容疑者の少女

「環が殺したんじゃないことぐらい儂も分かっとったわ。そんなことは分かっとった。言われなくともなぁ!」


 有元は言い繕うようにまくし立てると、安尾を睨みつける。


「出しゃばるな、衛生兵の分際で」


「すいません」

 頭を下げる。


 安尾はこの図体の大きな四十男しじゅうおとこが苦手だった。というよりも大嫌いだった。

 集落に加えてもらった時も、有元だけはいい顔をしなかった。

 石塚が言うから渋々認めてやるという態度だった。

 男はことあるごとに、安尾のことをいびってくる。

 虫の居所が悪いせいで理不尽に殴られたことも一度や二度ではない。


 こんなこともあった。

 安尾は毎朝仕事のために、屋敷内にある工場こうばに立ち入る。

 保管している麻の袋と紐が妙に減っていることが度々あったので、不思議に思い何気なく有元に聞くと、まなじりを吊り上げて、

「てめぇ儂が盗んだとでも言いたいのかぁ!」

 万事がこの調子だった――。



「だけど石塚よ」


 有元が腕を組んで石塚を向く。


「なんにしても環に、昨日の夜何があったか聞くことは必要だろうが。必ず何か知ってるはずだ」


「ええ。そうしたいのは山々なのですが状況的に私も少し困っています」


 言って表情を曇らせる。


「彼女、今は話せないのです」


「あん?」


「話せる状態にないのです」


「何言ってる。環が話せないのは当然だろ。今に始まったことじゃねえ」


 環は発話障害を持つ少女だった。

 人の声を聞き取ることはできるが自身で言葉を発することはできない。

 有元の言う「話せない」は文字通りの意味だ。


「いつも通り身振り手振りですりゃいいじゃねえか」


 だが石塚の言わんとすることはそうではなかった。


「そういう意味ではなく意思疎通ができないのです」


「はあ?」


 有元が眉をひそめる。

 安尾も思わず夏村と顔を見合わせた。


「実は皆さんがここに集まる少し前、恵子から『環の様子がおかしい』と聞かされてました。それで離れまで彼女の様子を見に行ったのですが、ずっと押し黙っているだけで、何を聞いてもうんともすんとも反応しない」


「殴るなり水ぶっかけるなりすりゃいいじゃねえか」


「そこまではしませんでしたが、かなり強く揺すっても梨のつぶてです。いわゆる放心状態なのです」


 石塚は顎に手をあて、


「精神的に参ってるのかもしれません……」


「参ってるだあ?」


 石塚はその管理能力を買われ、安尾ら従業員を監督するような立場にある。

 一応、かたち上は奉公人である環もその監督下にあった。


「精神的に……」


 安尾は、ヤミ市にひしめいていた浮浪孤児たちのことを思い出す。

 彼らのほとんどが親をなくした子たちだった。

 その中にも今の環のような状態の子が多くいたのだ。


 目の前で親が死んだ子も珍しくなかった。

 ある子の母親は、爆風で吹っ飛ばされ、地上数十メートル上の電柱の鉄杭に刺さって死んでしまった。

 その子は腐り落ちるまで、電柱の下でずっと待っていたという。


 結局彼は心を壊してしまった。

 それ以降、一切の言葉を閉ざした。何を聞かれても一切答えない。喋らない。


 その話を聞かせてくれたのは、ヤミ市で同じように浮浪者をやっていた元軍医の男だった。

 あまりに辛い出来事であるため本人自ら忘れようと記憶に蓋をする。

 という現象らしい。


「恵子が言うには、朝方目を覚ましたら環はすでに寝床にいたそうです。布団の上に座り込んで、ただじっと黙ったままうつむいてたと……」


「はあ? それで?」


 石塚は、つまりですね、と前置きする。


「恵子の話をまとめるとこういうことです。

 環は昨夜十二時過ぎに、離れから旦那様の寝所へ向かったそうです。

 その日は彼女が当番です。

 恵子は環を見送ったあとそのまま床についたらしいです。

 朝方ふと目を覚ますと、いつの間にか環が布団の上でぼんやり座っていたそうです。

『どうしたの?』と声をかけても一切返事がない。

 俯いてじっと押し黙っている。

 いつ帰ってきたのかも分からない。

 その後しばらくしてタキ刀自が騒ぐ声が聞こえ、旦那様が亡くなったことを知ったそうです」


「ふーん、それで環は今も黙り込んでると」


「ええ」


 環がいつ戻ってきたのか判然としないということは、その夜まるまる事件現場にいた可能性もある。

 環は何かを見たのだろうか。

 例えば誰かが貞治を殺す瞬間を見たとか。頭を滅多打ちにされる様子を間近で見たとか。

 それならばトラウマになるのも無理はない。

 それが原因で何にも話せない状況に陥ってるとも考えられる。


「話せないんじゃなく、話さないだけなんじゃねえのか。自分が殺したから」


 そう言って有元がふふっと笑った。


「有元さん」と石塚がたしなめる。


「ただの軽口だ。いちいち目くじらを立てるな」


 貞治を殺したのは環ではないと思う。

 かといって自殺した可能性は考えられない。木槌で自分を何度も殴って死ぬ人間などいないだろうから。

 それなら一体誰が貞治を殺害したのだろう。


 安尾は雨音を聞きながら、外部からの侵入者の可能性を考えていた。

 この豪雨なら物音はかき消される。

 神谷の屋敷は胸の高さほどの板塀が囲ってあるだけなので、越えようと思えば造作はない。どこからでも侵入することができる。


 木槌は工場に常に置いてあるので、それを偶然見つけたと考えられなくもない。

 外部から誰かが侵入した可能性はある。

 可能性はあるが、結局この集落の立地を考えるとやはり首をかしげてしまう。

 ヤマボシはあまりに世間と隔絶しているのだ。


 一番近い深森集落へは、川沿いのけもの道を約十キロ下ってようやくたどり着く。

 大変な悪路であるため馬車は使えず徒歩で丸一日かかる。往復するなら二日間。


 普段から、外部の人間がやってくることは皆無に等しかった。

 松井という老猟師が、 深森集落から時々猪肉ししにくを売りに来る程度だ。

 ほとんど陸の孤島と言っていい。


 防犯意識が希薄なのはこういった立地条件にっている。そもそも人が来ないのだ。

 もし仮にこんな辺鄙へんぴなところにまでわざわざ神谷貞治を殺しにやってくる者がいたとしたら、それは相当強い恨みを持つ者か、もしくは依頼を受けた殺し屋の類だろう。

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