『いえいえ、家主の月城さんからどうぞ』と提案すべきか――はたまたそうすることで『後から入って月城さんの残り湯を堪能させてください』という邪悪な野心が見抜かれドンかれないかで、俺の頭はひどく葛藤した。

(結果的に俺は『それじゃあ、先にいただきます』と素直に月城さんのお言葉に従うことを選んだ)


 他にもこの数時間のあいだにいろいろなことがあったが……そのひとつひとつと、付帯ふたいする俺の心情を書き連ねてしまうと10万字以上は余裕でかかってしまうため、このあたりで切り上げることにする。


「それでは、をしましょうか」


 兎柄のピンク色のパジャマに身を包んだ月城さんが言った。

 いわゆるであるわけだが、彼女はそれを隠したり恥ずかしがったりすることはしなかった。


「……あまり見ないでください、恥ずかしいです」


 と思ったら恥ずかしがってくれた。

 その仕草は俺の感情をぐちゃぐちゃにするには充分すぎる破壊力だった。

 

「す、すみません……でも、」

「?」月城さんは小首を傾げた。


 ――でも、とっても可愛いです。今の自然のままの月城さんも。

 

 などと言えばナニカが変わったのかもしれないが……俺にはまだそれを口にするだけの勇気はなかった。

 

 人と人との関係性を変えるためには何かしらの〝行動〟が必要であり、そのもっとも手軽な行為こそが〝言葉〟であるとは思うのだが……。

 脳内だけで紡ぎ出されたその言葉は、喉元どころか十二指腸あたりまで深く落ち込んで出てくることはなかった。ばいばい、言葉。ばいばい、変化。

 

「……あ」月城さんが口の前で掌を広げた。

「どうか、しました?」

「すみません、おやすみの時間とはいったものの……これだけ広いのにも関わらず、ベッドがひとつしかありませんでした」

「えっ、やっ、はいい⁉」

「どうしましょう……家主がベッドで寝ているのに、せっかくのルームシェアの初日を迎える同居人さんを床で寝かせるわけには……」


 ごくり。喉がからからに乾いた。

 そのまま黙っていたらもしかしたら、胸の前に手を当てて〝なにか良い方法がないか〟を思案してくれている月城さんの口から『それでは仕方ありません。今夜はで寝ることにいたしましょう』などと満をした提案が飛び出てくる可能性もあった。俺の中で天使と悪魔が囁いてくる。『いいじゃねえか――イケるところまでとことんイっちまいな』と下卑た笑みで悪魔。『そうよそうよ! せっかくの機会を逃すのはもったいないわよ。イっちゃいなさい』と爽やかな笑みで天使。おい天使、言ってること悪魔と同じじゃないか!

 

「ソファーで寝るので大丈夫です……‼」


 

 俺は天使と悪魔の連合軍に打ち勝った。



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