5章 元総理の泉谷と番犬
5章 episode 1 泉谷との出会い
◆ 番犬に飴玉をしゃぶらせた舞美に泉谷は大笑い。
もうじき東京へ戻ろうとする15日の夜、ニュースを見ていた父は、
「今日は成人式だったのか。ママが全部用意したはずだ。一生に一度の成人式なのに忘れていて申し訳ない。せめて写真だけでも撮ろう、パパが悪かった」
「えーっ! 私も忘れてた」
ダメ親子は大笑いした。翌日、振袖姿の写真を撮った。
その後も舞美はメチャメチャ暴れまくる南条を何度もなだめて、東京へ戻った。
授業の合間に食堂に通った。レシピを覚えるのが楽しくなっていた。
「いらっしゃいませ、ハーイ、大盛りカレー3枚!」
小雪混じりの北風が吹き抜ける午後、食堂の正面に大きな黒塗りの車が停まって、3人の男が降りて来た。店内に入ろうとした男たちは、「すみません。順番なんです。外で少々お待ちください」と遮られた。
「この方を誰だと思っている、この方は」と大男が声を荒げたが、「すみません、水戸の黄門サマでも順番は守ってくださいね」
中央に立った痩身で初老の男が大男を止めて、ニタリと笑った。舞美は立ち待ちしている客に熱い麦茶を配って、まだプリプリ怒っている大男に、
「はい、口を開いてアーンしましょう」と、飴玉を放り込んだ。
「怒ってるんでしょう? 甘いものを舐めると落ちつきます。少しだけ待ってください」
3人の男をテーブルに案内するとおばさんが驚いて、
「舞美ちゃん、この方たちを外で待たせたの?」
「はい、ずるっこは無しです。何にしましょうか?」
初老の男が尋ねた。
「どれが旨いかね? 君のオススメはなんだ?」
「10分くらいかかりますが、お客さんにはイワシの生姜煮がぴったりです。カルシウムやたんぱく質がいっぱいで体にいいし、ポカポカに温まります」
「ほう、そうか。それにしよう。こっちの男たちは?」
「大盛りピーマンの肉詰めです」
「足りない頭に肉を詰めろって? これは面白い!」
初老の男は笑い出し、おばさんは呆れた。
客がひと段落して、おばさんは厨房から挨拶に現れた。
「生姜煮は旨かったよ、母が昔よく作ってくれたから懐かしかったなあ。あの子はバイトか?」
「いいえ、押しかけの見習いです。父親に食べさせたいとか言ってね」
「それにしても人あしらいが上手い子だな。料亭の女将になれそうだ。僕の番犬は飴玉しゃぶらされて引き下がったよ。実に愉快だった」
その時、村上が入って来た。舞美は思わず厨房の隅に隠れた。3人の男たちはそれを見ていた。舞美は、村上が近づくと蕁麻疹が出ることをおばさんに話していた。
「藤井くんいるでしょう? いるって聞いて来たけど、おばさん、ウソつかないで欲しいな」
「悪いねえ、今さっき授業に戻ったよ」
店内を見渡した村上は、SPを引き連れた初老の男が何者かわかり、直立不動で名刺を出して懸命にアピールを始めた。舞美がそっと顔を出すと、村上は背を向けていたが初老の男の視線とぶつかった。舞美は思わず手を合わせて拝んだ。
「村上くんと言ったかね、君は泉谷家の嫁になる娘に何か用か? 話があるなら僕が聞こう」
「いえ、滅相もございません。失礼させていただきます」
這々の体で村上は帰って行った。笑い声が店内を包んだ。いちばん笑ったのはあの大男だった。おばさんは大量の塩を撒いた。
「大丈夫だ、もう帰ったよ」
「すみません。ありがとうございます。キモオ先生と学食で会ったら蕁麻疹が出て病院に行きました。学食じゃなくて外で会いたいとか、とんでもない! キモイです」
「キモオか、よく言ったな、名言だ。いいか、名刺に自慢めいた肩書きを並べている人間は中身がないことが多い。君の目は確かなようだ。僕が誰だか知っているか?」
「うーん、どっかで見たような? でも、わかりません、知らないおじさんです」
「熱い麦茶を飲まされて注文を取られると、寒空に客はおとなしく待つしかないだろう。見事だ、誰が考えたのか?」
「舞美ちゃんのアイデアですよ」
「可愛い子に弱いからな。僕の番犬はアーンしてと言われて、大の男が口を開けたんだから呆れたよ。飴玉をしゃぶらされて喜んでいるSPなんか信用できるか!」
店内は爆笑がこだました。
「本当に面白い子だな。この子の写真はないか?」
「成人式の写真をもらいました。見ますか」
「ほう、振袖か。もらってもいいか」
「はあ? 先生がこれを」
「いや、息子に見せようと思う。じゃあ、舞美ちゃん、面白かったよ、ごちそうさん」
5章 episode 2 泉谷に驚く青木
◆ 舞美を「人たらし」と言い、興味を持った泉谷。
青木は藤井が見えたので店に入ろうとしたが足を止めた。
元総理の泉谷の姿があった。泉谷は親父が自死した政財界スキャンダルの再調査を命じたが、官僚の自己保全に阻まれて解明できなかったと聞いている。泉谷を恨む気はないが。藤井はこの男が誰だか知ってるのか。店内に入るかどうか思案したが、SPの鋭い視線を感じて踵を返した。
そう言えば藤井とは話していない。土産をもらった礼を言おうとしたら、「チョー忙しいです。食堂に行きまーす」と走り去った。
おい、俺は東京の恋人だろ、会えなくて淋しかったと腕に飛び込んでも不思議はないだろう。俺は子供に遊ばれているだけか。だが、さっきの泉谷は気になる。なぜあんな食堂にSPとやって来たのか?
青木は車を停めて、駅へ向かう藤井を待った。クラクションを鳴らすと気がついた。
「あれっ? 先生、どうしたんですか?」
どうしたはこっちが言いたいと思ったが、
「乗るか? 送ってやるよ。恋人なんだろ」
「ヤダぁ、ウソ言ってます。何か聞きたいことがあるんでしょ。そんなことより、食堂のお客さんがキモオを撃退してくれたんでぇーす!」
「村上さんを?」
「急にキモオがやって来たから慌ててキッチンに隠れたの。キモオはお客さんにペコペコしたけど、何か言われてスタコラ逃げました。そのお客さんはとっても面白い人で、でっかい番犬を2頭も連れてるの」
番犬? ああSPのことか……
「その人は何か言ってたか?」
「うーん、ちゃんと勉強しなさいとか、真冬の麦茶もなかなかのものだ、今夜は熱い麦茶割の焼酎にするとか言ってました。また来るって」
へえー、藤井は相手が誰だかまったく知らない、泉谷はそれが面白くてからかったのか。
「もう絶対にキモオは誘ったりしないから安心しなさいって言ってた、超ラッキー! マジに蕁麻疹はイヤです!」
寮の近くまで送って車を停めた。
「恋人だろ、キスぐらいさせろ」と舞美の顎を掴んだら、
「プチュにしてください。いろんな惣菜の匂いがついていて、こんなときにあのキスはイヤです。そんな気になれません。先生は女性の気持ちをまったくわかってないです」
こいつめ、何て言い草だ。青木は乱暴にキスして抱きしめた。確かにそんな匂いがしたが、服の下に隠された感触が蘇った。セーターの上から乳房をゆっくり揉んだ。ぷりんぷりんの乳房だ。舞美はじっとしていたが、切なく喘ぐのかと思ったとき、
「やめてください、怖いです!」
大きく眼を見開いてきっぱり拒絶した。
「ああ、悪かったな、お休み」
青木は不機嫌に呟いた。何てやつだ、この女は……
翌日、まだ準備中の食堂を訪れた。
「先生、あと30分くらいだけど待てるかね?」
「いいよ。もう後期授業は終わったからヒマだ。藤井くんは?」
「先生も舞美ちゃんがお目当てですか? 午後から来るって言ってたよ、残念でした」
「いや、そうではない。学生は気楽でいいなあ、もうすぐ春休みか。この前、店で政治家の泉谷さんを見かけたんで、びっくりして寄らなかったが、知り合いか?」
「昔のことですが、先生のとこで家政婦をしてたんです。結婚して泉谷家から離れましたが、あっけなく亭主が死んじまって」
「辛い話をさせて悪かった、すまなかった。そうだったのか」
「先生は離婚されていたので、ぼっちゃま方を叱り飛ばしたのは私なんです。上のぼっちゃま方は大きかったけど、士郎坊ちゃんは確か高校に入ったばっかりでしたかね」
おばさんは懐かしい記憶を手繰り寄せるかのように、視線を泳がした。
「舞美ちゃんに先生の正体を教えようとしたら、先生が目配せしたのでそのまんまだけど、本当のことを知ったら驚くだろうね」
「いや、知ったとしても驚かない子だよ」
「舞美ちゃんを人あしらいが上手い『人たらし』だと関心して、舞美ちゃんの写真を持っていったけど、どうするのかねえ、先生は」
「藤井くんが人あしらいが上手い? 人たらしだと?」
「順番を守ってくださいと、舞美ちゃんは先生たちを外に並ばせたんです。するとSPさんが怒って、この方を誰だと思っているのかと、怒鳴ろうとしたら、舞美ちゃんは「水戸の黄門サマでも順番は守ってください」と、SPさんの口に飴玉を放り込んで黙らせたらしいです。
甘いものを舐めると落ちつくとなだめたんだって、番犬があれではなあと先生が呆れて、大笑いされてました」
「へえー、そんなことがあったのか」
「小雪混じりの寒空に外で待ってもらって申し訳なかったけど、舞美ちゃんに先生は眼を細めて、いろいろアドバイスしてたね。
そう言えば、『泉谷の嫁になる娘に何か用があるのか、話があるなら僕が聞く』と、脅かされたキモオの驚きようったらなかったよ。ざまみろって思ったね。ホント舞美ちゃんは不思議な子だねぇ」
5章 episode 3 青木と市村の違い
◆ 同じ匂いの舞美、母ちゃんの分まで幸せになってくれ。
青木は思った。息子の花嫁候補として藤井に興味を持ったのか? まさか自分の後妻ではないだろうが、男と女には万一がある。俺はあの子を抱かない方がいいかも知れない。惜しいが際どい付き合いで止めた方がいいだろう。本気で愛しているわけではない。成り行きであの子と結婚しても、新天地を求めて出て行くだろう、そんなやつだ。
食堂で会った藤井に小声で、
「この前はごめん。男は時々狂うことがあるんだ。恥ずかしかった」
舞美はにっこり笑って、
「さつま汁定食にしませんか。ごぼうサラダつきです。先生、野菜をちゃんと食べましょう。ハーイ、さつ定1枚ご飯大盛り!」
あんな無邪気な顔でいったい何を考えてるんだ? 多分、何も考えていないだろう、そう信じた。
舞美は時々市村に甘えた。市村は大歓迎で舞美の秘部を離さず、夢中で遊んだ。
ふと顔を上げて、「オマエ、青木とはどうなってる?」と訊いた。「うん、あのままよ」の返事に、「へえーっ、あの青木が」と驚いた。
腑に落ちなかった。あの青木が? 何かあった、何かおかしい!
「最近変わったことはなかったか」
「あった、あった! この前キモオが来たんで隠れたの。そしたら初めて見たお客さんなんだけど、キモオに説教したら、ペコペコして逃げるように帰ったの。これからキモオはキミを絶対に誘わないから安心しなさいって、そのお客さんが言った。超ハッピー!!」
「へえー、村上が逃げたって! どんな客だ?」
「うん、でっかい番犬を2頭連れて、パパよりも年上で痩せた優しいおじさん」
「犬を連れて店へ来たのか?」
「やだぁ、番犬よ。スケさんカクさんみたいな家来よ」
家来? それは恐らく身辺警護のSPだろう。元総理や議長経験者でも全員にSPはつかないはずだが、危険度に応じて警察官が張り付くことがある。誰だろう? 国営企業を次々に解体したあの男か?
「舞美、その人はどんな顔だ?」
「優しそうだけど、人を見る目は鷹のように鋭くて左の頬にホクロがあった」
ホクロだと? そうか、やはり泉谷だろう。彼だったら村上を追い返すくらいどうってことはない。
「そのお客さんは私の振袖の写真を持って行ったの。また来るって言ってた」
ふーん、どうも不思議な展開だ。舞美には男の正体を教えないほうがいいだろう。
それにしても、なぜ青木はコイツに迫らないのか? 本気になったか? それはないだろう。舞美に夢中なのは坊やだ。コイツも喜んでいるようだし、それはそれでいいが、まさか坊やが東京の大学に? 有り得ないことはないが、そいつは面倒だな……
「南条の坊やはどの大学に行くんだ、知ってるか?」
「この前ね、リュウは慈恵医大の受験で東京に来たけど、お母様の監視付きだったの。誘われたけどスルーしちゃった。試験前夜でしょ、やたら暴れまくりそうなので断ったら、嫌いになったのかって泣いてたけど、試験は大丈夫だったと思う。明日が発表かな」
「合格した坊やは東京に来るのか、どう思う?」
「お母様の反対で東京の進学は無理でしょ。でも大学生になったら時間は作れるし、新幹線を使えば簡単に会えるでしょ、だから心配しないの」
「そんな簡単じゃないぞ。こっちへ来てもどこに泊まるんだ? たっぷり抱かれたいだろうがオマエの寮はアウトだ。いろいろ考えると、1カ月に1度ってとこだな。いっそ、ここはどうだ?」
舞美が帰った後、市村は考えた。多分、南条は名大医学部に進むだろう。慈恵医大となるとべらぼうな学費だ。東京での生活費もかかる。6年間か、途方もない金額だ。東京には学費が安い国立の医学部は東大医学部と東京医科歯科大だけだ。おまけに難易度は全国1位と2位だ。
金だけの問題ではない。母親は一人息子を手離すか? まあ無理だな。そのうち坊やも大人になるか、それがいいのかも知れない。坊やに抱かれなくても舞美は痛くも痒くもないだろう。坊やは舞美の将来には邪魔になるかも知れないな。せっかく泉谷が興味を持った女子大生に男は不要だ。
母ちゃん、聞いてくれ! 母ちゃんが死んじまって俺は生きていてもしょうがないと思ったとき、あの子が助けてくれた。お嬢さん育ちの舞美があれこれ思案して、俺の生活基盤を作ってくれたんだ。
俺さ、あの世で母ちゃんが喜んでくれるような俺になりたい! 母ちゃんをこの世では幸せに出来なかったが、母ちゃんと同じ匂いがする舞美は幸せになって欲しいんだ。母ちゃん、力を貸してくれ……
5章 episode 4 湯河原パーティ
◆ 温泉・送迎つき2泊無料招待に番犬と……
南条は慈恵医大合格を知らせて来たが、電話の声は沈んでいた。次は本命の名大医学部だ。迷っている、苦しんでいる、そう思った。
舞美がエプロン姿で注文を取っていると、番犬を連れた泉谷が訪れた。
「舞美ちゃん、いつ田舎へ帰るのか」
「えっと、4日後かな、成績は出たし、新しいレシピも覚えたし、帰りまーす」
「急な話だが、僕の家に明日遊びに来ないか、泊まりだよ」
「えーっ、知らないおじさんです。イヤです!」
泉谷は苦笑して、
「心配だったら友だちをたくさん連れて来ていいよ。僕の家で内輪のパーティを開くが、若い友だちがたくさんいるところを見せたいだけだ。場所は湯河原だ。迎えに行くがどうだ、来てくれるか?」
「はーい、退屈してたとこ。ホントに友だちを連れて行ってもいいんですか、100人でも?」
「そうだ、100人でもいいよ。可愛いお嬢さんがたくさん来てくれると嬉しいがね」
「あの~ ごめんなさい。私の周りは冴えない男子ばっかりですがいいですか? 地方の子は田舎へ帰ってしまって、東京のフヌケでマヌケ男子しか残ってません」
「いいよ、フヌケでマヌケでもかまわないよ」
「みんなで湯河原に行こうよ、温泉、室内プール、送迎つきでオール無料の2泊旅行、行こうよ!!」
舞美の甘言に釣られた男子が7人集まった。番犬に守られて大きなワゴン車で湯河原に向う途中、男子学生は次第に不安な表情になったが、舞美は車窓から覗く白波に輝く冬の海、林道で遊びまわる野鳥の声に耳を傾け、山道を登っていく車の揺れに身を委ねて、すやすやと眠っていた。
「あっ、おじさん、お世話になります。友だちを7人連れましたけどホントにいいんですか」
泉谷は笑った。わずか数時間で7匹の番犬を集めたか、やはりあの子は人たらしだと唸った。
「疲れただろう、湯河原は温泉で有名だ。心ゆくまで楽しんで欲しい、ここだよ」
「うわっ、広ーいお風呂、海が見える! えっ! 男女一緒ですか、混浴?」
「僕しか使わないから、区別なんか考えなかったなあ、男はタオル1枚で済むが、舞美ちゃんは隠すところがいっぱいあるだろう、いっそ裸で入るか、どうする?」
「ちょっと待ってください。あのう、スケさん、そのTシャツをお借りします」
意味がわからずボケーっとしていた番犬からTシャツを剥ぎ取って、それを下着の上から羽織り、澄ました顔で戻って来た。
泉谷は上半身を裸にされてポカンとしているSPに、俺の番犬はスキだらけだと嘆いた。いい湯だった。ボール投げしてふざけ合っている大学生を番犬が呆れて眺めていた。
腹一杯食べた後は季節外れの花火でさんざん遊び、夜は大広間で雑魚寝した。最初に眠ったのは舞美で、バタンと大の字になって番犬に布団を掛けてもらい、すぐ寝息が聞こえた。
翌朝、監視カメラの録画を確認した泉谷は、
「男より男らしい女だ。キモが座っている。しかし寝相が悪いな」と笑った。もし何か起こったらとSPは一晩中監視していた。
「キミたち、プールで僕と競争するか? 町にプールがなかった時代に地元の子供たちが冬も泳げるように、網元だった親父が造ったものだ。その名残が偲ばれるいいプールだぞ。ただし海パンはあるが女の水着はない。舞美ちゃんはどうするか?」
「大丈夫です。スケさんから借りたTシャツがあります」
「よし、決まった、行こう。泳げるか?」
25mの立派なプールだった。舞美は綺麗なフォームでゆっくり泳ぎ始めた。
「舞美ちゃん、競争しよう。僕は浜育ちだからハンデをあげるよ」
「いいえ、スイミングスクールに通いましたから、ハンデ? そんなものは要りません」
「言ったな! 100mだ。クロールでいいか?」
あっさりと舞美が勝った。7匹の若き番犬が拍手喝采すると、本物の番犬が睨んだ。
「次は200mで平泳ぎはどうだ?」
負けん気が強い泉谷は、子供みたいな女に負けてなるものかと本気になった。
「うーん、平泳ぎは苦手ですが、女は度胸、売られた喧嘩は買いましょう!」
結果はタッチの差で泉谷が勝ったが、この子は最後に手加減したとわかった。こういう気遣いをする娘なのか。年齢を考えずに本気で泳ぐ泉谷を心配して見守っていたSPは、「おめでとうございます。さすが先生、まだまだお若い」と駆け寄ったが、「キミらは、あの子が僕に花を持たせてくれたのがわからないのか? バカな番犬だ」と笑った。
5章 episode 5 泉谷も恋人に
◆ すっかり舞美を気に入った泉谷は、プチュの恋人になった。
夕暮れ近くになって何台もの高級車が停まり、ぞろぞろと人が訪れた。
「キミたち、パーティを始めるから着替えなさい」
舞美は薄いピンクのワンピースで髪を後ろに束ね、小さな真珠のピアスを着けた。ネクタイを締め上着を着た男子学生たちは、まんざら早大バカには見えなかった。
大勢の人に紹介された舞美は、一度にこんなたくさんの名前なんか覚えられないと嘆いたとき、泉谷が近づいて、何をブツブツ言ってるのかと訊いた。
「はい、名前を覚え切れなくて整理してるとこです」
泉谷は窓際の人物を指差して、あれは誰だ? 舞美に訊いた。
「名前は忘れましたが、モグラ男!」
「あっちは?」
「100ワット谷沢!」
「あの隅にいる男は?」
「トイレットペーパー!」
「なぜ、トイレットペーパーなんだ?」
「地味で印象は薄いですが、絶対必要な人です」
そうか、トイレットペーパーと言われた男は苦楽を共にして来た秘書だ。そういう見方があるのか、なるほどなあ。泉谷は舞美の感性に興味を持った。
「すみません。もう少し時間があったら『スケさん山本』みたいにフルに言えるんですが、ごめんなさい」
泉谷はゲストと歓談した後、舞美に再び30人あまりの人物名を訊いたが、先ほど舞美が勝手に付けたネーミングは揺らがなかった。
実に面白い子だと目を細めたとき、泉谷の四男が遅くなった言い訳をしながら走り込んで来た。
「あの男はどうだ?」
「はい? えっとぉ、ペーペーです」
さすがに泉谷の顔色が変わった。
「なぜ、ペーペーなんだ?」
「だって、自信ゼロの泳いだ視線だもん。ストレスがメチャ溜ってる!」
泉谷は大笑いした。「自信ゼロの泳いだ視線」の指摘にまったく反論できなかった。ゲストの何事かと驚いた視線を浴びて、いつまでも笑っていた。
俺があと20歳若かったら、面白すぎるこの子を間違いなく妻にしただろう、強引に奪っただろう。バカな四男の嫁に貰い受けようと考えたが、あのバカ息子ではこの子は逃げ出すだろう、繋ぎ留める手立てはないか、俺はこの子が好きになった、手放したくないと泉谷は思った。
2日目の朝、バイキングに群がる7匹の番犬を尻目に、舞美はレシピを必死で覚えていた。
「おはよう、舞美ちゃん、何してるんだ」
「うん、これをアレンジして父に食べてもらおうとメモってます」
「そんなにお父さんが好きなのか」
「当たり前です、パパっ子です!」
「ところで、舞美ちゃんに恋人はいるのか?」
「はい、2人います。東京と名古屋です」
泉谷とSPは驚いた。この若さで2人もか、この子は幼いながらも毒婦か? SPの山本は何を想像したのか、真っ赤な顔をして眼をつむった。
「東京の恋人はあの7人の1人か?」
「いいえ、東京の恋人はずっと年上でお兄さんかお父さん、そんな感じ」
「失礼な質問だが、恋人とは出かけたり泊まったりするんだろう?」
舞美はゲラゲラ笑い出した。
「やだぁ、考え過ぎ! 恋人ってプチュするんです。おじさん、私の恋人になりたい?」
「なりたい、面白そうだ。ぜひ恋人にしてくれ」
「うん、目をつむってね」
SPは呆れて見ていた。目を閉じた泉谷の口にプチュとキスして、これで恋人ですと舞美が笑った。
泉谷は吹き出した。これなのか、恋人とは。目の前の娘が可愛くて仕方がなかった。SPは女子大生に翻弄された泉谷が愉快すぎて、笑いをかみ殺していた。
南条から電話はなかったが、春休みに帰郷した舞美を父は喜んだ。
「南条くんは名大医学部に現役合格したぞ! いやー、すごいなあ!」
何も知らない父は驚いていたが、リュウは私じゃなくてお母さんを選んだと舞美は思った。それは仕方ないとわかった。東京の私立医大の学費は市村から聞いていた。でも、私って振られたのかなあ、そんな気がした。
「南条くんを囲んで合格祝いをしよう。彼のお陰で僕は将棋の級が上がったよ。舞美、何か作ってあげなさい」
南条は複雑な表情で訪れた。名大医学部に進学すると言ったが、元気がなかった。本当は東京に行きたかったと言う南条に、
「南条くんは舞美が好きなんだろう? 僕はわかっていたよ。僕も若いときに年上の人を好きになったことがあった。男が一度は通る道みたいなものだ。君も大学生になった。舞美と付き合ってもかまわないが、舞美を泣かせることだけはしないでくれ。そう約束できるなら僕は反対はしない」
正座した南条は顔を赤らめて俯いて聞いていた。
5章 episode 6 心地良いのか、悪いのか
◆ リュウに抱かれても何か違う、そんな気がする。
「舞美は元総理の泉谷さんに気に入られたみたいだな。本人から電話をもらって驚いた」
「えーっ、おじさんから電話?」
「父親に食べさせたいと、料理を勉強してるなんて羨ましい限りだと言われたが、『初めまして泉谷です』と挨拶されても誰だかわからなかった。お嬢さんにすっかりお世話になりましたと言われたが、元総理だと知ってたのか?」
「偉い人だとだんだんわかったけど、スケさんとカクさんを連れてる普通の優しいおじさんよ。パパにどうして電話したんだろう。なんか言ってた?」
「特に用件はなかったみたいだ。ふらっと電話するなんて評判どおりの変わった人だった」
会話を聞いていた南条は、交際を許してもらったのは嬉しいが、舞美が遠くへ行ってしまった気がしていた。舞美は帰ってくるたびに、東京の匂いを漂わせてセクシーな女になって戻って来る。
元総理か、どうせジジイだろうがまさか愛人にするつもりか? 舞美の初めての男は僕だ、それは違いないが舞美がわからなくなった。
デートしようと誘われて、モーニングを食べて熱田さんにお礼参りした。満開の梅の下で、
「舞美、ごめん。僕は名古屋に残る。東京で舞美と暮らしたかったが、現実は無理だ。名大の答案を白紙で出そうかと迷ったが、無理を重ねて頑張ってる母を思うと出来なかった。これで東京に行けないとわかった瞬間だった。今はそれを後悔している。今さら悔やむなんて情けない男だ、僕は」
舞美は南条の涙を黙って見つめていた。
「舞美、愛してる、本当だ。離れたくない。他の男に抱かれちゃダメだ、行こう。舞美を早く抱きたい、壊したい」
受験が終わってホッとしたのか、東京生活を諦めたせいか、南条は舞美が壊れるほど乱暴に攻めまくって離さなかった。ただ、南条の大きな暖かい温もりに埋め尽くされた舞美は、とても幸せな気持ちで何もかも忘れられた。
「お願い、動かないでこのままじっとしていて」
熱いキスを繰り返し、「ごめん、限界だ」と暴れ出した南条。幾度も暴走するリュウは私の何を愛してるのかと舞美は思った。今まで「大好きだ」と言っていた南条が初めて「愛してる」と言った。その違いは何なの?
「リュウ、もうイヤ! あそこが擦り切れて痛い! ヒリヒリなのよ、ムリ!」
「お願いだ、あと1回だけ。ゆっくり優しくするからお願いだよ!」
ゆっくり優しくすると言ったが強引に侵入して、嵐のような暴走を続けて、やっと終わった。舞美は本当に痛くて、疲れた。
リュウは憧れていた私を抱いて夢中になっている。私が東京で何を考え何をしているかよりも、男に抱かれなかったかを気にしている。パワー全開でメチャクチャ愛されるのは嬉しいけど、これって初めてのSexに溺れているだけ? 青木や谷川、泉谷という大人の男性と出会った舞美に南条は幼く感じた。
私とリュウの時間は動いている。でも、私たちは同じ時間軸にいない。それは東京と名古屋という距離だけか? リュウが嫌いになった? 違う! 体は連結しても、遠く離れたところにいる気がする。だからリュウは不安でメチャクチャ暴れる。
離れていた1年間のことをたくさん話していたら、わかってくれただろうか。うまく言えないが、私は東京でいろんな経験をした。リュウだってそうでしょ。でも、これから1年後に好きかどうかわからない。抱かれていてそんなことを思っていた。
5章 episode 7 リュウ、泉谷、青木
◆ 恋人は同じ方向に同じスピードで歩くとは限らない。
9月からスタートした市村の受験講座は、実力以上の大学に合格者を出して、新年度の受講希望者を抽選で決めるほど好評だった。試験や面接をしないで抽選で決めるというのが大輔らしいと舞美は思った。
「面接したら、そりゃ可愛い子を選ぶさ。それはマチガイのモトだ」
舞美は市村にたっぷり甘えながら、南条と何となく気持ちがすれ違ったことを話した。
「わかった、後で答える。今は忙しい。大好きな舞美のあそこと対決してるんだ、喋るな、気が散る」
「こんなにヒクついてる、気持ちいいか? オマエはずいぶん女になったなあ、いい感じだ。たまには俺を気遣ってくれるか? だいぶ溜まってるんだ、搾ってくれ。そう! そうだ!!」
「ああすっきりした、さて、答えてやる。俺はオマエの気持ちが50%わかる。それは同じ時空を多少は共有しているからだ。だが坊やはそうではない、今の舞美の気持ちに気づいてもいない。彼が大人の男になって行くと、いつかはわかるだろうがな。
それとな、舞美と坊やの相性がいいのは、同レベルの環境で育った同類項だからだ。隣にいても邪魔にならない相手で、刺激は少ないが安心できる関係だ。少なくとも1年前まではな。抱かれたオマエが幸せなのは肌が合うからだ。しかし、よく聞けよ! そんな関係はいつまでも続かない。二人が同じ方向を向いて同じスピードで大人の男と女になることはほとんどない。どっちかは置き去りだ。取り残された方はその理由がわからない。心変わりか振られたのかと思うのがせいぜいだ。
坊やが来たら抱かれてやれ。ただし、泉谷さんに会わせるな。あの人が総理大臣だったことは知ってるな。あの人が何を考えているかわからないが、舞美に興味があることは確かだ。坊やに会ったら、あの鋭い眼光でオマエたちの関係を見破るだろう、危険だ。
坊やだってバカじゃない、余計なことは言うな。すぐには無理だろうが自分で考えるさ。オマエが探しているのは坊やの心ではない、オマエはもっと自由で大きなものを探している」
お供で食堂を訪れたスケさんとカクさんに、大きな『名古屋コーチンのいぶし鶏』を渡した。
「はい、リクエストのお土産です。おつまみにどうぞ」
「舞美ちゃん、僕にはないのか?」
泉谷が不満げに訊いた。
「だってリクエストしなかったでしょ。ちゃんと言ってくださいよ。何が欲しいんですか」
「そうだな、今回はプチュで勘弁してあげるよ」
「なーんだ、はい、眼をつむってね」
プチュ! 番犬は慌てて背中を向け、食堂のおばさんは眼をまん丸にして驚いた。
2年生になった藤井は今年度も青木の講座を選んだ。真面目に出席してノートを作っている。青木と視線が合うとニッコリ笑うがどういう意味だ? 泉谷とはどうなっているのか、青木は探ろうと思って舞美を誘った。
「いいですよ。雑誌で見たんですが、土曜日に等々力渓谷に行きませんか? デートしましょう」
新緑の輝きに負けないほど藤井は元気ハツラツだった。箱庭のような小さな渓谷を手をつないで散歩した。茶店に立ち寄り、鼻の頭にぜんざいの小豆を付けたままの藤井を見ていると、今のところ泉谷は藤井に手をつけてないと感じた。それがわかった途端、目の前の小癪な娘を抱きたい、乱暴に虐めて泣かせたい、そんな欲望に取り憑かれた。
「気に入られたようだが、泉谷さんとは友だちか?」
「うん? この前、湯河原に男子7人と泊まりに行ったの。温泉とプールつきです」
楽しそうに話す藤井に面白くなく、川沿いに立ち並ぶモーテルのネオンが目に入った青木は、多摩川を望む崖の上に停車した。
「あんなおじさんでも男だ。気をつけろ。こんなことされなかったか?」
藤井を引き寄せ、強引に舌を入れてキスした。藤井は青木の胸を跳ね除けようともがいたが、「く、苦しい、息ができ……」と喘いだ。離してやったら、本当にむせって胸を叩いて苦しがった。
「どうしたんだ? 大丈夫か」
「だ、だっ、大丈夫なわけがないでしょ。鼻と口が塞がれたらどこで息するんですか、やめてください。死ぬかと思った。あーあ、胸が痛い」
青木は、藤井がおとなしくキスさせたらモーテルに連れ込むつもりだったが、まだ涙を滲ませて胸をトントン叩いている。嫌がってる、やめておこう、そう思った。
5章 episode 8 大隈講堂で泉谷の講演
◆ 年齢差45歳、泉谷の狙いは何なのか。
ある日、食堂のおばさんが、
「午後1時から泉谷先生が急に大隈講堂で講演することになったんだ。でも舞美ちゃんが見つからないんだ、あと30分だよ。誰か、舞美ちゃんを捜して講演に連れて行っておくれ。見つけたら2食分タダにするよ!」
常連の学生が一斉に走り出した。
ぼんやり歩いてた舞美は、男子学生に囲まれて緊張した。よく見ると食堂の常連さんだ。
「みんな、どうしたの?」
「泉谷さんが大隈講堂で13時から講演するんだ。君を捜しているから行こう」
「だって午後から授業だもん、行けないよ」
「そんなんシカトしろ、平気だよ。とにかく大隈講堂に行こう、走ろう」
控え室にいた泉谷に、
「おじさん、どうしたの? 胸の大きなリボンが可愛い!」
「ああ、来てくれたか。僕はこれから学生たちにありがたーい説教するんだ。キミにも聞いて欲しい、待ってなさい」
泉谷の講演は『国家権力に屈しない学の独立』で、泉谷の信念と早稲田魂をコラボさせたものだった。簡潔でわかりやすい語りかけで学生に論じ、やんやの喝采を浴びて終演した。
講演が終わると「舞美ちゃん、大学内を案内してくれるか?」
「いいですよ。おじさん、お疲れ様です。眼をつむってください。よくできました、ご褒美です」
プチュ! SPは呆れ果てて空を見上げた。
狭い本学部の敷地を泉谷と手をつないで楽しそうに話しながら歩いている舞美に、通りかかった教員は道を開け、あの学生は元総理の隠し子か? 愛人か? 不思議に思った。
「あまりにもこの大学は狭いなあ、小さいなあ。在校生が一斉に押し寄せたら入らないだろう、学の貧困だ! 世界に対しても恥ずかしい限りだ」と嘆いた5分後に、「舞美ちゃん、僕は恋人だろう、肩を抱いてもいいか」と寄り添った。
「はーい、まったくおじさんは甘えんぼさんなんだから」と、舞美は笑った。
14号館のロビーで、
「あの男子トイレは私が間違えて通い続けたトイレです」
「へーえ、キミは男子トイレを使っていたのか、大した度胸だ」
「そうじゃなくって、たまたま入試の時に使ったトイレなんで、何も考えないでずーっと通っただけなのに、『ヘンタイ女』と陰で言われていたそうです。先生から注意されて初めて知って驚きました」
「トイレで私を見かけとき、男子専用だと言えばいいことでしょ。陰で『ヘンタイ女』って言うのは男らしくないです。おじさん、そう思いませんか?」
SPは笑いを堪えた。男子トイレに堂々と入って何も疑わずに個室を使う女なんて、常識では考えられない。個室に行くまでに小便している男の背を見ただろう。男根だって見えたかも知れない。なぜこの子は気づかない?
泉谷はそんな話を面白がって聞いていたが、この子は周りを気にしないのか、うーん、まったく正反対の四男を思い浮かべた。
その光景を青木は見ていた。なんだ? 藤井はあの男の怖さを知らないからか、肩を抱かれて歩いていたが大したものだ、複雑な思いがした。
「おい藤井、授業さぼって何してるんだ、そのおっさんはオヤジさんか?」
「恋人よ。ほっといてよ、デートしてんだからジャマ!」
あの学生たちは何だ、平和が永く続くとあーも男は軟弱になるのか、泉谷は嘆いたが、早大バカは泉谷を気にもしないで去って行った。
「舞美ちゃん、ケイタイ教えてくれるか。僕も教えるから」
「10時にはパパがお休みしなさいって。守れますか? だったらいいですよ」
それから何ごともなく、2週間が過ぎた。忙しいのか泉谷は食堂に来なかった。
5章 episode 9 おたふく風邪
◆ パトカーに救急車、おたふく風邪狂想曲。
突然、真夜中に泉谷のケイタイが鳴った。
「おじさん、助けてぇ、死にそう…… もうわかんない」
「どうした! どこにいる、何があった!」
「部屋…… 何だか熱っぽくて…… あーあ、もうダメ……」
「しっかりしろ! ケイタイはそのままにしろ、わかったね」
「うん……」
まもなくパトカーでSPは寮に到着したが、部屋は施錠されて開かない。ドアを叩いたが応答はなかった。隣の部屋から入ろうと隣の住人を「警察です」と叩き起こして、ベランダ伝いに舞美の部屋に急いだ。幸い窓は開いていて、ケイタイと何かを掴んで本人は床に転がっていたが、意識はなかった。
抱き起こすと全身が熱く右の頬がボーンと晴れていた。舞美が握った名刺に気づいた山本は、ためらわず電話した。それは谷川の名刺で、勤務先病院の横に自宅の電話が書かれていた。
真夜中の電話にぼーっと応答した谷川は、「警察の者です。藤井舞美さんをご存知ですか」と訊かれて眠気がいっぺんに吹っ飛んだ。
「藤井くんは私の患者で高校の後輩ですが、何かあったのでしょうか?」
「熱が高いので今から先生の病院に運びますが、診ていただきたいのでパトカーを向かわせています」
すでにパトカーのサイレンが響いて来た。
救急車で来院した藤井を見て谷川は呆気にとられたが、一目で耳下腺炎と診断して笑い出した。
「これは俗に言うおたふく風邪です。心配ありません」
直ちに報告を受けた泉谷は大声で笑った。
「何だ? おたふく風邪か、あの子らしいな。東京医科歯科大なら信用できるだろう。3日ぐらい入れとけ。あの子は眼を離すと何をするかわからない子だ。よく見張っとけ!」
泉谷はいつまでも笑っていた。
一方、青木は谷川の電話で起こされた。誰だ、こんな時間に非常識なやつだ、藤井か?
「どうした?」と不機嫌な声で出ると、
「谷川だ。舞美ちゃんが屈強なSPに抱えられて救急車で来た」
「救急車?」
「俺は迎えに来たパトカーに乗せられて病院行きだ」
「事故か、事件か?」
「いや、熱は高かったが、俺が得意なおたふく風邪だ。髄膜炎や脳炎は併発してない、心配ない。だが、どうかしてるぜ、あの歳でおたふく風邪なんて。男だったら断種だが女は大丈夫だ」
「そうか、おたふく風邪で救急車にパトカーか、ずいぶんと特別待遇だな」
「まったくそうだ、SPがガードしている、一体どうしたんだ? 明日、泉谷さんが見舞いに来るそうだ。あの人の囲い者か? それとも息子の花嫁候補か? 知ってたら教えろよ。ずっとSPと一緒にいると息が詰まりそうだ」
「藤井は大学近くの食堂で泉谷と出会って、あのノーテンキな性格が気に入られたみたいだ。それ以上のことは知らん」
「オマエは来るな。泉谷さんが来たときに、どんな関係か俺がしっかり観察してやる。お前、まさかあの子を抱いてないだろうな?」
「ない、その気になったが止めた。それで熱は下がるのか?」
「それは懸命な判断だ。熱は39.5度だ。朝にはだいぶ下がるだろう。ちぇ、SPが呼んでる。また連絡する」
青木はフーッと溜息をついた。何を引き起こすかわからない子だ。寝不足の眼に夜明けの明星がひときわ眩しく輝いた。
予告どおり泉谷は訪れた。舞美の熱は39度まで下がっていたが、まどろんでいた。寝顔をじっと見つめていた泉谷は、
「まだ子供だな。ああ本当に右がぷっくり腫れてる。何か変わったことはなかったか?」
「パパと何回も言ってました。とにかく寝相が悪くて布団を蹴飛ばすので、その度に点滴が外れないように確保しました」
「そうか、ご苦労、頼んだぞ」
泉谷は谷川に、
「大変お世話をおかけ致しました。谷川先生は舞美ちゃんの先輩だと聞きました。夜中に僕に電話したのは、名古屋の父親に心配かけたくなかったのだろう。この子の父親には知らせないで欲しい。僕はこれで失礼します。先生、感謝します」
「舞美ちゃん、もう大丈夫だよ、安心して眠りなさい」
泉谷は舞美の額にプチュして病室を後にした。
5章 episode 10 舞美は護身術に夢中
◆ 泉谷士郎、見舞いに来て叩かれる。
オレンジ色の太陽が傾きかけた頃、ぱっちり眼を開いて辺りを見渡し、「うぁー、おじさんが助けてくれたんだぁ!」
笑顔で見守るSPに「ありがとう!!」と、舞美は何度も言った。眠い眼をしばたいて待機していた谷川に、
「先生、また助けてくれたんでしょ、ありがとうございました!!」
満面の笑顔で礼を言った。谷川はこの微笑みでデレっとした顔を慌てて引き締めた。藤井は、俺や青木の手に負える女ではない、少し寂しい気がした。それをわかっていない本人を心配した。
熱が下がって、体がなまっちゃったとラジオ体操を始めた舞美にSPは、
「僕たちと格闘ごっこしないか?」
「ええっ、ヤダ、絶対負けるからヤダ」
「護身術って知ってるか? 僕のような大きな男を撃退する技を教えるよ、どうだ?」
「面白そう、やる、やる、教えてください!」
最初の練習は、相手の指を掴んで関節と反対の方向に反らせる「指取り」、次は「目突き」と続き、「股間蹴り」は互いが立っている場合と羽交い締めに合った場面とに分けて、熱心に教えていた。
「いいかい、相手との距離が50cmの場合は肘と膝、1m離れていたら足蹴りが基本だ。素足で蹴飛ばす場合は足首が股間に当たるように蹴る! やってごらん」
「悪い男から押し倒されたと仮定する。今は互いの腰が密着しているが、舞美ちゃん、少しずつ腰をずらしてごらん。隙間ができるだろう、そうすると相手は油断する。ここからだ、反撃に出るのは」
次第に舞美は真剣になって、何度も練習した。SPは股間に枕を2個当てて、キックを受けていたが、「僕を悪人だと思って全力で蹴るんだ」
言われた舞美が本気で蹴ると、SPは呻いて倒れ込んだ。
藤井の看護でぼんやりしていた谷川は目が覚めた。泉谷は必ず息子の花嫁候補を味見するという、週刊誌の記事を思い出した。真実かフェイクか知らないが、不安を感じたSPは藤井に護身術を教えていると気づいた。舞美ちゃんはどうやらSPも手なずけたらしい、谷川は呆れた。
3日目の夜、大きな花束を抱えた泉谷の四男が病室を訪れた。
「湯河原に来てくださった藤井舞美さんですね。泉谷健司の四男で士郎です。父の代理で見舞いに伺いました」
挨拶しながら名刺を出した。それは様々な企業や団体名がずらりと並んでいた。舞美は可笑しくてにっこり笑った。
この人は、湯河原のパーティの夜、最後に言い訳しながら走り込んだペーペーくんだ。
「すごくいい匂いがします、ありがとうございます」
舞美が礼を述べたとき、SPと谷川に「話があるから悪いが席を外してくれないか」
そう言われると退出するしかなかったが、SPの中村と眼が合った舞美は手を胸に当てトンと叩いた。
「歩けるか、ベランダで話したいがいいか」
「はい、大丈夫です。でもなぜベランダですか」
「部屋の中は聴かれている可能性がある。出よう」
舞美の肩を押してベランダへ急がせたが、風がとても強い夜だった。
「おたふく風邪と聞いたがもう大丈夫か?」
「はい、熱は下がりました。お話って何でしょうか?」
「父は君を僕の妻にしようと考えているが、その前に君の気持ちや事情を知りたい」
「はあ?? そんなのおかしいです。私に聞く前に自分のことを話すのが先でしょう」
しばらく無言が続いた。
「そうだな、君の主張は正しい。僕は自分の妻ぐらい自分で選びたいと思っている。だから君がどういうつもりか聞きたかった」
舞美は吹き出した。この男はアホかと思った。
「つもりも何も、まったくありません! 私は大学2年生です。当分誰とも結婚しません! 大好きなおじさんの息子さんでも。そして、あなたと私は友だちじゃないし、恋人でもないでしょ。あなたに恋人がいればその人と結婚したらどうですか?」
「いない、別れた」
「そんなこと私に関係ないでしょ! あのね、あなたは考え過ぎてグズグズするでしょ? すみません、生意気言いました。あの~ 寒いです、部屋へ戻りたいです」
「悪いがもう少し話させてくれるか」
士郎は上着を脱いで舞美をすっぽり包んだ。
「父は君を僕の妻にしようとするのは、君と僕が正反対だからで、もし自分が若かったら絶対に妻にすると断言した。それで、どんな女だと見に来たらこんなに若くて面食らったが、確かに僕とは違う人だ。父が夢中になったのが少しわかった」
「えーっ、おじさんはそうなの? 可愛いい、嬉しいなあ!」
目の前の女子大生はなぜ偉大な父を夢中にさせたか不思議に思ったが、士郎は父の追憶と恋慕を想像できなかった。
「舞美ちゃんと呼んでいいか、僕と付き合ってくれるか?」
「呼ぶのはいいですが、付き合うのはイヤです。だって知らない人だもん。あのね、大学近くの『フクちゃん食堂』に来てください。おばさんが喜びます。それからです、付き合うかどうかは私の勝手でしょ。あんまり期待しないでね、今の私は寒いだけです」
「眼をつむってごらん、暖かくしてあげるよ」
士郎は抱き包んでキスしようとしたが見事に叩かれて、帰って行った。
心配していたSPに、
「あーあ寒かったぁ。悪い人じゃなさそうだけど、なぜあんなに面白くない人なのかな。教えてもらった急所蹴りを試したかったけど、叩いちゃったぁ」と笑ったが、舞美ちゃんの護身術の相手は士郎さんではなく、泉谷先生だろうとSPは考えていた。
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