6章 キン蹴りの余波
6章 episode 1 助っ人で泳ぐ
◆ 舞美を応援する谷川と青木。
舞美は退院した。谷川はこの顛末を青木に伝えた。
「泉谷は眠っている藤井の額にショートキスして帰ったが、次に現れたのは本命かどうか知らんが、巷でバカ息子と噂されている四男だ。大きな花束を抱えて見舞いに来たが、俺もSPも追い払われた。どうやらベランダで話したようだが、叩かれた跡があった。キスしてあわよくばと迫ったのだろうが、陰気な男だった」
「ほう、叩いたのか!」
「そうだ、舞美ちゃんはSPから護身術をマジに習っていたからな。俺は唖然としたよ。あれは襲われる可能性があるとSPが判断したからだ。面白がって練習していたが、それは使われることなくバカ息子は頰を押さえて帰った。わかったことは、泉谷は舞美ちゃんに惚れているが、世間体を考えるとさすがに後妻や愛人には出来ない。そうだろう、45歳の年齢差だ。親子以上だ。それでバカ息子と表面上は夫婦にして、実際は自分の女にするつもりだと俺は勘ぐった。護身術の相手はSPが手を出せない相手、つまり泉谷だ、間違いないと思う。
舞美ちゃんはゴールデンウィークに父親と会えるのを楽しみにしている。俺もあんな娘が欲しいと思ったよ。言っとくが、お前のライバルが一人増えた、泉谷士郎だ。海千山千の親父が惚れた娘だ、興味を持つのは当然だろう」
谷川は泉谷から依頼された患者を完治させたことで、病院長から労いの言葉と1週間の特別休暇を与えられたが、休暇のことは三段腹には言わなかった。まとまった休みが取れたと知ると、カーテンを引いて迫って来るだろう、夫を繋ぎ止めようと迫るだろう。俺だって子供がいないのは淋しい。俺の遺伝子を継ぐやつはいないのか、そう悩んだ時期があった。そのうち、この女が生む俺の子は見たくないと思うようになった。
谷川は本屋を覗き、原宿や渋谷の雑踏に紛れ込んで自分の時間を楽しんだが、一人でうろつくことに飽きた。3日目の休みに入った。そうだ、舞美ちゃんを誘ってデートしよう。おたふく風邪を治してやったから無下に断ることはないだろうと電話した。
「谷川だ。元気になったかい?」
「はーい、今から高石記念プールに練習に行きます。ピンチヒッターで明後日の『日本学生選手権水泳競技大会』に出るんです。同級生の沢田に頼まれたら断れなくて。先生、見に来ますか?」
「学生選手権? それはインカレかい? 高石記念プールとは?」
「青木先生に聞いてくださーい」
高石記念プールは戸山キャンパスの地下に昔からある室内プールで、上はカフェテリアだ。青木と冷やかしに行ったら、藤井は胸に『旭丘高』のロゴがついたスクール水着で泳いでいた。
「懐かしいなあ、あの水着は俺らの高校だ。おい、アサ高の水泳部がインターハイで全国2位になったな。あの子はその時の選手か? 見てみろ、速いぞ!」
「そう言えば、年数は一致する。熱が下がって6日めか、谷川、藤井は泳いでも大丈夫か?」
「100パーセントとは言えないが、ここに名医がいるから心配ない」
二人に気づいた舞美はプールの中から大きく手を振った。
練習が終わって舞美は水着のまま近づき、
「すみませーん、着替えますから少しだけ待ってください、食べに行きましょ、腹ペコです!」
男子部員とふざけあって消えていった。
「舞美ちゃんはいつ見てもいいなあ。見たか青木、あの華麗なターンを! ここだけの話だが、あの子を抱きたいなあ、あんなに反り返るのかなあ」
青木は呆れて谷川を見た。お前は三段腹がお似合いだ、俺だって我慢してるんだ。
「お待たせしました。来てくれてありがとうございました。エントリー後に女子部員が2名も退部したんで、助っ人です。明日ユニフォームが届きます。それより、あー、腹減ったあ!」
「舞美ちゃんはアサ高時代は水泳部か? インターハイに出たのか?」
「うん、出た。あのときもピンチヒッターで、水泳部の子が急にアレになって、その子ってアレの時はタイムがガクンなのね。それで私が頑張ったの、ねぇ、腹減ったよぉ!」
1,280円の食べ放題にしましょうと、学生で満員の焼肉屋に入った。
あっちこっちから、
「藤井、どうしたんだ? 本当に泳ぐのか、大学の恥をさらすなよ」とからかわれた。
「泳ぐよ、信じられないなら本番のタツミに来てよ! 見せてやるから」
にっこり笑って、舞美はバグバグと食べながら、
「谷川先生、青木先生、私を気にしないでお酒飲んでください。明日の練習があるので帰ります。腹筋300回が待ってます。失礼します」と自分の食事代を置いて帰った。
えーっ、腹筋300回? 酒も飲まずに谷川が目を回した
6章 episode 2 助っ人の本番勝負
◆ 舞美は気絶寸前のキスで落ち着いた。
翌日、ラスト練習を青木は見に来た。大学のユニフォーム姿の藤井は軽く流していた。前日は猛特訓はないはずだ。青木に気づいた舞美は「先生、4時に終わるから送ってくださーい!」と大声で甘えた。一斉に注目を浴びた俺はさすがに恥ずかしかった。
舞美を迎えに行って「どこかの店で何か食べるか」と聞いたら、
「夕食は冷凍グラタンとカップうどんにします」と言った。そんなもので明日泳げるのかと訊いたら、「普通に食べると本番で気持ち悪くなるんです。私って意外にデリケートなんです」と俯いた。
まもなく寮だ。「無理するな」と降ろそうとしたら、
「先生、気絶寸前のキスしてくれますか」
青木は車をUターンさせて、茂みに隠した。
舞美は不安な眼をしていた。それは明日の泳ぎだろう。軽くキスして、しばらく耳朶を舐めた。そして顎を引き寄せて唇を塞ぎ、永い時間離さなかった。
「先生、ありがとう。迷いが取れたみたい。でも唇が痺れちゃいました」、そう笑って帰って行った。
翌日の日曜日、青木は辰巳国際水泳場の観覧席にいた。泉谷が来るだろうと思ってサングラスを用意した。大きなリュックを背負った谷川を見つけた。
「特別休暇をもらったがヒマを持て余して後輩を応援に来てしまった」、照れくさそうに喋った。
スタートから飛ばした舞美は予選を突破した。午後は準決勝から始まる。泉谷は4人の息子を連れて観戦に来た。
テレビカメラのアングルが変わった。テレビ局は泉谷ファミリーがなぜ来たのか真意を掴めないままカメラを回した。女子100m準決勝に残り、決勝に勝ち進んだ舞美はタッチの差で4位だった。だが次の200mは体力の限界だったのか、6位に沈んだ。
青木は藤井を応援する泉谷の目線を見ていた。谷川が言うようにこの男は舞美に惚れている。だが俺と同じように手元に置けずに悩んでいる、それが伝わった。大声で舞美を応援していたのは泉谷のSPたちで、それを士郎は静かにしろと一喝した。青木は全てを見ていた。
「よくやった」と泉谷は通路で舞美を抱きしめた。わけがわからない息子たちは、親父の女好きがまた始まったのかと父を白い眼で見ていたが、士郎だけは舞美を見つめていた。
「あの子は水泳部ではない、助っ人だ。湯河原に引き連れた学生に沢田という水泳部員がいた。そいつから頼まれたのだろう。『売られた喧嘩は買ってやる!』と言った子だ。お前にわかるか?
俺は予選落ちでも褒めてやった。入賞を逃して悔しがっている気持ちがわかるか? プールから上がった舞美ちゃんを監督はねぎらっていた。エントリー後に出場辞退する不名誉をあの子が跳ね飛ばした。決勝にも進んだ、4位でも6位でも俺には十分だ」
悔しくて泣いている舞美をSPの山本と中村は抱き上げ、ボール投げでもするように交互に宙に飛ばしては抱きとめた。「楽しい、もっとやって!」、悔し涙はどこかに飛んで行った。驚いたテレビカメラがレンズを向けていた。俺のSPはあの子の番犬になったなと泉谷が笑った。
呆れて観戦している青木に、
「心配して酸素吸入器や医薬品を持って来たが、まったく元気だ、良かったよ。俺らには考えられないことだ」
「昨日はプレッシャーで暗かった。予選落ちの恐怖と戦っていた。それがああだ。まったくお手上げだ」
「なんだお前、会ったのか? 送ったのか?」
「そうだ。どこか店で食べようと誘ったが、明日のことを考えると部屋で食べますと帰った。ああ見えても神経は細い子だ」
「お前は自由でいいなあ」、谷川が呟いた。
7月のある日、士郎を連れた泉谷が久しぶりに食堂を訪れた。
「まあ、坊ちゃん、立派になられて」と、士郎を見たおばさんは眼を潤ませた。
「舞美ちゃんはいないのか?」
「いやですねえ、先生まで舞美ちゃんがお目当てですか? プールです。もうすぐ来ますよ」
「水泳部に入ったのか?」
「そうじゃなくて、なんとかの資格がどうのって」
まもなく舞美がにっこりと笑顔で来た。
「おばさん、お待たせしました。あらっ、いらっしゃい!」
舞美は濡れた髪を後ろに束ねてジャージ姿で現れた。
「今度は何をする気か?」
競泳着でピースサインしている舞美の写真は、大きく引き伸ばされて店内に飾られていた。それを見ながら泉谷は聞いた。
「夏休みに田舎でバイトするんです。ライフセーバーするんです」
「へぇー、泳ぎが得意なのはわかったがなぜだ?」
「欲しいものがあって、ライフセーバーの方がコンビニのバイトより時給がいいんです」
「大変だろう? 危険じゃないのか、大丈夫か?」
「だから講習と訓練を受けてます。でも常にペアで任務に当たるのが基本です。通常は迷子探しと飲酒遊泳の防止がメインらしいです」
「それよりもおじさん、もし時間があったら私んちへ来て泊まってくれませんか? 山本さんも中村さんも一緒に、ぜひ来てください」
「いいのか?」
「はーい、パパがきっと喜んでくれます。ママがいなくなって元気ないんです。待ってまーす」
6章 episode 3 初めてのキン蹴り
◆ 泉谷は舞美の家を訪れ、楽しい時間を過ごした。
7月25日、舞美のバイト先と聞いた海水浴場に泉谷は車を停めさせた。
赤のキャップをかぶり、SURF PATROLと書かれた黄色のパーカーをはおったビキニ姿の舞美を発見して、泉谷とSPは息を呑んで見惚れた。腹筋が見事に割れていた。迷子なのか泣き喚く幼児の手を引いていた。
「おい、女でもあんなになるのか」と泉谷はSPに聞いた。
「鍛錬次第でしょうが、あまり見たことはありません。海上自衛隊が欲しがりそうな体型です」
「やれやれ、まったく面白い子だが士郎では無理か」
舞美の家に泊まった一行は歓待された。5時にバイトを上がった舞美は、SPに手伝ってもらって山盛りのおかずをたくさん持って来た。
「おじさん、これ食べてください」、出されたのはイワシの生姜煮だった。
「あー、旨い!! 言うことない! 山本、中村、食べろ、食べろ、実に旨い!」
久しぶりに大人の客を迎えて嬉しそうに酒を酌み交わす父を見て、舞美は嬉しかった。
「あのね、スーパーでこれを買って来てください。バイトが終わったらダッシュで戻ります。お昼は『冷やしきしめん』です。用意したのであとはお願いします。バイトに行って来まーす」
「山本、こっそりついて行け」、舞美が心配な泉谷は命じた。
山本は遠くから見守っているだけで楽しかった。
俺より泳ぎは達者そうだが、あそこで酒盛りして騒いでる連中の眼が気になる。どうも舞美ちゃんを狙っているようだ。そのうち、ペアでパトロールしている舞美の相棒に何かを告げて、海へ向かわせた。
卑猥なことを言って舞美ちゃんをからかっているようだ。腕を引っ張られた舞美ちゃんが転んだ。すわっ、助けようとしたとき、男が大声を出して倒れた。股間を押さえていた。
舞美はすました顔で「お酒を飲んで騒がないでください。警察を呼びますか、救急車ですか」と去って行った。こんな所で股間蹴りか、教えておいて良かったと山本は思った。
バイトから戻った舞美は、つまみに名古屋名物の『どて煮』を作り、次はコトコトと煮込んだ山盛りのロールキャベツを振る舞った。食堂で覚えた惣菜を今風にアレンジした炒め物や煮物で、泉谷たちは眠くなるほど腹一杯食べた。
「きょうね、酒盛りして騒いでるグループがいたの。注意するとエッチなこと言って抱きつこうとしたんで、一度は試したかったキン蹴りをマジに試したの。そしたら気絶しちゃって救急車よ、だらしないヤツ!」
中村はひえっと驚いて山本を見た。山本はそうだとうなずいた。
「危険だな、そんなバイトはやめなさい」と言う泉谷に父は、
「舞美の相棒はどうしたんだ? ペアでパトロールするんだろう? そう聞いたが」
「あのね、そいつらの仲間から騙されて海へ行かされたの」
「じゃあ、明日は役立たずの相棒を蹴り上げなさい」
そのセリフに泉谷は苦笑して、
「舞美ちゃんはそんな技をどこで習ったんだ?」
「ライフセーバーの訓練です。抱きつかれたときの『体落とし』も習いました」
中村と山本は顔を見合わせて笑った。
朝食をみんなで食べて、舞美は昼食の用意とメモを残してバイトに行った。2人の親父は将棋盤を囲んで、あーでもない、こーでもないとひがな一日を過ごしていたが、かれこれ一週間ほど経った朝、
「舞美ちゃん、何十年ぶりかでこんなに嬉しい日々を過ごさせてもらった。ありがとう。涙が出るくらい楽しかったよ」
プチュして東京へ帰って行った。
黄門サマ一行が帰り、父は気落ちして寂しそうに見えた。
「舞美はすごいなあ、あんな人たちと巡り会ったんだ。心配したが東京に行かして良かったと、つくづく思ったよ」
一人で歩き出した娘を見て、そう言った。
6章 episode 4 リュウの苦悩
◆ 舞美とリュウの気持ちは空回りを続けた。
バイト先に南条が来て、ライフセーバーの舞美を見て怒り出した。
「なんでそんな水着を着てるんだ、恥ずかしくないのか!」
「パパに贈りたい物があって、時給がいいからセーバーのバイトしてるの。どうしてここに来たの?」
「市村さんから電話もらった。舞美の家に親父さんの仕事上の偉い人が泊まるから、黒いワゴン車が停まっている間は近寄るなと言われた。バイトのことも聞いた。僕はずっと舞美を我慢してるんだ。バイトは何時に終わるんだ? 一緒に帰ろうよ」
そうか、大輔がそう言ってくれたのか、大輔、ありがとう……
「おーい、藤井、何してんだよー」、相棒の酒井が呼んだ。酒井は名大水泳部の3年生で、東京からふらりとバイトに来た舞美を可愛がった。先日の股間蹴り事件を反省して、片時も離れずにペアで行動した。
逞しい男と肩を並べてバイトに戻っていく舞美を、南条はいつまでも見ていた。舞美、遠くへ行っちゃダメだ、僕がいるじゃないか。舞美のくっきりと腹筋が割れた姿を幻だと思いたかった。
舞美の父は泉谷の滞在中は有休を取ったが、通常勤務に戻った。南条は何度も会いたいと舞美に電話したが、会う時間がない日々が続いた。今夜は遅くなるから夕飯はいらないと父が出かけた日、浜に近いラブホで南条に抱かれた。
「どうしたんだよ、こんなに日焼けして。運動部の子みたいで、僕の舞美じゃない! 早く脚を開いてくれよ!」
会ったときから苛立っていた南条は、大きく脚を開かせてキスしたまま無理やり突破しようとしたが、なかなか辿り着けず焦り出した。
「舞美は疲れてるんだ、お風呂に入ろうよ、洗ってあげる」
シャワーを秘部に注ぎながらキスしてつぶやいた。
「力を抜いて、お願いだ。そう、そんな感じ」
やっと南条はシャッターをこじ開けた。それからは暴れっぱなしで、舞美はついて行けなかった。体のどこかのパーツが攻撃されているが、痛いや気持ちがいい感覚はなかった。暴れ放題に暴れて疲れ切った南条は眠ってしまった。
寝顔を見ながら舞美は思った。私は抱かれるだけの女なの? こんな人と会ってこういう体験したと言うと、悲しい眼をして聞きたくないと首を振る。リュウ、私をしっかり見てよ! リュウだって私に言いたいことがあるでしょ、言ってよ!
ある日、バイトから戻った舞美に父は、
「南条くんが将棋の相手に来たが元気がなかった。舞美と会ったのかと聞いたら、バイト先で会ったけど、僕が知ってる舞美さんじゃなかったと気を落としていた」
えっ、リュウはヤバイことを言わなかったかと、舞美は不安になったが父は話を続けた。
「舞美がライフセーバーのバイトを頑張っているのは知ってるだろう。溺れた人を救い、自分を守るには体力や筋力が必要だと、今も毎晩300回の腹筋をやっている。鍛えたくて鍛えたのではない。自分で選んだバイトで周囲に迷惑をかけたくないから鍛えているんだよ、君にわかるか? そう言ったよ」
やっぱりパパはわかってる、そう思った。
「舞美、バイトの金を何に使うか知らないが、金を稼ぐのは大変だとわかっただろう。金は大事だ。僕はママに送金している。金がないママはすぐ捨てられるだろう」
「パパ、やめてよー、悲しいよ」
「ちゃんと聞きなさい。ママがその男を選ぼうと家に戻って来ようと、ママが幸せであればいい。泉谷さんと話してそう思った。あの人は日本を揺るがした修羅場を幾度も経験した人だ。決して多くは語らない人だが、僕の心にいくつもの言葉を残してくれた。
「パパ!」
「泣いてないで、300回頑張れ、あしたもバイトだろ」
6章 episode 5 嵐のアクシデント
◆ 低体温症の酒井を看護し、グッドバディに近づいた。
バイトが休みの月曜日、南条が来て「ごめんね」と舞美にキスした。「何が?」と訊くと、
「僕の知らない舞美を見たくなかった、知ろうとしなかった。でも、東京でどうしていたか話してくれるか? 聞いても僕にはわからないことばっかりかも知れないけど、聞きたい」
南条は優しい眼をして舞美の話を聞きながら、泣いたり笑ったりした。
「もう乱暴にしない、約束する。悔しかったんだ。僕が意気地がないだけなのにイライラをぶつけていた。自由に生きている舞美に嫉妬した、ごめんね」
舞美の裸をじっと見つめて、頑張ったねと割れた腹筋を撫でて、「行くよ」とゆっくりキスを始めた。「もういい?」と見上げて、そっと入って来た。中で大きく広がって隅々まで埋め尽くし、優しく動き始めた。
そうよ、これが私の好きなリュウなのよ。懐かしい幸せに包まれた。何度も何度も抱き合って、気がつくと夕暮れ近くなっていた。いけない、パパが帰って来る。
「私、ご飯作るから、お掃除をお願い。一緒に食べようよ」
料理を運んで来る南条を見た父は、
「南条くんも舞美の家来になったのか。舞美、ボトルを持って来なさい。君たちも飲みなさい」
舞美は明日のバイトが気になって缶ビールにしたが、南条は断りきれずにグラスを重ねていた。
「パパ、泊まってもらいましょうよ」
「そうだな、それがいいな」
「えっ、舞美さんの部屋ですか?」
酔ったその言葉に、父は南条の頭をパコンと叩いて「まだ早い!」と一喝した。
翌朝、バイトに行く舞美を抱きしめた南条は、「毎日がこうだったらいいなあ」と甘えてキスしたが、舞美は夜半からの雨と風が気になっていた。
北上する台風の余波を受けて海は荒れ、客は少なかった。
「午後には遊泳禁止になるだろうが、もし救助要請があってもこの高波ではオマエは無理だ。浜でオレのサポートしろ、海には絶対に入るな。こんな天候でもオレたちの眼を盗んで、沖に出るバカがいるから見張ってろ、わかったか!」
酒井は険しい目つきで雨を睨みつけていた。
正午に遊泳禁止の警報が鳴り響き、遊泳客は浜へ引き上げた。舞美たちもクローズ体制に入っていたところ、
「仲間が2人戻ってない!」と駆け込んで来た男があり、海を見たが何も見えない。
風に煽られながら監視塔に上がり望遠鏡で見渡すと、確かに人影が見えた。沖合200m辺りだろうか。
「警察と消防に電話しろ、急げ!」
ライフセーバーは舞美を入れて3人しか残ってなかった。
酒井とセーバー・キャップの滝田が救助に急いだ。大波に遮られて酒井はなかなか遭難者に辿りつけない。これでは体力が持たない、舞美が不安になったとき、酒井の赤いキャップが見えなくなった。まさか! しばらくして海上で呼吸する酒井のキャップが見えた。大波を避けようと潜って遭難者に近づいたが、ターゲットの方角がわからず、浜にいる舞美に合図した。
舞美は監視塔で、大きな赤い旗を持って腕を伸ばして遭難者の方角を指した。
一方、滝田は最初から潜水して遭難者に近づいたが、途中で遭難者の方向がわからなくなったときに、舞美の旗を見た。
やっと遭難者2名を確保したが、浜に上がった途端に酒井は崩れ堕ちて救護本部のベッドに寝かされた。
「体力を消耗して体温が下がっている。さすって温めてやれ。死ぬことはない」、滝田は警察と消防の対応に追われていた。
ベッドに横たわった酒井の大きな体は冷たかった。小刻みに震えていた。力を入れて必死にこすったがまったく効かない。舞美は酒井の隣に滑り込み、ひしと抱きついて擦り続けた。
「酒井さん、起きて! もう大丈夫だから早く起きて!」
大泣きして励ます舞美の声が届いたのか、やがて震えは徐々に収まって僅かに血の気が蘇った。滝田が叫んだ。
「もう少しで覚醒する、それまでの辛抱だ、藤井、頑張れ、頼んだぞ!」
酒井は、遠くで滝田の声を聞いた気がして目を覚ました。
これは何だ? 隣の温かい生き物は? そうか、藤井か。心配して俺を抱いているのか。薄眼を開けると、ぴったり体を寄せて泣いていた。女の子に抱かれると気持ちいいなあ! ずっと温もりに包まれていたいと思ったが、いつまでもバディに心配かけてはいけない、わざとらしく寝返りを打った。
「わっ、起きた! 起きた! 死ぬかと思いました、良かったぁ!」
起き上がろうとした舞美を見て、酒井は真っ赤になった。
「おい、おっぱいポロリだぞ」
酒井を抱きしめているうちに、成熟前の乳房が溢れていた。
「すみません、必死だったので……」
「おお、気がついたか。俺は初めから潜水したが、酒井は泳いで確保しようとした。あんな大シケでは無理だ。体力を消耗するだけで危険だ。今後は気をつけろ。藤井、君の指示がなかったら、潜ったオレたちは方角がわからなかった。何よりも酒井が危なかった。見かけよりも頭がいいなあ。ただし、キン蹴りはやたらにやるな」
6章 episode 6 恋人って何だろう?
◆ 酒井と舞美では恋人という定義がまったく違った。
世話になったから送って行くと言う酒井を無視して、舞美はバスで帰ろうとしたが運行休止だった。
「おい、乗れよ、バスは来ないぞ。海が荒れて客がいないからバスは休みだ」
舞美を拾って酒井は走り出した。
「世話になった、ありがとう。オマケにおっぱいを見せてもらった。藤井はインカレに出て決勝に進んだらしいな」
「はい、そうです。でも、あれはマグレでどうってことないです」
「生意気なやつ! もしオレの大学で欠員が出たら来てくれるか? ピンチヒッターで泳いだと聞いたが本当か?」
「水泳部の家来から頼まれただけです」
「家来から頼まれてお姫様が泳いだのか?」
「まあ、そんなところです」
変わった子だと思っていたが、こんなに面白い子だと知らなかった。チラ見した真っ白な乳房を思い出し、クラクラしそうだった。
「恋人はいるか?」
「はい、3人います」
酒井は驚いた。恋人が3人だと! オレの問いは、体の関係がある進行形の男がいるかどうかの質問だが、3人もか??
「水泳部の家来も恋人か?」
「違います、家来だと言ったでしょ!」
「その小さな体で3人も恋人がいたら大変だろう? 疲れないか、男たちは揉めないか?」
「はぁ? 酒井さんが言ってる意味がわかりません。勘違いしてませんか」
「キミにとって恋人って何だ?」
「いろいろです。プチュとキスします、そんな感じです」
はぁ? 違うだろう、おい、オレが言う恋人ってそうじゃないぞ。コイツはどこまで知ってるのか? 試してやろうと思って松林に車を停めた。
「オレも恋人の仲間に入れてくれないか」
「イヤです。よく知らないもの」
「ずっとバディの仲だ、知らないってことはないだろう?」
酒井は舞美が言う「恋人」の意味がさっぱりわからなかった。
恋人って何だ? 自分の恋人を思った。学内で知り合った女だが時間があるといつも抱き合う。それは互いの性欲を満たすだけに過ぎない。彼女は島根かその近くの旧家の娘で卒業と同時に結婚が控えている。自由に過ごせる限られた時間に男に抱かれ、オレをヘトヘトにして能面のような顔で帰っていく女だ。どんなに激しく抱いても燃えない女だ。
それに比べると藤井はいつもポジティブで面白い子だ、投げたら必ず撃ち返す。
「オレをよく知ったら恋人にしてくれるのか?」
「へへーん、わかりません。私って気まぐれだから」
何だ、コイツはオレをからかってるのか、腹が立った。強引に引き寄せたら、藤井はガードの態勢をとって、オレの手を跳ね除けようとしたが、オレの方が技を知っている。抵抗が急に止んだ。キン蹴りされないようにガバッと密着してキスした。驚いたようだが眼を閉じた。服の上からオレの息子は藤井のあの位置にスタンバイし、徐々に硬度を増していた。やがて藤井はゆっくり左右に腰をずらした。
擦られて気持ちいいなあと気を緩めそうになったが、次の動きが読めた。コイツは膝でキン蹴りするつもりだ。羽交い締めにし、完全に自由を奪ってキスを続けた。オレの頬が何かで濡れた。オレは眼を開けた。藤井は鼻水を垂らして子供のように泣いていた。
「泣くなよ、キスしただけだろ。そんなにオレが嫌いか?」
「ううん、嫌いじゃないけど、なぜ男の人って急にあんなことするんですか?」
「キスか? それとも抱きしめたことか?」
「どっちもです。私の気持ちなんかまったく無視してる。ヤダ、そんなのヤダ!」
「悪かった。キスしたかったのは事実だが、それ以上何もする気はなかった、本当だ」
「当たり前です! 暴行罪でしょ」
「ひとつ教えてくれ、こんなキスをしたことはないのか?」
「あります。どうしても心が静まらなかったとき、キスして欲しいって恋人にお願いしました。そしたらピタッと落ち着いて、翌日は泳げました」
「セックスはしないのか?」
「しません。イヤです」
「イヤです」の言葉は信じられなかったが、3人の恋人は事実だろう。どうやら恋人とは男女の仲ではないらしい。まったく変わったヤツだ、男も変わっている。こんな小娘は押し倒せば簡単じゃないか、なぜしない?
3人の男たちの心情が少しわかった気がした。寝るだけの女ならコイツじゃなくていいが、コイツといるとなぜか面白い、そういうことか。
「藤井、悪かった。機嫌を直してオレのバディを続けてくれ、頼む。いや、お願いする。そして、何もしないからキン蹴りは勘弁してくれ」
6章 episode 7 憎悪のキン蹴り!
◆ 母の男をキン蹴りしたが、どうにも出来ない虚しさに後悔した。
翌日はぐずついた空模様だが遊泳者は多かった。波は高く曇天のせいか見通しが悪い。酒井は舞美にぴたりと付き添ってパトロールした。
まさか、あれはママ? 間違いない! 大きなパラソルの下で男を膝枕した母を見つけた。
「酒井さん、お願いです。サングラスを貸してください、私はパーカーとキャップを脱ぎます」
「どうしたんだ?」
舞美は顔を歪めてパラソルのカップルを睨んでいた。アイツの恋人が違う女とやって来たのか、これは面白いぞと思って見たが、女はおばさんだ。
「知り合いか?」
「家を出て神戸で暮らしている母です。会いたくないけど見たいんです。気づかれないように連れて行ってください」
バスタオルを肩にかけた舞美は、酒井の陰に隠れて母の前を往復したが気づかれなかった。やがて目覚めた男は、若い女を見るたびに下卑た視線で眺め回し、海へ向かった。男の後を追って海に入った舞美を見え隠れして酒井は追った。
突然、舞美は男を挑発するように前に泳ぎ出て、追い抜きざまに微笑み沖へ向かった。誘われたと思った男は後を追った。酒井は藤井がこれから何をするかわかった。立ち泳ぎで、男と藤井は向かい合って何か話したが、男は抱きついた瞬間、ギャッと叫んで沈んだ。
「酒井さん、ごめんなさい、後はお願いします」
まもなくサイレンが近づいて男は収容され、中年の女は救急車に乗り込んだ。
「あれでいいのか、後悔しないか?」
「しません。ママがいるというのに若い女性をいやらしい目で見る男なんて、絶対に許せません。ママが可哀想です」
「このことは親父さんに絶対言うな、わかったな。オレは何も見なかった」
藤井の涙を拭いてやった。
夫と娘を残して男に走った母親を藤井は今でも忘れていない。母親は年下の男との情事に溺れているのか? あの男は普通以下だ。煙草の吸殻を砂に埋め、空き缶や残った食べ物をポイ捨てする男なんて信用できない、酒井はそう思った。舞美は元気がなかった。涙目でぼーっと沖を見つめていた。「家まで送ってやるよ」と車に乗せた。
「お願いしていいですか」
「何を?」
「キスしてください。哀しいです。家に帰ってパパを見るのが辛いです」
「どういうつもりだ? 昨日はイヤだと拒否したじゃないか、キン蹴りされるのはご免だ」
「違います、キン蹴りはしません。キスしてください」
舞美は、光が届かない海の底と同じような暗い眼をして言った。
暗がりに車を隠して、「やっていいか? ただし、滅多にしない本気のキスだぞ、気絶するな」と引き寄せた。舞美は眼を閉じた。永く苦しいキスが続いた。舞美は脱力して気絶寸前になった。
「甘ったれだな、落ち着いたか」と聞いたら、小さくうなずいた。
「さっきも言ったが、親父さんには絶対に話すな。こんなことを知ったらオマエよりも辛いぞ、わかってやれ」
「はい。酒井さん、ありがとう」
「何言ってるんだ、オレたちはナイスバディだろ、ドンマイ! ドンマイ!」
舞美は時々南条に抱かれて幸せな夢を見た。土用波が強くなった8月末、無事にライフセーバーのバイトが終了した。
滝田は「キン蹴りを2回もやったのは藤井だけだ」と笑った。あーあ、バレてたんだと、酒井と首をすくめた。
「バイトのお金でパパに将棋の駒をプレゼントしたいけど、どこで売ってるか知りませんか?」
突然、尋ねられた酒井はしばらく考えて、
「教職課程の先生が名大将棋部の関係者だ、聞いてみるよ。予算は?」
「バイト代全部でーす」
名大将棋部の顧問を介して店を紹介され、立派な将棋の駒を手に入れた。バイト代全額で父親にプレゼントするという娘に店主は微笑んで、安くしてくれた。
「パパ、プレゼントよ。眼をつむってね。ジャーン」
披露された駒を驚いて見つめた父は、「ありがとう」と涙を堪えた。
「バディの紹介でとっても安く買えたの」
「そのバディと会いたいなあ、相棒だろう。肝心なときにいなかったらしいが、どんなやつだ?」
「どんなって? うん、でっかいデクノボー」
父は何度も駒を並べて、「音が違うなあ、手触りがいいなあ」と嬉しそうに眼を細め、真夜中まで駒の感触に酔いしれていた。
6章 episode 8 嵐の前の静けさか?
◆ 応援する舞美と酒井が返したナイスなアドリブ。
数日後、酒井は照れくさそうに大きな体を縮めて現れた。
「こんなに大きな人なのか、舞美と並ぶと大人と子供だな」と父は笑い、自分には勿体ない素晴らしい駒を安くしていただいた礼を述べて、酒を勧めた。車だからと固辞する酒井にぜひ泊まってくれと酒を注いだ。すき焼きを囲んで、酒井は豪快に食べ、かつ飲んだ。
「キミは水泳部なんだろう。泳ぎは何が得意なのか?」
「バタフライと平泳ぎです。バタフライはレコードが目標です。藤井、あっ、すみません。藤井くん、10月のインカレは応援に来てくれるか? タツミのプールだ」
「はーい、行きます! 応援団を連れて絶対行きます。でも、ビリッケだったらマジにキン蹴りしますよ!」
「そうだな、遠慮しないで蹴り上げなさい」
夜は楽しく更けていった。
酒井はバイトのあと毎日のように大学プールで猛練習している、将来を期待されているスイマーだと舞美は知っていた。
翌朝、出勤する父を送り出し、客間の酒井を起こした。
「うわっ、もう7時過ぎか、午後から練習なんだ、オレ、酒臭くないか、運転しても大丈夫か?」
「うーん、ミルクいっぱいのコーヒー飲んで、お腹に何か入れましょう、さあ食べてください」
朝食をモリモリ食べた後、「オレ本当に酒臭くないか?」と言って軽くキスした。
「うん、ミルクっぽいけど大丈夫です」
「はあ? オマエのミルクを飲んだ覚えはないぞ」
「フザケンナ! キン蹴りするぞ」
10月のある日、泉谷は士郎を連れて食堂を訪れたが、舞美はいなかった。
「舞美ちゃんは、タツミにナイスボディが来るから応援に行って、かれこれ3日ですかね」
「へぇ? ナイスボディとは何だ? ボディビルか」
それはナイスバディだとSPが泉谷に説明した。
「ああ、キン蹴りに役立たなかった相棒か」
インカレ初日、家来で水泳部の沢田は自由形で準決勝の出場権を得た。早稲田の水泳部はソコソコ強いが、レコードを狙えるスター選手はいなかった。
2日目、沢田を「本気出せー!」と激励したが、決勝に進めなかった。午後から、舞美は名大の応援席に家来を引き連れて移動し、酒井を応援した。
「酒井ぃー、イケー、それでもオトコかぁー」と大声で応援する見慣れない女子に、周囲は「誰だ、あいつは?」とジロリと睨んだ。家来は恥ずかしくて俯いたが、舞美はまったく気にせず、そのうち名大の大きな校旗を振り回した。その応援ぶりに酒井は呆れたが気分が楽になった。酒井は準決勝を悠々勝ち抜いた。
「バカタレ! マジメに泳げー」、舞美の声が届いた。
3日目、舞美は朝から名大の応援席に陣取って、酒井の出番を待った。名大の決勝進出選手は酒井だけで、バタフライと平泳ぎの2種目だ。
平泳ぎ200m決勝に登場した酒井に、
「死んでもいいから勝てーぇ! わかったか! まくれー!」と大声で応援する舞美に、「バーカ、死んでたまるか! オマエに何がわかるか!」とエールを返した。惜しくも2位に終わったが、優勝者はレコードタイムだった。
バタフライ決勝に挑んだ酒井に向かって、
「マジでキン蹴りだぞ! 死んでも泳げー、勝てーぇ!」
酒井はニヤリと笑って、
「1位になったら恋人だぞ、覚えとけ、忘れるな!」、大きく手を振った。
「フザケンナ! ばかたれ!」と舞美も手を振った。
レコード記録ではないが堂々の1位だった。太く長い腕で力強く水をかく酒井の姿は、コンドルが羽を広げて威嚇するように迫力があった。
この光景を泉谷は観戦していた。自分の大学ではない応援席に座り、その大学のスター選手に勝手な暴言をぶつけて応援している。名大関係者やマスコミは呆れながらも面白がった。バタフライ決勝戦の酒井と舞美のやり取りはテレビに収録された。
泉谷は苦笑して、士郎に訊いた。
「どうだ、あの応援ぶりは?」
「いやー、まったく傍若無人の応援で呆れました」
「舞美ちゃんは酒井くんと夏中バイトした。酒井くんの緊張が読めたんだ。それで『死んでもいいから勝てーぇ! わかったか!』と、勝手なことを言って怒らせた。オレを馬鹿にするのかと腹を立てたのだろう。
バタフライの決勝では、『マジでキン蹴りだぞ! 死んでも泳げー』と騒いだが、あれで酒井くんは完全に緊張が取れて、自分の泳ぎが出来たようだ。舞美ちゃんは酒井くんの性格や心の動きがわかっていたんだ、そんな子だ。
今のお前があの子を御せるとは思ってないが、あの子を手にすればお前は強くなれる。俺の後を継ぐのは秀才の兄たちではない。彼らはそれぞれ優秀だが既に伸び代がない。お前に託したい。ただし、あの子が女房だ。あの子の心を掴め。
お前はまだ家来にも入ってないそうだな。叩かれたと聞いたが、あの子の必殺技は股間蹴りだ。腹筋がしっかり割れているから気をつけろ。蹴られた男は片キンだろう。あーあ、また恋人が増えたな。愉快な子だ」
士郎は何が愉快なのかさっぱりわからなかった。泉谷の息子だと名刺を渡せば、たいていの男は聞く耳を持ち、女子大生に限らず女はついて来た。その中から選ぶのは自分の自由だと思っていた。
6章 episode 9 テレビは人を惑わす
◆ 南条の辛い心は舞美の母を見つけた。
夜のスポーツニュースをぼんやり眺めていた舞美の父は、たまたまバタフライの決勝レースを見た。酒井の豪快な泳ぎに見とれて、娘のバディが1位になったと大喜びした。
画面はすぐ切り替わり、「死んでも泳げー」と舞美がわめき、酒井が「1位になったら恋人だぞー、覚えとけ、忘れるな!」と大きく手を振った映像に、「フザケンナ! ばかたれ!」と、舞美の声が重なった。
キャスターは「酒井選手はあの声援で頑張ったのでしょう、とても励まされたようです」とコメントした。
父は娘の応援ぶりに驚いたが、あれだけ馬鹿にされたら酒井くんは発奮する。緊張から解放しようと放った言葉に、酒井くんは見事に応えた、絶妙なコンビだと思った。
しかし、この放映が予期せぬ波乱を引き起こした。
南条は偶然テレビを見ていて眼を疑った。あの男は舞美がバイトのとき、呼びに来てバイトに連れ戻した男だ。恋人? まさか舞美は抱かれたのだろうか? 信じようとしても不安の波が大きくなった。ライフセーバーのバイトは知っているが、酒井なんて男のことは聞いてない。まさか、まさか……
舞美に電話したらすぐ出た。
「テレビを観たけど、あの男は恋人か?」
舞美はゲラゲラ笑って、
「パパも電話で、『死んでも泳げー』はないだろう、それに発奮した酒井くんも立派だと褒めてたわ。彼は私のナイスバディなの、相棒よ。でも抱かれてなんかいない。リュウだけよ。信じてよ」
「そうだよね、ごめん、疑って悪かった」
南条は思い過ごしかと納得したが、幾日も不安と闘った。
気づいたとき舞美の家のほんの手前に来ていた。夕暮れどきだが家は真っ暗だ。おじさんはまだ帰ってないようだ。
はっ? 南条は足を止めた。もしかしたら舞美のママ? その人は電柱に身を隠して、家をじっと見つめていた。
「舞美のおばさん?」
声をかけると、その人はうなだれた。
「どうしたんです。帰って来たのでしょう? おじさんが喜びます」
うなだれていた女はしゃがみ込んだが、首や腕に痣がたくさんあり、顔が腫れていた。何かあったと気づいた南条は、
「おばさん、ここで待っていてもおじさんはいつ帰って来るかわからないから、僕の家に行きましょうよ」
おぼつかない足取りの舞美の母の肩を抱いて家へ連れて行き、女医の母を呼んだ。母は一目見て、
「失礼ですが、DVに遭われたのですね、話していただけませんか」と言った。
息子に「居間に通して外へ出ないように見張ってなさい。あと30分で診療が終わる」と告げた。舞美やおじさんに知らせようかと言ったが、「本人の気持ちを聞いてからにしましょう」、診察室に戻って行った。
「おばさん、舞美ちゃんは頑張ってますよ! この夏は海水浴場でバイトして、そのお金でおじさんに立派な将棋の駒をプレゼントしたんです。そして大学近くの食堂でレシピを習って、僕にも旨いメシを食べさせてくれます。舞美ちゃんは僕の大切な恋人です」
南条の話をずっと俯いて聞いているその人は、色白でふっくらしていたのが萎んだのか、ずいぶん老けて見えた。いつも愛想よく迎えてくれた明るいおばさんはどこへ行ったのか、南条は心配した。
「僕は名大の医学部に入れました」と報告したら顔を上げて、「おめでとう、よく頑張ったわね」と喜んでくれた。おばさん、早く舞美やおじさんの所へ戻ってください、両手を握りしめてそう願った。
診療から戻った母と深夜までずっと話し込んでいた。どのような話か母は息子に話さなかったが、しばらく舞美の母は南条医院にかくまわれ、日が経つにつれて元気になったように思えた。1週間ほど経った夜、息子は母に呼ばれた。
「奥さんは男と駆け落ちして神戸に住んでいて、たまたま名古屋の海水浴場に男と行ったときに、気づいた舞美ちゃんが男を沖に誘い出して、急所蹴りして重傷を負わせたらしいの。蹴った女の子が誰だかわかったのは、先日のスポーツニュースよ」
「僕も見た。名大の酒井選手が1位になったあれ?」
「多分、それだわ。その放映を見ていた奥さんはつい娘の名を叫んだらしいの、それからは『ばあさんには飽きた、お前の娘を差し出せ、可愛がってやる、俺を怪我させた償いだ』と、殴る蹴る以上の暴行が続いたと聞いたわ」
南条は涙ぐんで聞いていた。そのときの舞美を支えたのが酒井選手か、僕は何も知らなかった。舞美、なぜ話してくれなかった? でも言えることじゃないか……
「母さん、おばさんは家に帰りたくないのか?」
「舞美ちゃんが許してくれたらご主人に会うって。許してくれないときは実家に戻るって。龍平、舞美ちゃんに電話しなさい。好きなんでしょ、恋人なんでしょ」
6章 episode 10 キン蹴りに悩んだ
◆ 母の幸せを壊したのか、舞美はわからなくなった。
どう説明しようか、事実をそのまま告げるべきか、いろいろ考えたがわからなかった。
「舞美、今は自分の部屋? 大事な話があるけど落ち着いて聞いてくれるか?」
「うん、ご飯食べてるとこ。どうしたの? リュウの声、何だかトーンが高い」
「おばさんは僕の家にいる。1週間ぐらい前かな、舞美の家を見つめている人に気づいて近寄ったら、おばさんだった。DVに遭ってボロボロだ。ドメステックバイオレンスだ、暴力だ。母はおばさんの気持ちを尊重してかくまっている。だから、このことをおじさんは知らない」
「リュウ、どうしてすぐ知らせてくれなかったのよ!」
「おばさんの気持ちを大事にしたかった。舞美、聞いてくれ。舞美がキン蹴りした男は水泳のニュースを見て、自分を負傷させたのがおばさんの娘だとわかったらしい。それからはDVの連続だと聞いた。暴行を受けた痣も酷い。おばさんの代わりに娘を連れて来いと言われて、眼が覚めたそうだ」
「それでママは元気なの、どうしてるの?」
「何とか元気になった。男に血迷った自分を許してくれたら、おじさんに会うと言っている。舞美が海で見たことしたことは、絶対おじさんに言わないでくれ、おじさんが苦しむだけだ。母は、おばさんの体と心の傷が治るまで預かると言っている」
「突然そんなことを聞かされても、私、パニックだよ! ママが幸せになれるように、パパは毎月に送金している。お金がないとママは捨てられると言ってた。リュウ、助けて!」
舞美は東京で泣きじゃくった。
「舞美はおばさんが大好きだろう、許せるよね、許してあげようよ。舞美は喜んで許してくれたとおばさんに言っていいか?」
「うん、言ってちょうだい、でも、こんなときにリュウがいないから辛い。リュウ、ありがとう」
「おばさんが話せる状態になったら、すぐ電話するから帰って来いよ。舞美、しっかりしてくれ、お願いだ」
ママが帰って来る!! 嬉しかったが、そのきっかけを作ったのは自分だ。私のキン蹴りがなかったら、ママは恋人と幸せに暮らしたのかも知れない、私のせいでママが不幸になった? いくら考えてもわからなかった。あのとき、酒井が言った言葉が蘇った。酒井に電話した。
これからいいとこだっていうのにジャマするなよ、誰だ? 藤井かぁ。何だろう?
「この前はオマエのお叱りで気持ち良く泳げたよ。サンキュー! はぁ? オマエ、泣いてるのか、どうした、気が狂ったか?」
「電話いいでしょうか」
「いいよ、ヒマだ、歓迎するよ、それで何だ?」、酒井は抱きついている女を引き剥がした。
「どうしたんだ、何があったんだ?」
「あの男とテレビを見ていたママが、テレビに映った私に舞美と叫んだから、キン蹴りしたのが娘だとバレたの。それでボコボコにされて、身代わりに娘を連れて来いと脅されて逃げ出したんだって…… 今は知り合いの病院で保護されてるけど、あのとき酒井さんは『あれでいいのか、後悔しないか?』と言ったでしょ。その意味がわかりません。教えてください」
「藤井、よく聴けよ。オマエは男と女の情愛なんてわからないだろうが、オマエの母さんはあの男を愛したはずだ、少なくともそんなときがあったはずだ。そう思ったから、キン蹴りの後遺症を考えて少し心配した。男と女に関してはオレも偉そうなことは言えない、まだ本気で女を愛したことがない。
オマエ、ひょっとしてキン蹴りしなければ、母さんの幸せが続いたと思ってるのか? それは絶対ないぞ! 男が男を見る眼は、女が男を見る眼よりシビアで正しい。言っとくがな、あの男はサイテーだ。
泣くな、オマエは間違ってない。遅かれ早かれ別れる仲だ。藤井、もう泣くな。ナイスバディが泣くとオレも泣きたくなる。頼むから自分を責めるな! オマエは悪くない。もう考えるな! 考えてもその答えはないはずだ。もう寝ろ、キン蹴りは忘れろ、オレは見なかった。今度会うときは恋人だぞ、覚悟しとけ!」
女は無言で帰って行った。残された酒井は、オレは藤井にマトモにアドバイスできたかと思い出していたが、クソーッ、バカヤロー! アイツは俺からセックス・パートナーを消してしまったじゃないか!
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