第5話 『 姉弟の一日の始まり 』
「ふふふーん」
艶やかな黒髪が弾むように舞って、リアンは鼻歌をうたいながら階段を上っていく。
朝が苦手な男の子を起こしに行く、というシチュエーションは女の子にとっては垂涎もののイベントなのだ。リアンにとっては至福の一時以外ない。まあ、彼女の場合は弟の関わる全てのイベントが最高なのだが。
「アノンー。もう朝よー」
弟の名前を呼びながら扉を二回ほどノックしても、声が返ってくる気配はない。
「やっぱり、まだ寝てるのかしら。しょうがないなぁ」
やれやれ、といった風に吐息するも、その表情には幸せそうな笑みが浮かび上がっていた。
「これはアノンを起こす為に部屋に入るのであって、決してアノンの寝顔を覗きたいとか、生理現象が起きてたら処理しなきゃとかそんなやましい気持ちはないっ」
誰に向けての言い訳なのかはさっぱり分からないが、リアンは弟を起こしに行く前に気持ちの整理をした。隠そうとしていている本音が駄々洩れだが、誰にも聞かれていなのでセーフだろう。
火照った頬を冷ましつつ、リアンはそっとドアノブを捻った。
「……私の弟のムスコは元気かなー」
なんとも下品な入室の仕方だが、声量は下げているので万が一弟――アノンが起きていても耳朶に届くことはない。
起こしに来たはずなのに、リアンは忍び足で彼が眠るベッドまで近づいた。
「……まだ寝てるみたいね」
無防備な寝顔を晒すアノン。リアンは彼が起きぬよう声音を極限まで下げた。何度も言うが、リアンの目的はアノンを起こしに来たのだ。
だが、ここで溺愛する弟の寝顔を拝まなければ、自分は姉など名乗れないと心が叫んでいた。
「むふふ。アノンはお姉ちゃんを舐め過ぎなのよ」
気配感知に優れた弟も、リアンの持つスキルの一つ、
「はぁ。相変わらず、アノンの寝顔は可愛いわぁ。天使そのものね」
「こんなに無警戒だと、いっそ襲ってしまいたくなるわね……それになんだかムラムラしてくるわ」
そんな欲求をどうにか堪えながら、リアンは天使の寝顔を10分ほど堪能しまくった。
「流石にそろそろ起こさないとダメね」
トリップに浸かるのもほどほどに、リアンは名残惜しさと、これから弟を起こさねばならない悪魔の所業に血の涙を流した。そして、苦悩の末にようやく覚悟を決めてアノンの肩を揺らした。
「アノン。もう朝よ。起きなさい」
「うぅ……」
銀鈴のような透き通った声音で声を掛ければ、返ってきたのは愛らしい呻き声だった。
「お姉ちゃんの囁きで起きないとは、アノンも成長したわね……っ」
単純に弟を起こすのが下手なだけだが、リアンは勝手に弟の成長に感嘆する。
「起きて。アノン。もう時間よ」
「うぅん………」
「流石は私の弟ね。これしきのことでは微動だにしないか」
ならば、とリアンは次の作戦に出た。
この技を使えば、大抵……いや確実にアノンは起きるのだ。何故これを実行した瞬間に目を覚ますのかはリアンには永遠に謎だが、ともかく、これでアノンは起きる。
「アノン。もう起きなさい。起きないと……」
ゆっくりと、心地の良い夢を見ている弟の顔に近づく。胸の高まりを抑えつつ、リアンの吐息はアノンの頬を撫でた。
女神のような美しい顔が、思わず甘噛みしたくなる小さな耳の前で止まった。
距離はほぼ密着状態。リアンの口から興奮が抑えきれず熱い吐息が零れる。
そして、その熱を余すことなく伝えるかのように、けれど声音は慈悲を帯びて――弟の耳元で甘く囁いた。
「キス、しちゃうわよ」
ふぅ、と吐いた熱い息が弟の耳朶から脳内を伝って、そして全身を侵す。
羞恥心か高揚か、リアンの頬は朱く染まる。恥ずかしさに耐える絶世の美女の絵面は、それだけで宮殿の絵画に飾られるような価値があった。
世の男にとっては絶世の美女にキスされる、なんて機会はもはやご褒美以外の何ものでもなかったが、その真紅の瞳に映っているのは正真正銘、血の通った弟なのだ。
「――ん」
だから、アノンはその魅惑の誘いを受け入れるのではなく、拒否するように瞼を開いた。
もぞもぞ、と芋虫みたく体をくねらせながら、布団の温もりに抗うようにアノンは体を起こすと、
「――くあぁ。おはよう、姉さん。今日もいい朝だね」
穏やかな笑みを浮かべるアノンに、リアンは不満そうな表情をしながらも挨拶を返す。
「おはよう、アノン」
「朝からむくれてどうしたのさ、姉さん。そんなじゃ可愛い顔が台無しだよ」
アノンに可愛いと言われて心臓が爆発しかけたが、なんとか踏ん張るとリアンはむぅ、と頬を膨らませた。
「私はどんな表情でも可愛いからいいのよ。そんなことより、アノンってば、どうしていつもキスするって言った途端に起き上がるのよ?」
そんな姉の言及に、弟ははてと小首を傾げた。
「さぁ? 偶然だよ、きっと」
「その偶然。今日でも1206回目って知ってた?」
するとアノンはわざとらしく驚いた。
「凄い偶然の連続だね。これはもう奇跡だ。それに裏を返せば、姉さんが僕にそれだけキスするって言ってたことになるね」
「愛の為せる業ね!」
豊満な胸を張って、リアンは自慢げに答えた。するとアノンはそうだね、とリアンの愛情を平然とした顔で受け入れた。
それからアノンはぐっと背筋を伸ばすと、自分の温もりの残るベッドから出る。
くあぁ、と欠伸をかくアノンに、リアンは苦笑すると、
「アノンたら、良く寝るのはいいことだけど、寝すぎるのもあまり良くないわよ?」
「じゃあ、明日から早く起きれるように頑張ってみようかな」
「そうね……ううん。やっぱり駄目! そしたら、アノンの可愛い寝顔が見れなくなっちゃう⁉」
アノンが自分で起きるようになってしまっては姉としての務めが一つ減ってしまう驚愕の事実に直面してしまい、リアンの顔面が蒼白になる。
弟に尽くしたい姉としては非常に避けたい事案だ。その一方で、アノンの成長を見守らなければという自制心も働いている。そして、どちらが正しいか分からなくなってしまった。
葛藤する姉に、アノンはふふ、と微笑むと、
「そうやって、姉さんがいつまでも甘やかしてくるから、僕が思うように自立できないんだと思うよ? 自分で起きなきゃ、とはいつも思ってるけど、この生活リズムに体が慣れちゃったんだよね」
「じゃあ、私がアノンの目覚し時計ってことね!」
「姉さん、話聞いてた?」
「うんうん。ちゃんと聞いてるわよ」
自分が目覚し時計の役目なら、これは弟を甘やかしているのではなく、彼の生活を支えているということだ。ならば、これを継続しても何ら問題ないという結論に至った。
「という訳で、これからも毎朝、私がアノンを起こしてあげるわね」
「どういう訳なのさ?」
「細かいことはいいから。ほら、早く下に降りましょ」
「もう、姉さんは相変わらず楽観的だな」
楽観的になるのも、アノンの前でだけだ。そして、それはアノンも知っている。
手を伸ばせば、アノンは躊躇いなくその手を握った。外では年頃の男の子だからか滅多に手を繋ごうとしないが、家ではこうやって素直になって手を繋いでくれる。
アノンの温もりを堪能しながら、リアンは共に部屋を出て行く。
「でもやっぱり、いつまでも姉さんに頼り切りは申し訳ないなぁ」
廊下を進んでいると、少し後ろでアノンがそう呟いた。それに、リアンは「いいのよ」と首を振ると、
「全然気にしないで。私がやりたくてやってることなんだから」
「でも、姉さんはいつも忙しいでしょ」
「忙しいのとアノンのお世話は別の話よ。むしろ、アノンにはもっと私を頼って欲しいくらいなんだから」
「もう十分頼ってるけどなぁ」
謙遜するアノンに、リアンは甘やかす姿勢を崩さない。
リアンがどうしてアノンをこんなに甘やかすのか。当然、アノン本人はとっくに既知している。だからいつも甘えているが、いつまでも自立できないのも男してはみっともないと感じているらしい。
苦悩するアノンをリアンは一瞥すると、一つ指を立てて告げた。
「いい、アノン。私はアノンにとっては世界一頼れるお姉ちゃんなの。だから、弟の面倒を見るのは当然の義務。――それくらいさせてくれないと、貴方のこれまでの人生に釣り合いが取れないのよ」
「そんなことはないと思うけどなぁ」
無意識に声音に剣幕が帯びてしまって、しまったと息を飲むが、アノンは暢気なままだった。それに安堵して、リアンはアノンの手を強く握った。
「私は、アノンがいればそれでいいの」
「僕も、姉さんがいればそれだけいいよ」
「ぐふっ⁉」
アノンから不意打ちを喰らって、リアンは堪らずその場に崩れた。
姉の奇行に、アノンは驚愕に目を剥いて、
「姉さん⁉ 急にどうしたのさ⁉」
「ご、ごめんなさい。あまりの嬉しさに立っていられなくなってしまって」
「嬉しいって。僕、姉さんが言った事そのまま返しただけだよ」
「それでも嬉しいのよ! アノンに求められたら何でも喜んじゃうの私は!」
「えぇ……」
癇癪を起せば、アノンはならばどう返事すればよかったのかと戸惑ってしまった。
「姉さんて、僕への耐性なさ過ぎだよね」
「大好きなんだからしょうがないじゃない!」
弟耐性、なんてスキルがあればリアンはとっくに獲得している。じゃないと、リアンはいつかアノンのくれる愛情に溺死してしまう。
いまはとっくに瀕死なのだが、アノンは容赦なくトドメをさしてきた。
「僕も姉さんが大好きだけど、姉さんみたいには流石にならないよ」
「ぐはぁ!」
「今のどこに鼻血が出る内容があったのさ⁉」
「大好きって、お姉ちゃん大好きって言ってくれた」
ついに
一方のアノンはご乱心の姉に動揺しまくりだ。廊下で鼻血を流しながら倒れるリアンに、アノンは姉の心情が読み取れず混乱する。
姉を慮るアノンの顔が真紅の双眸に映り込めば、リアンはここは天国なのかと錯覚した。
――あぁ、お姉ちゃんは朝から何て幸せなの。
「もう死んでいいわ」
「いや死なないでよ⁉」
幸せを噛みしめる
朝から、何とも賑やかな光景だ。
けれどこれが、グレア姉弟の一日の始まりの一幕だった――。
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