撲殺

 死体の男は神谷かみたに貞治さだじ

 この屋敷の主だ。


 性行為の最中に殺されたか、もしくはそれに準ずる行為の時に襲われたのかもしれない。

 少し白いものが混じり始めた髪に血が固まっている。

 傍らに転がっている小振りの木槌きづちにもべったりと付着していることから、凶器は一目瞭然だった。



 安尾はその木槌に見覚えがあった。

 ここの従業員が仕事で使うもので、主に植物種子を砕く時に利用する。

 安尾自身もよく手にする。

 どこにでもある内の、ただの一本だ。


「やっこさん。本当に死んじまうとはなぁ……」


 死体の顔を覗き込んでいた有元が静寂を破る。


「ようやく戦争が終わったってのに、ついてねえもんだなぁ……」


 珍しく神妙な声色だった。

 さすがに雇用主の死に衝撃を受けたのだろうと察したが、しばらくするとその巨体を小刻みに揺らし、こらえきれぬとばかりにくっくっくと笑い出した。


「駄目だやっぱり! おい、これ見てみろよ!」


 部屋の入口に立つ安尾たちの方を振り返り、顎で死体の下半身を示す。


「人間ってのは、こんなおっ立てたまんま死ねるんだなぁ、すげえなぁ」


 笑いながら、右肘を繰り返し折り曲げる滑稽な動きをする。

 勃起する様子を表現しているらしい。


「それにしても、こいつぁー腹上死って言うのかね?」


 腹上死ではなく撲殺なのは見て明らかだ。

 ただそう言いたいだけなのだろう。

 ゲラゲラ笑う有元を、安尾は視界に入れないようにした。


 故人のことが好きではなかった。

 むしろ軽蔑していた。だからその死に対して何ら悲しみを抱くことはない。

 ただ有元のように、その死をネタにおどけられる神経は持ち合わせていない。


 隣の夏村を見ると、真っ青な顔をしていた。

 呆然と佇むだけで、有元の不謹慎な冗談にも何の反応も示さない。


「大丈夫ですか?」


 安尾の問いかけに、


「信じられません……」


 青年はぼそりと呟く。

 ずれた眼鏡を掛け直す手が小刻みに震えていた。


 安尾はかすかに同情を覚える。

 死んだ貞治との付き合いは、確か従業員の中で夏村が一番古いと聞く。


 貞治が帝国大学で研究生活を送っている頃から、夏村は助手として彼の下で働いていたそうだ。

 満州の軍事工場へ請われて行く時もよく帯同したと言っていたので、信任は厚かったのだろう。


 貞治がこの山深い集落で「ヤマボシ製薬」を起業した時、半ば引き抜かれる形で大学を辞している。

 集落の住人の中では、神谷家の人間を除き、青年が最も古株というわけだ。


 元々この集落には名前がなかったらしい。

 製薬を行うようになり、ヤマボシと通称されるようになった経緯は、夏村本人から聞いていた。


「ああ、旦那様がなぜ……。一体どうして……。ヤマボシは、ヤマボシは一体どうなってしまうんです」


「残念だったなぁ、夏村。お師匠さんが死んでおまえの将来もこれでパーだなぁ」


 有元の心無い言葉に、青年は言い返すような素振りを見せたが結局黙り込んだ。

 部屋の隅で、黙って腕を組んでいた石塚が、


「タキ刀自とじの言っていたことは本当だったようですね」


 そう言って小さく嘆息を漏らす。


 細面ほそおもてに憂いの色を浮かべている。


「朝から大騒ぎしてたもんなぁ、息子が死んでるって。とうとう耄碌もうろくしたかと思ったがまさか本当になぁ……。どうすんだ? 深森ふかもり集落から応援を呼ぶんかい?」


 有元は立ち上がると腹巻きの中に両手を突っ込む。


「とりあえず、タキ刀自に判断を仰ぎます」


 石塚はシャツの胸ポケットからマッチを取り出すと、行灯に火を入れた。


「婆さんどうすんのかねぇ。ところで今何時だ?」


 石塚はマッチをポケットに押し込み、懐中時計を取り出す。


「六時です」


 室内がほのかに明るさを取り戻し、死体の輪郭や表情が明瞭になる。

 貞治の顔面はだいだいに色づき、その陰影を濃くさせた。

 驚愕と恍惚の入り混じったような表情を貼り付けている。


 安尾は、雇用主の死体をぼんやり眺めながら、ふいにこれからの生活のことを考えていた。

 集落で世話になってから一年が経ち、ようやく仕事にも慣れつつあった。

 まさか、こんなことになるとは。


 またヤミ市に戻るしかないのだろうか。

 戻ったところで食うあてもない。

 もういっそのこと死んでしまうか。


 愚にもつかない考えが頭をよぎる。

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