衛生兵と憲兵

「しかし結構強い力でぶん殴られてるな、こりゃ」


 有元が、陥没した頭部をしげしげと眺めて言った。


「背後からあれで殴りつけたのでしょうね」


 石塚が木槌を指差す。


「殺されたのは、昨日の夜だろうな。当番はたまきだ」


 彼らが夜伽よとぎのことをと呼ぶ慣習はいまだに慣れない。


「環が殺したのか?」


 有元が声を潜めた。

 疑惑がそちらの方に向かうのは当然と思えた。

 夜を共にした環が貞治を殴り殺した可能性だ。


 ヤマボシ製薬の創業者である貞治は戦後の成功者だ。

 多くの金持ちがそうするように、貞治も例に漏れずめかけを雇った。

 妾といっても、ヤマボシにいるのは、まだ年端もいかない少女たちだ。

 環は十三歳、恵子けいこに至っては十二歳だ。

 二人ともヤミ市出身ということだった。


 安尾が、貞治に嫌悪感を抱く大きな理由がこれだ。

 彼の死体を前にした時も、心の底では自業自得だと思っていた。

 少女を囲うことがこの男の嫌らしい趣味なのだ。


 薄気味悪いことはやめろ、と言ってやりたいのは山々だが、そんなことを雇用主に言おうものならたちまちクビになるのは目に見えている。

 ここを追い出されたらまたヤミ市に逆戻りだ。


 だから安尾は自分に言い聞かせる。


――何も環と恵子が特別なわけじゃない。


 ヤミ市には彼女らと同じように、生きるため路上で春をひさぐ少女らが多くいたではないか。

 ござを片手に街に立ち、交渉が成立すると客を薄暗い脇道へといざなう少女たちが。


 生きるために手段を選んでいる人間はいない。

 女でも子どもでも例外はない。明日の食べ物がないのだ。

 むしろ環と恵子は、一日二食が食べられる環境にある。

 それはまだ恵まれている方ではないか。

 生きること、生き延びることが何よりも重要なのだ。


 分かっている。そんなものは詭弁だと。

 おためごかしだ!

 子どもを性対象と見なして買う中年の方が異常なことは分かり切っている!

 だけどそれが言えない!

 自分の保身のために言い訳しているだけだ。

 安尾は、彼女らの立場を考える度、自分にウンザリする。


 貞治は二人を、屋敷からほど近い離れに住まわせていた。

 彼女らは、夜な夜な主人の元へと通う。

 離れと主人の寝所は短い渡り廊下で繋がっている。

 屋敷内に住む他の家族と対面することのない巧妙な造りだった。


 表向きは奉公人ということになっているが、夜の世話をさせるために住まわせていることは公然の秘密となっている。

 妻の香苗かなえはそれを黙認している。母のタキも見て見ぬふりをしている。


「それで、肝心の環本人は今どこにいるんだ?」


 有元が石塚に聞く。


「離れです」


「そりゃおかしいだろ。第一容疑者じゃねえか。ここに呼んで聞くべきだろ。『おまえ昨日の夜に旦那を殺したか?』って」


「あのう」


 安尾は思わず口を挟んだ。


「すいません、よろしいでしょうか?」


「ああ?」 


 有元が振り返って眉間にしわを寄せる。


「何だ衛生兵」


「環さんは、殺してないと思いますよ、旦那さんを……」


 安尾はなるべく笑顔を作る。


「何だ、急に。環を庇うのか衛生兵」


「いえ、庇うわけではないのですが……」


 有元は事あるごとに、衛生兵衛生兵と言って小馬鹿にしてくる。

 安尾はそのたびに後悔する。


 確かに、徴兵検査で乙種おつしゅの判定を受けたのは事実だが、衛生兵として従軍することになった経緯まで、有元なんぞに話してしまったことは失敗だった。

 有元にとっては、戦力に寄与しない衛生兵など鼻くそ同然らしい。

 戦争に負けたのはおまえらみたいな根性なしが多くいたからだと罵られたことも一度や二度ではない。


 彼からさげすまれる度に、憲兵上がりのあんただって戦場には出てないだろうが、と心の中で毒づく。

 それに今、命があるのは衛生兵として配属されたおかげだと思っている。

 もし甲種こうしゅを受け最前線に投入されていたなら、今ごろはジャングルの土の下だったろう。

 そう考えると、自分の痩せぎすな身体にも多少は感謝した方がいいのかもしれない。


 満州から転戦してきた安尾の、四年に渡る長い従軍の最後の勤務地は、ニューギニアの兵站へいたん病院だった。

 そこで多くの死や臨終を見た。

 有元は衛生兵と馬鹿にするが、憲兵のあんたにあの地獄は分かるまい、と思う。


 安尾は頬を上げ、有元に向けて笑顔を引き締める。

 環が殺したのではないと思っていた。


 幼い少女が、金持ちに体を差し出さないと生きていけないのは本当に不憫だし最悪だ。

 だが憐憫だけで庇うわけではない。

 十三歳の少女が恰幅のいい中年男を叩き殺すことは客観的に不可能だからだ。


「私も安尾さんの意見に賛成です」


 言葉を発する前に石塚が同調した。


「あのように被害者の頭蓋を陥没させるためには相当の力が必要です。環のようなか細い娘が木槌で何度も殴りつけるのは困難、いや不可能でしょう」


 石塚は落ちていた木槌を拾い上げ、試すように上下に振った。

 華奢きゃしゃな彼の腕よりも少女の腕はなお細い。


 以前環が薪割りを手伝ってくれようとしたことがあったが、その時手斧ちょうなをほとんど振れなかった。木槌も同じだ。彼女には振れないだろう。


「環を犯人扱いするのは早計です。そもそもこの寝所には鍵がありません。入ること自体は誰にでも可能です」


 石塚はこちらに振り向き、鍵のない木製引き戸を指差す。

 容疑者は無数にいる。暗にそう言っている気がした。


 石塚誠司――。

 この知的な男とは元々ニューギニアで縁があった。

 の地で安尾が少しだけ世話をした過去がある。

 帰国してから、まさか同じところで働くとは夢にも思わなかった。


 終戦翌年の一月、安尾は復員船で帰国した。

 故国はすっかり様変わりしていた。

 空襲で家も親もすべてを失くしたと知った時は絶望した。

 帰るところを失って途方に暮れた。

 半ば生きる意味を失いながら、ヤミ市で浮浪者として身をやつしていたところ、偶然再会したのが石塚だった。


「安尾さんじゃあないですか?」


 最初は誰だか分からなかった。

 路肩でうずくまっていた安尾は、何も答えられずにいた。


「私です石塚です!」


 そう言って、手を掴んできた。

 男は小ざっぱりとした身なりに変貌していた。


 安尾より一足先に帰国していた彼は、ニューギニアで世話になったことをこの上なく恩義に感じていたらしい。

 山奥で製薬事業を行っているので手伝って欲しいという誘いに、この先何の当てもなかった安尾に断る理由はなかった。


「大丈夫です。安尾さんならすぐに仕事に慣れていただけると思います」


 こうしてヤマボシ製薬の従業員という食い扶持を得たのだった。

 覚えているのは、その時石塚にソーダ水をご馳走になったことだ。

 三十一歳にもなりながら、砂糖の痺れるような甘さに涙が出そうになった。


 その後、信じられないぐらいのけもの道を延々と歩いた。

 本当にこんな山奥に集落があるのかと、半信半疑でついて行った。


 今と同じ、ちょうど一年前の九月のことだった。




* * * * * * * * * *


登場人物紹介


●安尾正蔵:元衛生兵。ニューギニアから復員してきてヤマボシ製薬で世話になる。


●神谷貞治:ヤマボシ製薬を立ち上げた傑物。寝所で撲殺死体として発見される。


●石塚:ヤマボシの従業員。安尾をヤマボシに誘った。


●有元:ヤマボシの従業員。元憲兵。大男。


●夏村:ヤマボシの従業員。ヤマボシ製薬設立当初からの古株の青年。


●環:ヤマボシで奉公人として働く十三歳の少女。その実は貞治の妾。貞治の死体のそばで、放心状態で見つかる。


●恵子:同じくヤマボシで働く十二歳の少女。貞治の少女妾。


●神谷香苗:貞治の妻。


●神谷タキ:貞治の母。

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