ケアレスミスの怪我

 翌日。放課後の菫の自宅にて、昴生は言葉を失っていた。


「…………」


「それでわたしだけ見れた猫は、その指輪の持ち主の死んじゃったペットの猫だったんじゃないかなって、思うんだけど、」


 想像上の昴生は、今現在と同じように言葉少なで話を聞き終えた後、静かに理詰めしてきて、菫とアルカの迂闊さを叱ってくると予想していた。

 しかし現実は、菫が昨日の話を終えても昴生は黙り込んだままだ。

 胡乱げな目を向けられたままのため無視されてるとも思えず、菫は反応に困ってしまった。


「……他に、猫の他に何か思い当たる異変は見たか?」


「他? 他は……特に」


 幽霊と聞いて思いつくのは、血まみれ、肌が土気色、ゾンビのような怪物じみた外見や動く骸骨のような、見た目から生者ではない存在だ。


 菫の目に映った猫はそこに生きているように見えた。生前と変わらない姿であれば、生者と死者を見分けられない。

 猫以外は見ていないと聞いた昴生の肩が僅かに下がる。表情は苦々しいまま。


「……恐らく、原因は僕だ」


「へ?」


「織部の目に影響を及ぼしたのは、片岡の魔力だと仮定していただろう。今回は僕の魔力に影響を受けた状態なんだ」


「あ、なるほど」


 文化祭前。八重樫百合と出会った時にそんな話をしていた。

 霊的存在を八重樫には見えず、昴生には見える。そして猫を見えていなかったアルカも、見る力はない。並べればわかりやすい。


「んんー……でも、魔力の影響受けるほど昴生くんと一緒にいた感じしないよ?」


「術者との距離は無関係だったのだろう。……君に、僕の魔力を持ち歩かせていたのが悪かった。僕の失策だ」


 なるほど、と菫は再び納得する。

 アルカとの距離は学校では席も近く、友人として接している時間も長く、互いの家に泊まり一晩過ごした事もある。


 一方で昴生の魔力を纏っているのは自宅の鍵だ。

 外出の時は常に持ち歩き、自宅では置きっ放しだとしても、さほど離れているわけではない。一番離れているのはアルバイトの時くらいだと思うほど、常に持ち歩いていた。


「これまではアルカと同じものを見ていたけど、昴生くんの魔力で上書きされたから今は昴生くんと同じものが見えてるんだね」


「え? なにそれなんかむかつく」


「片岡の怒りは最もだ。織部、組紐を返せ」


「へっ!?」


 二人の会話が微妙に噛み合っていないと思うよりも早く、差し出された昴生の手のひらに菫は驚きを浮かべる。


 元々付けていたキーホルダーとの相性が悪いという理由で昴生が用意したのが、薄紫と黄色の糸で編み込まれた組紐が輪になっているシンプルな形のストラップだった。

 文化祭より数日前に渡された、パンジーのような色合いのプレゼントを菫は気に入っていた。だからこそ警戒した。


「か、返したら、どうするの」


「燃やして処分する」


「も、燃やさないで!? もう持ち歩かないから……!」


「捨てるならどちらにせよ燃えるだろう。それに魔力の名残があるものを家庭ゴミに混ぜて出すな」


「あ〜スプレー缶みたいにガス抜いとく感じ?」


「何故、片岡はどこから説明すれば適切なのか判断に迷うような疑問を持つんだ」


 昴生は魔力付与された物の影響で火力は増さない事と、家庭ゴミにおける防犯意識について説明し始めたところでアルカの関心は尽きたようで、目と口が半開きになった。

 二人が魔術と生活の話をしてる間に、菫は椅子の横に置いたままの鞄から鍵を取り出し、こっそり組紐を外した状態で鍵だけをテーブルの上に置く。


「ごめん、なんかどこかで落として無くしちゃったみたい!」


「……先程部屋の鍵を使った時に付いていたし、僕の魔力が君の手元に残っているのはわかる」


「……だよね……」


 取ってつけたような薄い嘘に昴生はやや嫌悪を浮かべる。菫も咄嗟の事で脇の甘さは自覚していたため、気まずそうに視線を落とした。


「何を考えて……まさか自宅に保管するつもりか? 持ち歩く時間を減らしたところで意味がないだろう」


「そ、そんなことは、やってみないとわからないよ!」


「なら、まず別ケースを検証する必要性を僕に説いてくれ。君が本来、見えてはならない物が増えている現状を維持するメリットでもいい」


 寸分の妥協も許さない姿勢を保つ昴生の言葉に、菫は吸い込んだ息が重く感じた。

 説明か、説得か。

 魔術に関して素人の菫に説明など出来るわけがない。説得するために用意出来る理由は、手放したくない気持ちに起因する感情論ばかり。危険性を秤にかけられて押し勝てるとは思えない。


 説き伏せる言葉が出せないなら、差し出すしかない。彼は菫の身を案じているのだから、言う通りにするべきだとわかってはいる。

 それでも、組紐を隠している左手は握り締めたまま膝の上から動かない。


 菫は答えを出せず、ただ黙り込んでしまう。静観していた昴生は沈黙が答えだと判断し、椅子から腰を浮かせて右手を伸ばし、


「いッ!」


 その時、菫の目前まで近付いていた昴生の手に、残像が降りかかった。バチン! と鋭い音を残して、昴生の腕も残像も菫の視界の端に外れていった。

 何が起こったのか、考える間も無く呆けていると残像が止まり、それがアルカの手だと判明して理解した。

 アルカが、昴生の手を弾き飛ばしたのだ。


 状況はわかっても、何故そんな事になったのか菫にも昴生にもわからなかった。そしてアルカの、怒りと困惑と不機嫌を混ぜ合わせた複雑なしかめ面を見て、ますます疑問を深めた。


「……片岡、どういうつもりだ? 君は織部から組紐を離す事に同意していただろう」


「そうだよ。だってよくわかんないけど、持ってたら良くないんでしょ」


「わかっているなら何故、」


「でも、菫、返したくなさそうなんだもん」


 険しい表情のアルカから吐き出された、拗ねた子供のような反論。

 菫も昴生も、目が丸になる。


「継片のせいで菫が怖いものとか見たらむかつくし、菫がもらった紐大事にしてるのもなんかむかつくし、私には見えないのに二人だけは同じもの見えてるとか、はぁ!? なにそれすげーむかつくし! そんなもん燃えちゃえばいい!! ……でも、菫が返したくないなら、返さなくていいって思う。継片の言うことなんかほっとけばいいし!」


「は……?」


「あ、アルカ、いやいや、なんというか、もうちょっと言葉を包んで……」


「知らん! むかつくもんはむかつくもん! むかつくけど、継片は多分、悪いことは言ってないのはわかる……わかるけど! 紐取った方がいいってわかるけど、菫が返したくないなら、継片が取り上げるのは駄目だと思ったの! でもなんて言ったらいいのかわかんなくて、わーってなって、つい手が出ちゃったの! そこはごめんなさいでした!!」


 怒りを露わにしたまま、それでも手を上げた事は悪いと自覚あったらしく投げやりに謝罪を吐き出してアルカはぷいと二人から顔を背けた。

 嵐のような捲し立てをただ浴びる一方だった昴生の茫然自失とした表情が、みるみると平静を取り戻していく。


「……、……ああ、そういう話か。理解した」


「昴生くんも普通に怒っていい話なんだからそんな簡単に納得して流さないで……」


「片岡は今の状況を理解した上で、織部の肩を持ちたいだけだろう?」


 溜息混じりに「なら仕方ない」と言う。いやいや仕方ない事だと許容していい話じゃないだろうと菫は昴生の言葉に対して、首を横に緩く振るしかない。

 そもそもこの妙な状況を作ったのは、渡すのを渋った自分のせいなのでは、とじわじわと罪悪感が込み上げてくる。菫の表情を見た昴生ははっきりと首を横に振った。


「最初に言った通り、僕が迂闊だった。今もそうだ。獰猛種の檻に不用心に腕を入れたんだ。そうしたら払い退けられた、噛みちぎられなかったのは僥倖だったという話だ」


「誰が獰猛な獣だーッ!!」


「君しかいない、……っつ、ぁ、」


 彼は苦悶の声が漏れた口を反射的に左手で抑えた。少女二人の驚愕の表情を見ないように視線を斜めに逸らして。

 昴生の表情はいつもと変わらずほぼ無だ。けれど、彼の前髪が肌に貼り付いているのが見えた。暖房もついていない、薄着ではやや肌寒い程度の室内で、彼は酷く汗をかいている。不意に訪れた沈黙の中で菫はその不自然さに気付いた。


「気のせいだ」


「いやいやいやいや!」


 そして出された回答がこれである。納得出来るわけがない。


 菫は勢いよく立ち上がった。隣のアルカも顔色悪く立ち上がる。昴生も荷物を持ちながら逃げの姿勢に入る。

 さくさくと早足で玄関に向かい、何事もなかったように靴を履いて帰ろうとする昴生を菫とアルカは慌てて追いかける。


「待って待って! 明らかにどこか悪い反応だよ! 無理しないで、横になった方が、えっと、救急車とか」


「問題ない。休んで落ち着くものでもない。だが急用が出来たから今日は解散とさせてもらう」


「まま、まって、せめて付き添うよ!」


「不要だ」


「そんな状態で一人で帰らせるとか出来ないよ!」


「命に関わるような事じゃない」


 これは何を言っても止まってくれるものじゃないと判断した菫は直接引き止めようと試みる。

 しかし肩を掴んだ瞬間、昴生の口から再び痛みに耐えるような声が溢れたため、菫は「ごめんなさい!」と反射的に手を離すしかなかった。掴んだ、と言っても強く握り込むような事はしていないのに、問題ないという自己申告が全く信用出来ない反応だ。


「う、腕!? 私がさっきベシッてした腕、まさか、もげた!?」


「もげてない。片岡は落ち着け、見ればわかる事を聞くな」


「で、でも、継片、右手かばってる。痛いんじゃ」


 鞄を腕にかけているのも、靴の踵を踏まないように添えている指も左側の方。右腕は肘を曲げた状態で体の脇に維持されている。

 不調の原因は腕の痛みだと指摘され、昴生は動きを止めるがそれは一瞬だけだった。


「……痛みは〈緩和アジェーヌ〉で抑えられる、問題ない」


「痛みを抑えるだけで原因を治せるわけじゃないって教えてくれたの昴生くんでしょ! わたし達のこと言いくるめられないなんて全然大丈夫じゃないんだよ!」


「どういう理屈だ……」


「やっぱ救急車、いや、命の危険ないならタクシーだっけ、ああっスマホ! まって、取ってくるから……!」


「〈緩和アジェーヌ〉かけるなら、私が、」


「いい、君達は、何もしなくていい。言っただろう、これは、僕の自業自得だ」


 話の続きはまた明日、と付け加えて彼は、まるでいつもと変わらない様子を装って、二人の引き止めを振り切り出て行った。


 扉が閉まり、早足で離れていく音が微かに聞こえる中で、リビングに戻ろうとした菫と玄関の前で呆然と立ち尽くすアルカだけが残された。――そして、アルカが力なくその場でへたり込んでしまう。


「えっ、アルカ、大丈夫!?」


「どうしよう、どうしよう、私、何も考えないで叩いたから、力加減まちがえたんだ、まちがえた、怪我させた、あいつから教わったのに、教えてくれたのに、私、」


「アル、」


「嫌い、もう、自分が嫌い……」


 小さく床に蹲ってしまった怪物の傍らに膝をつき、細かく震える丸い背中を菫は慰めるように撫でる。


「大丈夫だよ。昴生くんが問題ないって言ったんだから、大丈夫。明日、学校で一緒にごめんなさいして、怪我の事とか聞こう」


「……ぜんぜん、大丈夫そうじゃなかった」


「うん。すごく痛がってた。怪我、心配だね」


「……うん。……どう、しよう、どうしたら、いいの……」


「えっ、えーと……弁償、この場合は治療費とか、お詫びの品? でも昴生くん、お金とかお菓子とか受け取ってくれるのかな……」


 つい直前、「何もしなくていい」と彼の言葉を思い出す。一字一句同じ言葉で受取拒否される光景が目に浮かぶようだ。


 それに、彼は痛みに耐えながら怒りを露わにしなかった。

 呻き声を隠そうとした事、穴だらけの誤魔化しを強引に通そうとした事、問題ないと強がるその態度が、自分達に気を遣わせないためように、菫には思えた。予想が当たっていれば、昴生はきっと償いを受け取らない。

 収まらない怒りを抱えてるならわかりやすい拒否だが、彼は恐らく全く怒っていない。わかりにくく気を遣っているのか、大袈裟なやりとりが面倒なのか、または他の理由かまではわからないが――菫はやはり、彼のそういうところはちょっとどうなんだ、と思った。


「おかねと、おかし……いらないとか言いそう」


「……やっぱりそう思う?」


「思う。……でも、うん。わかった」


 ゆっくりとアルカが体を起こす。充血した目は強い意志の秘めていた。


「菫、私もちょっとやること出来たから、帰る」


「一人で大丈夫?」


「大丈夫じゃない。このまま泊まって寝るまで菫に背中撫でてもらいたい。でも、それだとなんか負けた気がするから、帰る」


 甘えたい気持ちも意地っ張りな負けん気も本心だろうが、堂々とした語気でまとめて言われて菫は少しだけ笑いたい気持ちを抑えた。

 そんなふうに言われたら、「そっか」と見送るしか出来ない。


 すぐに荷物をまとめて帰ろうとするアルカを引き止めて濡らしたタオルを貸して目元だけを冷やさせる。顔を離した時、少しだけ夏空のような瞳が明るく見えた。

 そうしてアルカが帰っていくのを菫は見送り、玄関扉が閉じられる。


 扉に背中を預けて、菫は思う。

 強くて、強がりで、優しく、誰かのために出来る事を見つけられる友人を、魔術師達を。


 自分が魔術師であれたなら。

 組紐をお守りとして渡されることもなく、昴生が怪我を追う事も、アルカが自責に苦しむ事もなかったはずだ。

 そんな、もしもの妄想の中でしか、このトラブルの回避方法を考えられない。もっと具体的に、確実に、昴生に手を差し伸べられたあの時に組紐を返す事で終わっていた話だとわかっていてもなお、菫はもしもの話しか頭にない。


「……悪いのは、わたしなのになぁ」


 せっかくもらったものを返したくない。あの昴生から何かを贈られるのはきっとこれっきり、一生に一度の機会かもしれない。


 些細な我儘だった。怪我人を出してでも通すべき我ではないはずだ。

 さっさと返せばよかったと考えは浮かんでも、燃やされたくない我欲の方が強かった。帰った友人二人を見送った後の今もなお、強いまま。

 呟いた声色も、責められなかった事への罪悪感と安堵感が半々という、あまりにも身勝手な様。独りきりの部屋で、嘲笑が漏れる。

 せめて、彼の怪我が大した事ないといい。菫の良心はそう願った。



 悲しい事に、悪い予感というのは当たるものである。

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