p.19 あなたは登場人物ではありません(2022/12/15)
魔術の糸を編んでいく。ビーズの代わりに針が掬うのは、星の並びと、時間の理と、それからちょっとした思い出。魔女とのやりとりを彷彿させる、束ねた香草の意匠。それから魔術師は少し考えて、昨晩の印象的な夜空も加え、おおよそ長方形となるように形を整えた。
器用に模様を生み出す指が編み目をなぞると、糸は金属となって定着する。
(あいつは結局、最後まで気がつかないんだろうな)
思い出すのは、遠い過去のこと。魔術師がただの少年だったころ、彼の生まれ育った国で起こった、物語にすらならない些細な出来事。
*
「助けて、くれた……?」
街を出て逃げ込んだ森の中、確かに、その悪意の奔流は少年へと向けられていたはずだった。
しかし、人間の子供の身体など一瞬で壊してしまうであろう魔法の風刃は今、目の前に立つ女性の手のひらの上に集まっている。
まるで春風と戯れているかのように、ハッと目を惹くほどに深くて鮮やかな色合いをした髪が揺れる。
声をかけて初めて、その女性は少年に目を向けた。
「いいえ」
「じゃあ、おれを、殺しにきたのか?」
「……? どうしてそう思うのでしょう。理由がありません」
こっくりとした葡萄酒色の瞳には善悪の光が浮かばず、そこにあるのは純然たる疑問だけであったが、少年は気づかない。善悪以外の判断というものを、彼はまだ知らなかった。
「みんな、おれの家族を恨んでる、って……」
少年の両親は、この辺りではそれなりの影響力を持つ商会の長と補佐役であった。善意の塊のような人柄で綺麗な商いを重ねて堅実に利益を出すような、珍しいほどに清廉な商人。その姿勢は人間のみならず様々な者たちからの支持を集めた。
しかし本来、善意の裏には悪意があって然るべきなのだ。
少年の両親が善意を崩さなかったことで、巡り巡って綻びは生じてしまった。顔も名前も知らない何者かによる悪意を悪意で塗り固めたような逃れようのない罠にはめられ、多くの信頼を裏切る形で出された損害。そうして、魔女や妖精たちの怒りを買ったのである。
目の前の女性は魔女なのだろうが、初めて見る顔だ。どうやら彼女も少年の事情を知らないらしい。
「あなたは、家族を奪われて悲しいのですか?」
当たり前だ、反射的にそう答えようとして、少年はふと思いとどまる。
(そんなこと、初めて聞かれた……)
彼の家はいわゆる「幸せな家庭」だったのだろう。両親は外面だけでなく少年に優しく、しっかりした教育を施し、祝い事があれば家族全員でお祝いをした。
けれどもそれは自分が望んでいたことだったのだろうかと、少年はここにきて初めて疑問に思った。
たとえば、家族との出来事を女児の人形遊びのように見ていただけだとしたら。
「……あなたは、過ぎた善意に飲まれてしまったのですね」
「すぎた、ぜんい……?」
少年は首を傾げたが、魔女がそれに答えることはなかった。
彼女の曖昧な微笑みに、ここで会話を終わらせるわけにはいくまいと必死に言葉を繋いでいく。せっかくなにかを掴みかけたのだから、手放したくない。
そのあいだにも魔女は大きな魔法を動かし、誰かの悪意をいなしている。
けれどもそれは、矛先を向けられた少年を守るためではないらしい。
圧倒的で、気まぐれで、恐ろしいほどに美しい。
「――なあ、助けにきたわけじゃなくて、殺しにきたわけでもなくて、お前、おれになんの用があるんだよ」
「用があるなんて、言ったでしょうか? わたくしは、わたくしの物語を紡いでいるだけなのです。そしてあなたは登場人物ではありません」
いくつも質問をして、ようやく返ってきた言葉がそれだった。
あんまりではないかと少年は眉をひそめ、それから一瞬遅れて飲み込めた意味に、呆然とする。
「おれは、出てこない……?」
「わたくしの物語には、ですけれど。……ふふ、登場人物になりたいのなら、あなた自身が物語を紡いでゆけばよいのです」
「おれが、物語を?」
魔女はやわらかく微笑みながら頷いたが、そこにはなんの感慨もないことに、少年は気づいた。
「……な、なら。お前の物語よりもずっと面白いやつを、紡いでやる!」
*
少年だった魔術師の宣言に、魔女はようやく瞳の奥に楽しげな表情を覗かせたのであった。
今ならば、あの時の魔女がなにを守っていたのか、わかる。
(……これだけあいつのことを考えていたんじゃあ、世話ないな。昨晩やり損ねた魔術だけでも動かしておくか)
手の中にある美しい金属板は、まだ完成ではない。物語の終着点を見越し、乱れた星にあえて繋ぎを作っていく。
そんなふうに夜を紡ぐことのできる魔術師になったのだ。
自分はこれだけ変化があったのに、魔女は少しも変わらないと、魔術師は皮肉っぽく笑った。
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