本文
茹で上がるようなというよりは、花びらが赤い色水を吸い上げるような赤面だった。細い指先が居心地悪そうに擦り合わされるさまは、白く靭やかな小鳥が毛繕いをしているようにも見えた。
「──体育大会の時さ、警備係、誰もやりたがらなかったじゃん。それで、真白くんが進んで引き受けてて、」
恥ずかしげに震える睫毛は黒く、長い。半分隠されたチョコレート色の瞳が、表面を晩秋の夕陽にきらきらと揺らしている。
「それで私、ああこの人いいなって思って……それからも真白くん、ずっと優しくて」
黒いカーディガンとタイツに包まれた四肢はほっそりと華奢で、少しでも触れたら砕けてしまいそうだ。さらさらのボブカットは丹念に織られた絹糸のように、重力に従ってストレートに伸びている。
クラスメイトの佐鳥唯葉。学年問わず男子に大人気の、見た目も性格も儚い系美少女。彼女の恥ずかしげな視線は、告白の言葉が進むごと内気に俯いていく。
「──だから、私と付き合ってください!」「俺と付き合ってください!」
「っ」
告白のサビが二重に流れたことで、俺はようやく我に返った。佐鳥さんから離した視線を目の前の名字しか知らない女子に戻し、間髪入れず90度の礼をする。
「ごめん! 俺、好きな人いるから!」
同時にお隣でもおどおどと紡がれるお断りの言葉。
「ごめんなさい。お気持ちはとっても嬉しいけれど……」
その言葉の主は佐鳥さんで、彼女の前で大袈裟にショックを受けるのは、俺からしたら名字すら知らない男子生徒である。
つまり今現在、わが校誇る無人教室にして告白スポット・歴史資料室においては、常連二名に向けた二本の告白が同時上映されていたのだ。
「待たせた!」
「おつ!」
教室を出た俺を明るく笑って迎えたのは、ミニスカート眩しいクラスメイトの弥美川華恋。すらりと長い手足、艶やかにカールした綺麗な長髪。くっきりした二重が輝く文句なしの美少女で、まだ一年にも関わらずバレー部のエースにして、女子生徒の憧れの対象だ。控えめだった過去からするとすっかり垢抜けてしまった、俺の幼馴染でもある。
昇降口に向かう廊下を二人並んで歩く最中、告白の一部始終を聞いていた彼女は楽しげにバッグを振り回す。
「しかし、知らんかったな。冬雪好きな人いるの」
彼女のからかうような言葉に、俺は苦笑と大袈裟な溜息で応戦。
「いねーよ。他にいい理由思い浮かばないだけ」
「もし問い詰められて修羅場になったらあたしの名前出してもいいよ」
「それは有り難いけども」
実際、俺と華恋についての噂を聞いたことがないと言えば嘘になる。まあ、告白を断りまくっている俺が最も一緒にいる友達は人気者の華恋だから、自分でもそりゃそうなるだろうとは思ってるけど。しかし、
「ま、冬雪はそういう嘘はつかないよな!」
ご覧の通り、快活に笑う華恋は俺に対する恋愛感情なんか持っていない。昔も今も良き親友で、俺はその関係こそを居心地良く思っている。きっと彼女もおんなじだ。
下る階段の窓の向こうはすでに薄暗い。野球部の連中が大急ぎでグラウンドにトンボがけをしているのが見えて、華恋も「がんばるねぇ」とか言いながら俺の横をゆったり歩んでいく。
「そういや明日のHR、文化祭係決めって言ってたね」
「ああ、そういえばそうだな……」
俺が思い返すのは体育大会での係決めの光景だ。最も人気のなかった警備係、体育委員がじゃあジャンケンで決めようかと提案をした時。押し黙ったみんなが持つ負の感情に耐えられず、挙手してしてしまったあの日のこと。
以降、俺のクラス内でのポジションはずっとそんな感じだ。頼れる真白くんと言えば聞こえはいいが、その実ただの雑用係。誰もいなければきっとあいつがやってくれるだろうという、都合のいい存在。
隣から華恋がじっとりした目を向けてくる気配がする。
「冬雪、今やってる係なんだっけ」
「……花のお世話係、国語係、学級目標係、掲示係」
「全部押し付けられた雑用だよね」
「うん、まあ」
「既にオーバーワークだよね」
「そうとも言う……」
たどり着いた昇降口に人通りはあまりなく、華恋の醸し出す呆れたオーラが下駄箱周辺を支配する。俺は靴を取り出す振りをして懸命に目を逸らしながら、「でもでも」とか細い抗議を上げた。
「俺クラブ何にもないし趣味も特にないし。時間あるから大丈夫だよ」
「文化祭委員入れても?」
俺が返した沈黙には、特大のため息が帰ってくる。
「やめなよほんと。言っても無駄だろうけど……」
そうやっていちいち気にかけてくれる彼女には申し訳ないが、これが俺の性分なのでどうしようもない。と、言おうと顔を上げると、華恋は打って変わって心配げな瞳で覗き込んできていた。
「……冬雪、自己中の逆すぎ。そんなになんでもかんでもやってあげることないのに」
「わかってるんだけどな……」
どうにも耐えられないのだ。そういう、自分が名乗り出れば済むような場でみんなが少しずつ困っている場面に。
俺が煮えきらずにいると、華恋は端正な唇を結んで、何かの仇のように激しくスニーカーに足を突っ込んだ。
「さっきのコも、ムカつく。冬雪の優しさに黙って甘えてたくせして、好き、とか」
「…………」
華恋が屈んで靴紐を結ぶ時間がどうにも居心地悪く、きょろきょろとあたりを見回してしまう。下校していく佐鳥さんの後ろ姿が遠くに見えた。頼りなげな背中に気を取られていると、華恋が「はー!」と景気よく息を吐きながら立ち上がった。
「冬雪が係になったとして、あたしが部活なきゃ手伝えたのにな」
「しょうがないだろ、俺のことは気にせず部に専念しろよ、邪魔しちゃ悪いよ」
彼女のバレー部は毎年他校を文化祭に招待して試合をしているらしい。華恋は一年にして重要な戦力だから、彼女が満足に腕を振るえない状況では皆困ってしまうことだろう。
そう思っての俺の言葉に、華恋はにんまりと口角を上げた。
「冬雪はそれがいいと思う?」
「勿論。俺も華恋の勇姿、楽しみにしてるよ」
「わかった! そうするわ!」
そしてるんるんと踊るように昇降口を飛び出していく。俺は慌ててその背を追いかけながら、一点だけ看過できずに声を張り上げた。
「いや、つーか考えたらおかしいだろ!」
「え、何が?」
くるりと振り返った彼女は本当になんの心当たりもなさそうだ。俺はぐっと唇を結んで、彼女を追い越すように強く足を踏み出した。
「俺が委員になるの前提で話してるけど! 全然違う可能性普通にあるからな!」
*
「じゃ、うちの委員長は真白ということで!」
いつも通りみんなの空気に追い立てられての挙手を崩せない俺を、拍手喝采が取り囲む。前方の華恋から向かってくる呆れたような眼差しに気まずく会釈で返すと、彼女は「し~らない」とでも言うように肩を竦めて、頬杖ついてあらぬ方向を眺めてしまった。
学級委員・藤沢は黒板に『真白冬雪』の文字を無駄にデカデカと書くと、パンパンと柏手打って教室内の喧騒に対抗した。
「次! 副委員長だけど」
途端、またしても重苦しい静寂が渡る。すでに役割を持っている以外の帰宅部全員が一心不乱に目を背けている気配がした。藤沢がわかりきったような苦笑を浮かべる。
「立候補者はいない……」
よね、という言葉と共に藤沢の目がまん丸くなって、俺の斜め後ろに向いた。なんだなんだ。俺も彼女の視線を辿り、ゆっくりと後ろを振り返る。
「……え」
その先にいたのは、佐鳥さんだ。まっすぐ天高く姿勢よく、意志の漲る挙手をした佐鳥さん。
藤沢が言葉を詰まらせるのも無理はない。彼女は授業で誰かが当てられるシチュエーションでは、どちらかというと気配を消して俯いてる側の人間だったから。
しーん、と気まずい沈黙が支配する教室の中、藤沢はおずおず彼女に語りかける。
「さ、佐鳥さん? お腹痛いの?」
「ち、ちがいますっ……わたし、その、副委員長やりたいです、という……」
ひゅう。お調子者かつ声がデカいことで有名な宮田がアメリカンな口笛を吹く。佐鳥さんはその音にすら萎縮した様子で、耳まで真っ赤になりながら、それでも気丈に唇を動かした。
「わ、わたし、こんなんだけど、その……計算とか、書類とか、そういうのはお手伝い、できる、から」
「決定!」
宮田が今度は劇場でするような派手な拍手をした。その波が教室中を謎に包み込む中、俺と佐鳥さんは学級委員から進行をバトンタッチされぎこちなく壇上に足を進める。肩を小さくする佐鳥さんは未だ真っ赤っ赤なままで、みんなの安心した笑顔を前に「あ」とか「ええと」とか意味のない言葉を繰り返すだけになってしまっている。見かねた俺は彼女にチョークを手渡した。
「書記、お願い」
「あ……」
佐鳥さんはまるで宝物のように、石灰の塊を両手で握りしめた。ついさっきまで迷っていた唇が、決意を帯びたかたちになる。
「うん!」
彼女に頷いて見せてから、「じゃあ出し物決めに移ります!」と声を張り上げた。先程の気まずさが嘘のようにわっと挙がる手の数々。
そう、このクラスの面々は矢面に立ちたくないだけで、決して消極的なわけではないのだ。
果たして、俺たちの出し物はトントン拍子で教室内仮面縁日(ライブ配信付き)に決まった。「仮面舞踏会をやりたい」「縁日をやりたい」「ライブ配信したい」という賛同者の多かった三大案を盛り込んだ豪華詰め合わせである。俺は止めたぞ。
後は予算を確保するために、委員の俺たちが一刻も早く予算書を作成しなければならない。
HRの後、俺は改めて佐鳥さんの机に近づいた。今日の放課後に集まる約束と、先程のお礼のためだ。
「佐鳥さん、ありがとう。申し出てくれて……」
そう控えめに頭を下げると、佐鳥さんはにこりと微笑み耳に髪をかける仕草をした。
「どうして真白くんがお礼を言うの。みんなの中で誰かがやらなきゃいけない仕事なんだから……」
その言葉は意外にも、告白時とかみんなの前より全然しっかりとした口調だった。今度は俺が「あ、そか」としどろもどろに言葉を詰まらせていると、何者かにどん、と背中を強く叩かれる。
「よかったじゃん冬雪!」
弾けるように溌剌とした声は華恋のものだ。俺はやや咽せながら、どうにか三文字問い返す。
「何が」
「ちゃんと力になってくれそうな人が副でさ!」
快活に笑う彼女はさんざん俺を揺さぶりながら、それと全然変わらないテンションで明るく佐鳥さんに話しかけた。
「佐鳥さんほんとありがとー、あたしの代わりによろしくね? ほんとよろしく。こいつほっとくとすぐ自分のこと後回しにするからさ」
「おい……」
「うん」
抗議しようとする俺を遮って、佐鳥さんは控えめに、けれどどこか可笑しそうに頷いた。
「知ってる」
擽ったそうな瞳が俺に向かって、それだけでちょっとどきりとした。
*
俺たちの一年二組教室は書道部が使うので、作業場所は他の、かつ静かな場所がいい。そう相談した時、「歴史資料室は?」と控えめに提案してくれたのは佐鳥さんだ。確かにあそこであれば人通りはほとんどないし、校舎の端だから静音性もバッチリだ。
傾きかけた陽の光は、それでもまだ十分明るく室内を照らし出していた。後方から机を引っ張り出した俺と佐鳥さんは真剣に頭を突き合わせて、必要な予算の根拠を並べ立てていく。その作業に一通り目処がつくと、しんともどかしい沈黙が降りた。俺はメモを元に予算書を書き出しながら、同じく別紙議事録を取りまとめている佐鳥さんを盗み見た。
透き通るような肌は陽光をふんわりと集めて、内側からぼんやりと光って見えた。長い睫毛が落とす影が、頬の上に緩やかな弧を描いている。そのアーモンド型の瞳がぱちりと瞬いて、ゆっくりと俺を覗き込んだ。
「どうしたの、真白くん」
「あ。いや……」
素直に見とれていたなんて言えるわけもなく、俺は言い訳になる話題を探す。蘇るのはやっぱり、昨日バッティングしてしまった告白の風景である。佐鳥さんのモテっぷりは俺たちの学年の中では有名な話だ。俺は遠回りかつ自虐的にそのことに対し言及してみる。
「……俺たち、この学校で一番ここ来てる奴らだったりして、とか思って」
佐鳥さんは小さく唇を開けて、「ああ……」と相槌した。押し隠すようなそれはさっきまでの事務的な会話より、随分低い音程だった。俺は慌てて声を詰まらせる。
「ご、ごめん。不快だった?」
「ううん。ただ、ああいう……好意を寄せられるの、あまり得意じゃ、なくて」
「あー、目立ちたくない、みたいな……」
「うーん……それもあるけど……」
佐鳥さんは、はあ、とため息に似た呼吸をした。かりかりと、彼女のシャープペンシルが丹念な文字を綴っていく。
「どうしてみんな、あんなに簡単に好きって言えるんだろう。わたしのこと、何も知らないのに」
鈴のような声が紡ぐ音色は、彼女に似つかわしくないざらついた感情をはらんでいるように聞こえた。──すなわち、嫌悪という。
彼女のシャーペンががりりと音を立てる。ルーズリーフの繊維に引っかかったのだ。
「本当のわたしのこと。知ったら離れていくに決まっているのに」
「……なんか、わかるな、それ」
俺の同意に合わせ、佐鳥さんの睫毛がぱっと花開くようだった。可憐としか表現しようのないそのさまに惑わされながらも、早口で続ける。
「いや別に俺の場合、そこまで卑屈なわけじゃないけど……そこまで接点なくて、どこを好きになったの? というのはまあ、あるよな」
「あ……」
迷うような声をこぼした後、佐鳥さんは小さくこくりと頷いた。ルーズリーフに落とされた視線の源が光って見えたのは気のせいだろうか。
二人の間にまた長い静寂が訪れる。今度は全然もどかしくなかった。さっきはなかった共感が細い糸のように俺たちを繋いでいるような気がしたから。
俺がルーズリーフに最後の数字を書き込んだと同時、ことん、とシャーペンが置かれる音がした。
「……真白くん。こんな感じでどうかしら」
「あ、うん」
佐鳥さんが差し出してきたルーズリーフを受け取る。几帳面で丁寧な文字の羅列に一通り目を通した俺は、緊張をうつす彼女ににこりと笑いかけた。
「うん。大丈夫そう。ありがとう」
「よかった」
「佐鳥さんがいてくれて助かったよ」
本心を告げると、彼女は擽ったそうにはにかんで肩を竦めた。
「……真白くんの役に立てたなら、良かった」
「うん……」
なんだろう、その意味深なセリフは。
俺は邪念を振り払うように、帰り支度に精を出し始める。佐鳥さんは鞄からレースのついたタオルハンカチを取り出して、相変わらず遠慮深い仕草で立ち上がった。
「ちょっと、お手洗い行ってくるね」
「あ。うん。お気をつけて」
教室を出る佐鳥さんを見送り、筆記用具を鞄にしまっていく。何はともあれ、佐鳥さんが熱心に仕事をしてくれそうでよかった。この調子なら文化祭の準備は安泰だろう。
前方に目を移すと、佐鳥さんがメモを記していたルーズリーフの束が目に入った。走り書きだっただろうに決して雑ではない文字が紙面をきっちりと埋め尽くしている。その勤勉さに感心しながら自分の手元に戻そうとした視線が、ふと、ある一点に吸い寄せられた。
彼女の文房具セットケースから覗いた、スケッチブックの背表紙に。
「…………」
ただのスケッチブックだ。けれど、鉛筆の黒い跡が全面に張り付いていて、表紙の厚紙はところどころ傷つき波打っている。それだけ使い込まれている。それだけ、大切にされている。
どうしてだろう。俺の、自分のバッグのファスナーを閉めるべき手は、そのスケッチブックにゆっくりゆっくり吸い寄せられていった。
今思い返しても、『魔が差した』以外の理由は思い当たらない。実際異様な精神状態だったと思う。普段の俺ならそんな過ちを絶対に犯さなかったと自信を持って誓うことができる。
ひんやりとした厚紙に指先が触れた。購買でも買える身近でチープなスケッチブックの見慣れた表紙は、なぜか経験したことがないほど重たかった。そして数秒後、俺はこの感覚が決して間違いでなかったと思い知らされることになる。
「ッ……」
スケッチブックの1ページ目。議事録と同じ丁寧な筆跡で、いくつもの絵が描かれていた。生き生きとした人体は素人が描けるようなクオリティではないことは確かではあるが、それ以上に──。
いくつもの人物は、皆がロープのようなもので縛られていた。
その全ての顔立ちに見覚えがある気がして、考えて──すぐに思い当たった。朝、晩。歯磨きをするときに覗く、鏡の中に。
「俺か……?」
次を捲っても、その次を捲っても同じだ。俺らしき人物がグラビアアイドルのように縄打たれ、時には吊るされたりなんかもしている。こう記してしまえば簡単だが、つまりそれらの図像が一体何を意味しているのか、この時の俺には皆目見当がつかなかった。
なのに、何故かそのスケッチから目を離せない。口の中が渇く。単純な絵の技術力のせいだろうか。それとも──。
「見たの?」
鈴の鳴るような声が思いの外至近距離から響いて、俺は勢いよく肩を跳ねる。慌てて振り返ろうとする直前、
がちゃん。
自分の手首に触れる冷たい感触と、聞き慣れない金属音。それを正確に認識できないままの視界に、佐鳥さんが映った。
佐鳥さんが、スケッチブックを支える俺の左手首に、金属製で輪っか状の、つまりは手錠のようなものをかけていた。
状況が一切飲み込めない俺は、ただ間抜けに口をぱくぱくさせることしかできない。その手で開きっぱなしのスケッチブックを、佐鳥さんの手がゆっくりと取り上げる。なんの温度もない声が、AI音声のように淡々と響いた。
「見たのね」
「あっ、えと、ほんとごめんなさい俺マジそういうつもりじゃ……っ」
情けない言い訳に執心する俺の両手が、佐鳥さんの指にふわりと包まれる。あ、体温低いんだ。肌がすべすべだな、なんて呑気に気を取られた時、
がちゃん。
後ろ手に回された右手首が、もう片方の手錠に繋がれた。これで俺の両手は完全に拘束されたことになる。
「えっと……?」
見下ろした佐鳥さんの瞳に、なんの感情も見出せない。至近距離からじっと俺の目の中を見つめて、冷静を通り越して冷徹な視線を投げかけてきている。
この距離から見る佐鳥さんの目が魅力的でないわけがない。焦茶は日本人に最もありふれた色ではあるが、彼女の長いまつげが落とす影も、まんまるに映る夕日の赤も、どこか耽美に輝いている。しかしその奥に住まう冷たい眼光は、端的に言って、怖い。さっき仕事をしていた時の健気な佐鳥さんはいったいどこに行ってしまったのか。
戸惑うばかりの俺の前に、佐鳥さんが手を突き出してきた。そこにあるのは彼女のスマートフォンで、映っているのはスケッチブックを捲っている俺の姿だ。
「……は?」
「女子の荷物を勝手に詳らかにするという男として恥ずべき行為の写真。これをもとにあらぬ嫌疑をかけられたくはないでしょう。だったら大人しくして。言うことを聞いて」
「いや、は? 待って、とにかくわからん。頭が追いつかない、その絵もだし、なんか佐鳥さんキャラ違うし、手錠ッ……」
声を詰まらせたのは、佐鳥さんの細い脚が椅子を蹴り飛ばしてきたからだ。ガガガ、と激しく摩擦したそれはまっすぐに俺の方向へ突き進み、足にぶつかる直前で止まった。
椅子自体はなんの変哲もない、さっきまで佐鳥さんが座っていたものだ。困惑する俺に、佐鳥さんの冷たい唇が機械的に動いた。
「座って」
「は?」
「聞こえなかったかしら」
そう告げる佐鳥さんの目は高圧的かつ有無を言わせないものである。俺はごくりと息を呑んで、ゆっくり頷くことしかできなかった。
「……はい」
転ばないように気をつけながら、慎重に椅子に腰を下ろす。おずおずと見上げると、佐鳥さんは透けるような唇をほんの少しだけ持ち上げた。
「よくできました」
「…………」
佐鳥さんでなければ、馬鹿にされてる、と思っていたところだ。しかし相手は佐鳥さんなので、俺は下唇を噛んで大人しく頷く。視界の中で佐鳥さんのタイツに包まれた足が古びたフローリングを歩いて、自分の鞄の前で止まった。ごそごそと中身を探る音がステレオで教室内に響き渡る。
やがて彼女の手が取り出したのは、一本の長い縄である。人間が発する色彩から最もかけ離れた、濃密でビビッドな赤色の縄。それが俺の体にあてがわれて、しゅるしゅる、しゅるりと徐々に制服を締め付けていく。佐鳥さんは艶めく唇からはあ、と色づいた息をして、俺はそれに不覚にもどきりとして、しかしこのタイミングで蘇った理性が現在の状況に急ブレーキをかけた。
「なんですかこれは!」
「ッ!」
俺が初めて発した大声に、佐鳥さんはようやくびくりと身を竦める。「あ、その」それでも、元の彼女のように吃ったのはたった一瞬だ。すぐにさっきの無表情に戻って、唇はロボットのように高速な弁明を羅列する。
「ごめんなさい。わたしには動転すると自分でもびっくりするほど行動力に長けるところがあって、なおかつ今は失うものが何もなくなっているの」
なるほど。だからか。
彼女の今までの奇行の理由のうち一つがわかったが、多すぎる謎がすべて解決するはずもない。
「だからといってなんで縛る……」
「何故山に登るのかという問いに、かのジョージ・マロリーはこう答えたらしい」
び、とロープを引き締めて。
「『そこに山があるからだ』」
「ここに俺がいるからか……」
俺の言葉には何も答えずに、彼女は思い出したように自らの指をセーラー服の胸元に持っていった。赤いリボンを嫋やかな指が解いていく。な、何を。と思っていたら彼女は外したリボンをまっすぐに伸ばして、俺の目元にあてがった。
視界がボルドー一色に染まる。姿の見えない佐鳥さんが、多分もう一度縄に手をかけた。しゅるしゅると衣擦れのような音と二人の呼吸音が、暫しこの場所にしんと漂う。肌に杭打つような結び目が作られるたびに詰まる息は、単に息苦しさのせいなのだろうか。
ふ、と佐鳥さんが笑いを帯びた呼吸をした。
「抵抗すればいいのに。わたしなんてこんなに貧弱で虚弱でか弱いのだから」
弱いという字が三回出てきた。俺はもぞりと言い訳がましく腕を動かす。
「いやだって、手錠……」
「その足は飾りなの?」
そう言われても、こんなに華奢な女の子を、男である自分が蹴り飛ばすわけにもいかないじゃないか。そう言うと佐鳥さんは、そうよね、と囁いて、「それとも」悪戯っぽい声色で俺の耳元を包んだ。
「こんな力のない女の子に好きにされてる自分に、満たされてる?」
「……え」
予想だにしなかった言葉に、俺は間抜けな声を上げる。彼女の言っている意味がわからなかったわけではない。心当たりが全くなかったわけでもない。理解したうえで、わからなかったのだ。
「……は?」
畳み掛ける俺の疑問符に、ふ、と笑いを孕んだ息が耳朶を打った。
「……なんてね」
呆然とする俺を、しゅるしゅると縄の音が取り巻いていく。彼女の手で拘束される箇所が、徐々に面積を増していく。その最中、佐鳥さんは心より俺を案じる声色で優しく紡ぐ。
「痛くない?」
「まあ、痛くは……」
素直に答える俺だが、冷静に考えれば痛いかどうか以前の問題だ。縄で縛りつける行為は本来加害であるはずなんだから。それにあたって痛覚の配慮をしている佐鳥さんも、同じ尺度で答えている自分も、なんだか滑稽で仕方ない。
しゅるしゅる。しゅるる。縄が俺の体を這っていく音がいやに高音質で響く。自分の体の自由は徐々に奪われているというのに、絶望感や不安は不思議となかった。時折感じる佐鳥さんの澄み渡るような呼吸は、縄の繊維に柔らかな切れ込みを入れていくようだ。
鼻の先を、遠くフローラルな香りが掠めた。あ、佐鳥さんの匂いか、とやや変態的なことを思う俺は、すでにこの状況にどうかしてしまっているみたいだ。
「……できた」
どれくらい経っただろう。佐鳥さんの囁きと共に、リボンがゆっくりと外される。眼の前の風景はもうすっかり赤く、佐鳥さんも制服のリボンから解き放たれて、最後に見た姿からもまるで別人のように見えた。絹のような黒髪が赤い光にさらさらと照らされている。先端まで神経の伝わる指が俺の肌からゆっくりと離れて、夕陽のオレンジ色に光る唇が、柔らかくこそばゆい弧を描く。
「真白くん、素敵。すごく似合ってる。きれい……」
佐鳥さんの髪が纏う香料の匂い。はぁ、と上擦った吐息が、埃っぽい空気を甘く、もどかしく侵食する。赤い舌が踊る唇は夕焼けにゆらゆらと燃えるようだ。
ごくり、と喉の奥で音が鳴った。
「……そうでしょうか」
一体自分は何を素敵と言われて、何が似合っていてどう綺麗なのか。彼女の讃辞の向こうに渦巻くものの正体を掬い取れない俺に、佐鳥さんは艶やかな唇を弱く緩めた。
「見たい? 今、自分がどうなってるか」
「いや別に」
「ちょっと待ってね」
佐鳥さんは俺の答えも聞かず鞄に戻ると、愛らしいドット柄の手鏡を取り出した。俺は慌てて首を横に振る。
「別に俺はっ……」
「こんな小さいのでごめんね。見える?」
彼女の手に包まれた円の中に、俺がいた。
赤いロープで縛られた俺が、夕陽に染まった表情でこちらを見ていた。
ごくり、と喉が鳴る。粘ついた唾液が食道を滑り落ちていくのが、不快なんだか好ましいんだか、今の俺にはわからない。
手鏡から懸命に目を逸らしたさまは、佐鳥さんの目にはどう映っただろうか。何か言及されてしまう前に、俺は喉の奥から声を絞り出す。
「さ、佐鳥さんって、ソッチの人……?」
「ソッチ?」
「ひ、人を痛めつけて喜ぶタイプの人?」
「……サディストってこと?」
わかりきったことをつぶやくような彼女は、ほんの小さく目を細めうつむいた。その視線は、どこか遠くを見るように一瞬瞬く。
「……そうなのかな。多分そう。わからない。けど、わたし……」
茶色い瞳は夕日に照らされるせいで、澄んでいるのかいないのかすら不明瞭だ。先程まであった嗜虐的な光は、もうそこからは感じ取れない。
「こういうこと。真白くんにしたいなって思ったの。思ってたの、ずっと……何も知らないのに。おかしいよね。気持ち悪いよね。ほんっとに」
最後の言葉は、普段の彼女とも今の彼女ともかけ離れた、ゴミを投げ捨てるような雰囲気を纏っていた。けれど俺が気になったのはそこではない。彼女の言うように気持ち悪いとも思わない。
「……俺に?」
自然に漏らした言葉が予想外だったのだろう。佐鳥さんがわずかに目を見開く。
「……うん。そう」
「────」
……係活動とかじゃない。誰かの代わりではない。俺じゃなければいけない役目。
俺に求められた役目。
押し黙った俺をどう思ったのだろうか。佐鳥さんは一度瞬いて、申し訳無さそうにうつむいた。もうすっかり元通りの佐鳥さんだった。一時の魔法が解けてしまったみたいに。
「ごめんね、解くね? 最後に願いが叶って良かった……夢を見させてくれてありがとう。あとはもうわたしのことは、煮るなり焼くなりSNSで晒すなり黒板にあることないこと書くなり警察に突き出すなりしてくれてかまわないから……」
「そんなことしない」
「……え?」
俺がつい放った声に、ダークチョコレートの瞳がまんまるく見開く。俺は拘束された身でありながら、加害者たる彼女を安心させるための言葉を選ぶ。
「誰にも言わないし、俺でよければ付き合うよ。その……そんなに、したかったことなら」
夕日に赤く染まる唇がぽかんと開いて、ゆっくりと綻びを見せていく。
「……いい、の?」
「うん。いい。あー……不快じゃない範囲で、だけど」
「そんな……」
薄く開いた白い唇が何か続けようとして、少し迷って、閉じた。小刻みに震えたそれは、か細く遠慮がちに言葉を紡ぐ。
「……ほんとうに、いいの?」
「いいってば」
「ほんとうに?」
「本当に」
「…………」
一瞬、彼女の揺れる瞳が奥に何かを閉じ込めた。それはやがて街のイルミネーションみたいに複雑な光になって、暗くなりかけた教室の中きらきらと輝く。
「ありがとう。真白くん……」
「いやあの、そんな……大袈裟に捉えないで……」
彼女に素直に伝えたら曲解されそうだから言えないが……正直さっきの拘束だって、窮屈ではあったけど、多分そんなに不快ではなかったのだ。ちょっとだけ、俺もしかしたらMの素質があるのかもしれない、なんて思ったりもして。
佐鳥さんの手が、縛ったときよりずっと手早く縄をするすると解いていく。最後に自由になった手首をぷらぷらと振っていると、佐鳥さんの両手がそれを包み込んだ。
「じゃあ、改めて。これから……これから、ほんのちょっとだけ……」
か弱い両手に力がこもる。白い小鳥のようなそれは、縄とか手錠とかよりもよっぽどきつく、俺の手を拘束する。花弁のような唇が、どこか艶やかに教室を彩った。
「わたしに、支配されてください……」
「……はい」
俺は頷いた。困惑と不安の奥、確かに満ち足りた心臓を抱きしめながら。
まあ、この先ずっと、とはとても言えないけれど。
②S鳥さんは女王(の卵)様 若島和 @waka1012_nbl
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