p.09 ただ善良というわけではないのです(2022/12/05)
ちかちか羽を光らせて恋人の腕にすがる妖精。支払いの滞った客の壊される音。赤ら顔で下卑た笑いを隠しもしない男は今夜の相手を見定めている。
祝祭が近づき、夜を照らす灯りが増えれば増えるほどに影は濃くなっていく。
魔術師が今向かっているのも、そんな深い穴の、怪物たちがどろりと蠢くような場所であった。様々な顔を持つファッセロッタの、おぞましい一面を象徴する場所。
「影の心地よい日ですな、夜の魔術師殿」
と、まるで初めから一緒にいたかのような自然さでのっぺりと平坦な人影が隣に並ぶ。しかし魔術師は驚くことなく、ただ眉をひそめて不快感を示した。
「場所は伝えたはずだが」
「おやおや。これ以上減らされては堪りませんからなあ」
はは、と可笑しそうに笑うその男に瞳はなく、眼窩にはがらんどうの夜が広がっている。めちゃくちゃに重ねた絵の具のようにべとりとした闇の色。かつて魔術師との勝負に敗れ、代償を支払った結果だ。
「……ったく」
その残忍さを知る者は、みな等しく彼の言動を注視する。それを承知の上で、魔術師は罠を仕掛けていくのだが。
(魔女に毒されたか)
ここ数日は、暢気で、物事を額面通りにしか受け取らない相手と関わっていたからか、ほわほわとした陽光を浴びる機会が増えていたのだ。隣を歩く瞳のない男も、こちらが指定した場所に来るだろうという無意識がはたらいていたことに気づき、舌打ちをする。
かといって悪意を滴らせる手管が鈍るわけではないのだが、たとえ自分であっても、魔術師は無意味な気の緩みを好まなかった。
「はてさて、今夜はどのような物語を見せてくれるのやら」
「お前を楽しませるためじゃないぞ」
欲望とは不思議なもので、ふとした瞬間にあらぬ方向へと人々を転がしていく。権力だったか、金だったか。とにかく意地汚い野望を抱えて夜の魔術師の闇に触れたこの男は、代償を支払わされてもなお、闇の中で掴む成功を欲してやまないのだ。
魔術師に群がる者は、そういった性質を持っていることが多い。あるいは、自分は悪意とはかけ離れた安全な場所にいると信じながら、興味本位でこちらを覗こうとするような。
気を抜いたら最後、紡がれた悪意の糸に絡めとられるだけだというのに。
(だが、あいつは……なんというか、異常なほどに純粋なんだろうな)
直接会えば些細なことで動揺し、メッセージでは楽しい楽しいと新しいことを知った喜びを伝えてくる。昨日送ってきた、情緒が皆無のメッセージには呆れを通り越して頭を抱えたほどだ。
それでも魔術師は、最初の日、彼女が己の欲を見せた姿を忘れない。
魔女のそれは、一種の狂気なのだろう。美徳も、突き詰めれば刃となる。そして彼女は、厄介なことに、自分で自分の狂気を理解しているのだ。
怒りでも、悲しみでもなかった。純粋に、手の中にある森を慈しんでいた。慈しみ、それ以外のものは知らぬと目をやることもなく。
『……わたくしは魔女なのですから、ただ善良というわけではないのですよ』
あの日、魔女はそう言って、寂しそうな、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべたのだ。
驚愕に瞠目したのは魔術師に捨て駒にされた遊び相手だったろうか。それとも、魔術師自身であったのだろうか。
「……魔術師殿?」
思いに耽る魔術師に、瞳のない男が声をかける。この男は本当の意味で恐ろしいものを知らないのだなと、魔術師は残念に思った。
(自分の立ち位置すら理解できなくなったか。これはもう要らんな)
ふっ、とろうそくの火を吹き消すように、魔術師はひとつの駒に対する興味を失った。
目として使うのに都合がよかったからこうしてたまに遊んでいたが、そもそも瞳は奪っているのだから外側は必要ないのだ。
「はは、やっぱり待ち合わせは罠でしたか」
「そうかもな」
行き先を変更した魔術師に、やれやれといったふうに男は首を振った。
わあんと狭い路地に乾いた笑い声が反響し、物陰に潜むなにかがその空虚を食む。
夜の中に夜が広がっていく。
魔術師はひとり、ひどく愉しそうに口の端を歪めた。
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