トラウマ

 ヤマボシは集落の中心に神谷家の大きな屋敷が鎮座し、その周りに従業員用の小屋や蔵などが点在している。


 集落の東西を横切る形で小さな川が流れており、安尾の暮らす掘っ建て小屋は、神谷屋敷と川を挟んですぐ真向かいに位置している。

 毎朝、倒木を横倒しにしただけの橋を渡って、神谷家まで仕事に通っている。


 ヤマボシに暮らすのは、安尾を含めて合計たった十人……、いや今は九人に減ってしまった。

 それがまるで隠者のようにひっそりと暮らしている。

 外からの侵入者よりも、やはり現実的に有り得そうなのは、この中の誰かが貞治を殺した可能性だった――。


 安尾は改めて部屋の中を見渡す。

 畳敷きの部屋の真ん中に布団が敷いてあり、隅には予備の布団だろうか、鏡餅のように重ねられている。


 もう一方の隅には屑籠と行灯が置かれ、壁際には小さな文机ふづくえしつらえられている。旅館の小部屋のような佇まいだ。

 ふと、文机の上に目が止まった。

 机上きじょうの端に紙切れが置いてあるのに気がついた。行灯に火が灯ってなかったら見逃していたかもしれない。


「あれは何でしょう?」


 安尾は室内に一歩足を踏み入れる。

 石塚がこちらを見た。


「あそこです。机の上に……」


 言いながらもう一歩踏み出す。その瞬間、鼻先を血の臭いがかすめた。

 それが一気に鼻腔から侵入してくる。貞治の死体の存在が急速に迫ってきた。

 しまったと思った時にはもう遅かった。

 全身に鳥肌が立ち、視界がぐらりと揺れる。

 発作だった。


 あまりに無防備に部屋の中に立ち入ってしまった。

 強烈な目まいと同時に心臓がバクバクと脈打ちだす。

 すぐに後ずさりをして部屋から出る。


 いつの頃からか、死体の臭いを嗅ぐと発作が起こるようになっていた。

 原因は分からない。


「武運長久」と描かれた手ぬぐいを首から外し、吹き出した額の汗を拭く。


「安尾さん……? どうかしましたか?」


 異変を察した夏村が心配そうに声をかけてくる。

 しゃがみ込んで必死に呼吸を整える。


「あの、大丈夫ですか?」


「だ、だ、大丈夫……です」


 その時、


「おい衛生兵よー」


 有元の意地の悪い声が飛んでくる。


「てめえ衛生兵のくせに死体の見分けんぶんもできねえのかぁ」


 嘲笑がぐわんぐわんと頭に響く。

 意図的に丁寧な呼吸を心がけながら、頼むから治まってくれと祈るように目を閉じる。


 発作自体は久しぶりだった。それでも次に何が起こるか覚えているものだ。

 ほら、目を閉じるとやってきた。

 発作に襲われるとなぜかいつも思い出す。ニューギニアでの光景を。


――えいせいへいさぁーん。


 自分を呼ぶ声。


――さぁーーん……。えいせいへいさぁーん……、えいせいへいさぁーん……。


 山びこのように頭の中に反響する。

 兵站病院。屋根代わりの椰子の葉。うめき声。熱気。腐臭。足の踏み場もないほどに横たわる人間。

 自分はその合間を忙しく動き回っている。手には汚れた包帯。その包帯も火葬する遺体から再利用するために回収したものだ。


 傷病兵の包帯を取り替える時、男らは必ず痛みで叫ぶ。

 叫ばない男はすでに死んでいる。

 なるべく痛みがないように剥がそうとするが、長いこと替えていない包帯は皮膚にくっつき体の一部と化している。

 すまないすまないと謝りながら、ばりばりと皮膚ごと剥がす。

 下にはウジ虫がびっしりと蠢いている。


 絶叫、怨嗟、怒声。毎日毎日傷病兵からそれらを投げつけられて、気力が否応なく削られてゆく。

 遠雷のようにこだまする爆音の中、死を覚悟するような度胸もなく、常に嗅いでいたのは血の臭い。

 脳裏に焼き付いている記憶。


 普段は戦地での出来事は努めて思い出さないようにしているが、突如鎌首かまくびをもたげることがある。


 ああ。

 本当に、久しぶりの発作だった。


 いつから発作に襲われるようになったのだろう。多分帰国してからだ。

 ヤミ市でも何度か同じような発作を経験をしていた。

 進駐軍のゴミ捨て場を漁っていた時、ふいに行き倒れの死体が出てきたことがある。

 腐った臭いを嗅いだ途端に目まいを覚えた。気がつけば失神していた。

 それもまたトラウマの一種であると先ほどの元軍医は教えてくれた。


 不思議と肉食も受け付けなくなった。

 肉の焼ける匂いを嗅ぐだけで吐くようになった。

 最も、肉にありついたことなどほとんどないわけだが。


 戦場での酷い経験は広範囲に精神を蝕むらしい。

 ヤミ市にも、酒に溺れ薬に溺れ、最終的に自ら命を絶つ復員兵は少なくなかった。

 ある復員兵が路上で出刃包丁を首に突き立てた時は、「黙れ黙れ黙れ! 殺したのは俺じゃない!」という辞世の断末魔を残した。


 彼は幻想の中に何を見たのだろう。誰に何を言われたのだろう。

 彼は、戦場で誰かを殺したのかもしれない。

 そして、殺した自分を許せなかったのかもしれない。

 自分も復員兵に違いはないが、人を殺したことはなかった。

 それは衛生兵という立場のおかげだった。


 物資窮乏きゅうぼうの余り、兵站病院で患者を見殺しにせざるを得ない状態に陥ったことはある。

 直接的に人を殺害したことはない。

 実際に人を殺した人間が何に追い詰められるのかは分からないが、人を殺していないということは、救いなのだとその時感じた。


 この正体不明の発作は一体何なのだろう。

 安尾は手ぬぐいを口と鼻にあてる。

 視界がまだ揺れている。


「安尾さん、大丈夫ですか?」


 夏村の声が聞こえ、急速に現実感を取り戻してゆく。

 ここは山奥の集落、通称ヤマボシ。そう、ヤマボシ。

 確認するように頭の中で反芻する。ゆっくり呼吸を整える。


「すいません、ちょっと立ちくらみがしまして……、もう大丈夫です」


 少なくともこの集落で過ごすようになってから、発作は初めてだった。


「本当に、大丈夫ですか? 顔色が真っ青です」


 夏村が心底心配そうな表情を見せる。

 安尾は何度も頷いた。


「何だこりゃ!」


 有元の声が部屋に響いた。

 すでに彼は安尾らに背中を向けていた。

 見ると、有元は手のひらほどの茶色い紙片を手にしている。先ほど安尾が指摘したものだった。


「おい、こいつを見てみろ」


 さも自分が発見したように振る舞う。

 二つ折りになった便箋のようだった。

 石塚は有元からそれを受け取るとさっと広げる。

 読み進める彼の顔色がにわかに曇る。

 やがて顔を上げると、「誰か今日お嬢様を見ましたか?」と皆を見渡した。


「いや今朝はまだ見てねえ」


「僕も見ていません」と夏村。

 安尾も首を横に振った。


 貞治には麻友まゆという一人娘がいる。

 今朝から大騒ぎになっているにも関わらず、屋敷にいないらしい。


「おい、どういうことだ? そこに何が書いてある」


「これは置き手紙です。麻友お嬢様が残したようです」


「あのお転婆が?」


「ええ。実に恐ろしいことが書いてあります」


「何だ?」


 石塚が唾を飲み込む。


「『父の貞治は私が殺した』と……」


「ひっ……!」


 夏村の悲鳴のような声が短く響いた。

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