p.25 準備もいよいよ大詰めです(2022/12/21)
それはとある一室での出来事。
人の精神を崩すための香と、崩した人を焚いた煙草。
二つの香りは複雑に絡み合い、互いに牙を剥く。
火照った肌に暗色のシーツをまとわりつかせ、しどけない動作で髪を梳く妖精は、窓から差し込む月明かりにその美貌を掬わせた。
しかし、はあ、とため息をつくのは、今夜の相手に限り、妖精自身なのであった。
「こんな時期に私を呼ぶなんて、よほどの悪巧みをしているようね」
宵闇のような、けれどもよりくっきりとした鮮やかさのある瞳は、ただ窓の外を見つめているが、彼女の言葉は明確に、背後へと向けられていた。
そこで帰り支度をしていた夜の魔術師は、芸術品を愛でるように、淡く微笑んだ。
部屋に充満している香りの角度が、鋭利になる。
その変化は些細なものであったが、この妖精は人の情を煽ることに長けているため、それだけで気づくだろう。そう考える魔術師の手が止まることはない。
「深入りするつもりはないわ。……でも、せっかく祝祭期間に会えたのだし」
次に振り向いた妖精の身体には、深い青と赤紫の波打つようなドレープがなびいていた。あらゆるものが揺らぐ時間その色。
たおやかに差し出された手のひらの上にあるのは暖炉の炎を閉じこめたような、目を惹く美しさの紫水晶で、魔術師も例外なく目を向ける。
(……仮にも情欲の妖精が、そんな気まぐれを起こすなよ)
だがそれは、呆れ果てた視線だ。
「……気まぐれじゃないわよ」
「人の心を読むな」
用を終えたのですぐに立ち去るつもりの魔術師であったが、さすがにこのままではいけないと向き直った彼に、妖精は満足げな笑みを浮かべ、「それは難しい相談ね」と首を振る。しかしその瞳にわずかな恐れが滲んでいるのを、妖精は隠しもしないし、魔術師も気にしない。
この均衡は、いつ崩れてもおかしくないものだからだ。
よって二人は、時に身体を、時に言葉を交わして愉しむ。
「貴方に本命ができたという噂を聞いたから、こちらから歩み寄ってあげたのに」
「使う情報源を見直したほうがいいな」
魔術師は簡単にあしらいつつ、妖精の手の中にあるものをよく見せろと視線だけで促す。
決して受け取ろうとはしない魔術師に妖精は心得たように近づき、彼がよく見えるように指先で宝石を摘まんでみせた。
その紫色の鮮やかさは妖精の羽と同じように透き通り、また同じように蠱惑的な光を孕む。いっぽう石の内側では燃えるような灯りが激情を湛えており、容易に触れることを躊躇させる。
「……お前、わかってやっているだろ」
「当然だわ。あわよくば、なのだもの。受け取ってもらえなくて、ざあんねん」
おどけたように笑う妖精の言葉に滲む本心に気づき、魔術師はようやくため息をつく。しかし当然、妖精の望んでいた類のものではない。
(これは……本物だろうな。面倒なものを出しやがって)
魔術師が頑なに受け取らず、心の中でも明確な言葉で分析を行わないのには、理由があった。
暖炉宝石と呼ばれるこの石は、一般的に女性が愛する男性への想いを宝石に込めることで作られるものだ。特に人間のあいだでは、婚約指輪のお返し、あるいはそういった関係への申し出の贈り物として好まれる。
炎の煌めきが強いほどに相手への想いが込められており、また、宝石との色なじみによって品質が異なる。
そういう意味で、妖精が手にしているものは十分に高品質だといえた。
魔術師は遠い目をしながら、昼間に魔女から送られてきたメッセージを思い出す。
『準備もいよいよ大詰めですね。改めて、魔術師さんに喜んでもらえるようにと用意をする難しさと、楽しさを感じています』
これまでのメッセージからしても、彼女が魔術師に贈り物を用意していることは明白だ。妖精と違い、人間社会に馴染まない魔女がどのような物を贈るのか期待感があるいっぽう、不安もつきまとう。
(……さすがにあいつは妙な物を寄越さないだろうな)
そうして、魔術師は残酷なことに、自身が監視する目の前で妖精に暖炉宝石を破棄させたのであった。
「…………はあ、情報源を見直す必要はなさそうね」
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