7章 狙われる舞美
7章 episode 1 失意の舞美
◆ 自分を責めた舞美を谷川と青木は慰めたが……
翌日、受講中の藤井は講義を完全に無視して、涙を溜めて窓の外を見つめていた。昼休みの学食で家来どもに囲まれた藤井がいたが、
「おい、何だよ、ブレークハートか? 元気出せよ」と言われても、ランチをほとんど残して藤井は去って行った。
「どうしたんだ、藤井は?」
「先生、藤井はおかしいです。ずーっと考え込んでいます。調子いい酒井に振られたんですかね」
「まあ、そんなこともあるだろう」
恋人になりたがっているのは酒井だ。藤井は振られるはずがない。何かあったのか? 泉谷か? 士郎か? 考えていると藤井から電話が来た。
「すみません、相談したいことがあります。先生の部屋に行っていいですか?」と言った声がいつもとは違った。
診療中の谷川を呼び出し、
「藤井が俺の部屋に来る、相談があるそうだ。普通じゃない感じだった。2人だけはまずい。俺は自信がない、頼むから来てくれ」
「そうだな、わかったよ。オレの舞美ちゃんをオマエに取られたくないからさ、行くよ。何か持って行こう。腹が減ってると人間はろくなことを考えないからな」
舞美がノックするとドアを開けたのは谷川だった。
「先生、お世話になりっぱなしでごめんなさい」
「青木と外で飲む約束だったが、舞美ちゃんが来ると聞いたんで、僕も押しかけたが邪魔かい?」
「いいえ、そんなことありません、いくら考えてもわからないことがあって……」
舞美は母が戻って来た理由を話した。
「それで何が聞きたい? 何を悩んでるんだ?」
青木の性急な質問を谷川は遮り、
「舞美ちゃんが理解できるように順を追って言うよ。君のお母さんは女として通用するタイムリミットを感じて、男を求めたんだ。女は40過ぎると私の人生はこれでいいのかと悩んだり焦ったりするらしい。そのエアポケットに男が現れたってことだ。
世間知らずのお母さんはその男に夢中になった。私だってまだ女なのよ、そんな気になったかも知れない。男とのセックスは魅力的だったろう。そいつはお母さんの埋み火に火を点けたんだ。だが、その男が青木のような普通の男だったら、こんな不幸な結末はなかった」
「おい、谷川、どういう意味だ?」
「ばあさんには飽きた、お前の娘を差し出せとか、暴力を振るうことだ」
「はぁ、それはないなあ。もし、年上の人妻と恋に落ちても、愛していればずっと暮らすだろう。だが、娘を要求するその男は普通じゃない! 話にならんケダモノだ。僕でもキン蹴りしたいぞ!」
「舞美ちゃん、よく聞いて欲しい。その男はキン蹴りがなくても、近い中に必ずお母さんを捨てただろう、断言できる! もしそれが3年後だったら、お母さんの心と体はもっと荒んでいただろう。お父さんは再婚して、お母さんは帰る場所がなかったかも知れない。だから舞美ちゃんは迷えるお母さんを救ったと胸を張っていいと思う」
「お母さんの恋を終わらせてしまったと悩んでいるのか? それは違う。言いにくいが、男が欲しかったのは体と金だけだ。恋をしたのはお母さんだけだ! やがて飽きて他の女に眼が向く。それがわかってお父さんは送金した。だが、お父さんとその男の気持ちは根本的に違う。そうだな? 谷川」
「そうだ。舞美ちゃんは何も知らない顔でご両親に会いなさい。誰もキン蹴りのことをお父さんにしゃべってはいけない。お母さんをしばらく養生させ、心と体についたゴミを取り去って元気にして、お父さんと会わせればいい」
ポロポロ泣きながらじっと聴いていた舞美は谷川に抱きついた。谷川は優しく髪を撫で、
「わかったら泣き止みなさい。さあ、飲も、飲もう!」
缶ビールと鮨を取り出した。
7章 episode 2 戻った母は違う母
◆ 新しい波風の予兆がする母の帰還。
舞美がトイレに立った隙に、
「オマエはあの子を抱いたか?」
「1晩中抱いた。母親が家出したときだ。泣きじゃくってしがみついてる子をやれるか! じっと我慢して俺は眠れなかった。まあ、後で後悔したが」
「そうか、威勢のいいことを言っても子供だ、可愛いなあ。しかし、周り中が男だぜ、ホントにやってないか聞いてみよう」
「おい、止せ!」
「舞美ちゃんは男の人に抱かれたことはないのかい?」
「あります。すごく凹んでいたとき青木先生に1晩中抱いてもらいました。何だかほっこり気持ちが落ち着いて、いつの間にか眠っていました」
はーあ、男2人は顔を見合わせた。
「バタフライの大男は恋人になったのかい?」
「ううん、違います。来年2月にタツミで全日本があるそうです。またバカタレーと言います」
「明日は食堂を手伝うほど元気になったか?」
「はい、ちょっと顔を見せてないので、おばさんが寂しがってます。壁に貼ってる写真、あれはすぐ盗まれるんだって、おばさんがぼやいてました」
「舞美ちゃんの写真が飾ってあるのかい?」
「ライフセーバーのです」
「へぇ、見たいなあ」
「えーっと、ケイタイに入ってます。これです」
酒井とペアの写真だが、舞美の見事に割れた腹筋と酒井の大きな両肩が異次元の世界に思え、谷川は呆れながら見とれた。
「今晩は3人でザコネしよう。青木はあまり信用できないが、僕は医者だ。患者さんを虐めたりしない。信用してくれ、わかったね。そうと決まったら舞美ちゃんが真ん中だ」
気持ちが少し落ち着いたのか、舞美はまもなく眠ったが、舞美に背を向けて横になった両隣の男は、尻や足を蹴飛ばされて眠れなかった。
「どうしてこんなに寝相が悪いんだ! 眠れりゃしない」、青木が怒ると谷川は、
「心が不安なとき、眠りの中にいながら無意識に手足をバタつかせたり暴れたりするんだ。安心できるように抱き包めばいいはずだ。オレが手本を示すから見てろ。これがオレたちの安眠の秘策だ」
谷川が抱くと動かなくなったので、青木も舞美の背中に抱きついた。
「オレたちはこの子の何なんだろう? 狼に豹変するかも知れない医者と助教授に抱かれて、安穏と眠ってる女の子なんて普通はいないぞ」
「ここにいるから困ってる。谷川、今日は感謝する、俺一人では舞美を宥められなかった。もう寝るぞ」
青木が不用意に「舞美」と呼び捨てしたのを聞いた谷川は、こいつは惚れてるのかと思い、舞美が動けないようにしっかり抱き包んだ。
それから3日経った頃、谷川は深夜の電話で起こされた。急患かと思って出ると、
「藤井です。夜遅く、ごめんなさい。ママが家に戻って来ます。先生、ありがとうございました。朝の新幹線に乗ります。本当にお世話になりました。青木先生に電話したけど出ません。どうしたんでしょうか」
「青木なんて気にするな。舞美ちゃん、良かったねえ。僕も嬉しくて泣きそうだ。あのことは言っちゃだめだ、絶対だよ。約束しよう、指切りげんまんだ。元気に戻っておいで、待ってるよ」
背後に眼を吊り上げた三段腹が立っていた。
「誰なの? こんな真夜中に非常識だわ。患者さん?」
「そうだ、泉谷元総理から大事にされている子だ。粗末には出来んだろう」
この女は権威に弱い、どうせ番号をチェックするだろう。谷川はニヤリと笑った。
青木が出なかった? 夜遊びか、いい気なもんだと思ったが気になって電話したらすぐ応答した。
「舞美ちゃんが母親に会いに行った。オマエは電話に出なかったらしいな。いいなあ独身は。遊んでたのか、羨ましいなあ」
「そうじゃない、熱があって寝ていた」
「へえー、お前がか? バファリンとか飲んだか?」
「そんなものはない」
「オマエもおたふく風邪か? インフルエンザの可能性がある。タクシーでオレんとこへ来い。特別に診てやる」
青木はガキが順番待ちしている谷川の診療室に入った。
「熱は高いが普通の風邪だ。おそらく舞美ちゃんと寝たとき、風邪引いたな。オレは舞美ちゃんと向かいあったが、オマエは背中だった、哀れなやつだ。診断書を出すから2日間は休め、わかったか」
青木は情けなかった。俺だって舞美の胸を抱いて眠りたかったが、谷川がペラペラと自説を披露するからそんなものかと信用したら、谷川は厚かましく身動き出来ないほど舞美を抱きしめてしまった。俺には背中しか残されてなかった。
そういえば目覚めたときに妙に寒気がしたな。ふと舞美が包まっていた毛布に顔を埋めると、微かにヘリオトロープの残り香が漂っていた。これに包まって寝よう。舞美、うまくやれよ。青木はいつのまにか眠りに落ちた。
7章 episode 3 何もかも不安
◆ 帰って来た母に戸惑う夫と娘、チグハグな時間が流れる。
朝9時に名古屋駅に着いた舞美は南条を呼び出した。
「今着いたとこ、ママに会うのが怖い。お願い、リュウ、甘えさせて」
「うん、わかった。どこへ行けばいい?」
南条は、
「何も心配しなくていいよ。おばさんは家に戻って来る。昨日、おじさんは母から初めて話を聞いて、驚きながらもすぐ迎えに行くと言われたそうだ。でも、おばさんの心の準備があるから明日にしましょうとなったらしい。おじさんは母に深々と頭を下げられたと聞いた。舞美、良かったね!!」
舞美は優しく抱かれて、何度もありがとうと泣いていた。南条は全身にキスして舞美の心をなぐさめ、いいかい? ゆるりと舞美に入った。
「まだ動かないで。今ね、私の全部にリュウがいるの。温かくて気持ち良くて、とっても幸せなの、あーあ、幸せ」
リュウは舞美が可愛くて、ずっと抱いていたが、
ごめん、限界だと顔を赤らめて激しく動き回った。舞美の眼から涙が溢れた。腕の中で泣き続ける舞美が幼い子供のように小さく思えた。可愛くて儚くて守りたかった。
南条は舞美に言えないことを心にしまっていた。
舞美の母は巷で蔓延している性病に罹って、それが完治するのに2週間が必要だった。南条の母は、全身に残るDVの痣や刃物で切られた切傷を撮影した。体の傷は治療すれば治るだろうが、気になったのは時たま見せる表情だ。どこか遠くを見つめ、ふふっと小さく笑っては哀しい眼をして何かをつぶやいた。それを幾度も見たと母に話すと、母は知っていた。
「それは心の傷なのよ。家に戻って治ることもあるけど、普通の神経では生きていけない暗黒の世界に堕ちてしまうと、通常の生活に戻るまで時間が必要かも知れない」
「もし治らないときはどうすればいい? 母さん、教えてくれよ、舞美が心配なんだ」
「龍平、アンタは医者になるんでしょ、覚えておいて。治療しても治らない病気もあるのよ。
私がいちばん心配していることは、ご主人と娘さんが不幸になることなの。帰ってきたお母さんは以前のお母さんとは違うかも知れない、それを受け止められるかどうか……
龍平、たまには行ってやりなさい。家の中が汚いとか、何か大きく変わったことに気づいたら教えてね、次を考えるわ」
母を迎えるために舞美はたくさんの料理を用意した。父はサポートする南条に、
「龍平くん、本当に世話になった。ママが帰って来るのも君のお陰だ、頭があがらない、ありがとう。いつのまにか立派な青年になっていたんだなあ、見直したよ。今日は舞美にこき使われているのか、まだ家来なのか?」
「いえ、ついに家来から恋人に昇格しました!」
父は笑って客間に引き上げたが、南条くんではなく龍平くんと呼んでいた。
母は南条の母に手を引かれて家に帰って来た。玄関の床に座り込み、「申し訳ありませんでした。許してください」と頭を下げた。驚いた父は「何を言ってるんだ。ここはママの家だ。待っていたよ、さあ入りなさい」と手を取って客間に招いた。
「これは舞美が全部用意した。大学近くの食堂でレシピを覚えて、帰省したときは旨いおかずをたくさん作ってくれる。そうだね、龍平くん」
「そうです。僕も何度もご馳走になりました。ものすごく美味かったです。おばさん、食べましょう」
舞美が南条にいっぱい盛ったら、ニコッと笑った。母は居心地が悪そうに小さくなって座っていた。
7章 episode 4 辛すぎる現実
◆ 誰にも話せない、帰ってきた母は別人だった。
約1年ぶりで帰った早々、昔の母に戻ってと思うのは無理だとわかっているが、くっきりと痣が残った首や手、痩せてシワやシミが目立つ顔を舞美は正視できなかった。座を持たせるために南条が将棋のことや自分の大学生活の話を続けた。母はぎこちない笑顔で南条を見ていた。
翌朝、台所で物音がしたので覗いたら、母が昨日のおかずの残りを捨てていた。刺身が残れば翌日は竜田揚げに、余った餃子は肉巻きにした母だ。私の料理が気に入らなかったのか? 洗面所には歯磨きの蓋とコップは転がったままで、ドアを開けたままトイレを使っていた。父が来たので父を押し戻したら、「ママは疲れてるみたいだな」と部屋に戻った。
昼間は3人でぼんやりテレビを観て、夕飯は母が用意した。食卓を見て父と顔を見合わせた。焼き魚とレタスのみの生野菜と味噌汁だった。以前の母はあと2品は出したのに、焼魚に大根おろしはなく、味噌汁はひどくしょっぱかった。
「しょっぱいよ!」と言った舞美の腕を父が引っ張った。
父は何を話していいのか戸惑いながら母に話しかけるが、そうねと頷くだけで会話は進まなかった。
明日の用意があるから部屋に戻って一人になったが、なかなか眠れなかった。母は変わってしまった。何だかおかしい。そんな母と暮らす父が心配になった。
東京に帰って来た舞美から報告を受けた青木と谷川は、母と再会して舞美の不安と心配は、さらに大きくなったことに気づいた。母親は違う人間になって戻って来たのかと、ため息をついた。
元気がない舞美を食堂のおばさんは心配していた。街中にクリスマスソングが流れる季節になった。
「まあ、先生、いらっしゃいませ」
泉谷が士郎を連れてふらりと現れた。
「舞美ちゃん、今日は何がオススメかな?」
「えーっと、アツアツの大盛り薩摩汁です。黄門サマ一行には特別待遇で『厚揚げのそぼろ生姜煮』を付けます。待ってください」
「舞美ちゃんの料理か?」
「はい、原価と利益を考えた新作です。早い話が実験台ですけど」
俺たち一同は実験台かと大笑いした。
舞美の新作は家庭の懐かしい味がして旨かった。
「学生さんにはピーマンと赤唐辛子の細切り炒めを加えて、ピリ辛味にしようと思ってますがどうでしょう?」
「そうだな、それがいい、旨い!」
舞美のケイタイが鳴った。「あっ、パパ!」と嬉しそうだったが、「ウソー!」と言ってポロポロと涙を零して泣き始めた。面倒な話のようだと察したおばさんが「2階を使っていいよ」と気遣った。舞美は2階に上がったきり、なかなか戻って来なかった。「見て来ます」と士郎が2階を覗くと、舞美は肩を震わせ膝を抱えて泣いていた。
士郎は舞美の震えている両肩に手を置いて、
「泣いてちゃわからない。何があったか話してごらん。力になれるかも知れない」
「でも、これは私の家のことです……」
「そうか、じゃあ僕の家のことを聞いてくれるか」
ええっ? 舞美は涙に埋もれた顔を上げた。
「中学生の終わりに母は父の秘書と駆け落ちした。僕はその男を優しいお兄さんだと思っていた。高校2年生になった頃、母は帰って来たが以前とは違っていた。父に逆らったことがない母が、自分の考えをはっきり言う人になっていた。父は息子たちを育てることだけ母に求めて、外に何人もの女がいた。母は再び出て行った。こんな経験をした僕は、今の舞美ちゃんの気持ちが少しはわかるかも知れない。話してくれないか?」
舞美は涙を畳に落として話し出した。
「ママの代わりに私を連れて来いとボコボコにされて、逃げ帰って来ましたが、戻ってきたママは違う人でした。ご飯の支度やパパへの態度もヘンで、ドアを開けたままのトイレなんて考えられません。
昨日の夜、電話があって、ママは泣き騒いで外へ飛び出したそうです。パパが可哀想です。ママはまだその男を愛してるとしたら、私のしたことは間違いでした」
「舞美ちゃん、そうじゃない、自分を責めるな。君のママは男に未練があっても、男の心はとっくに冷めている。いや、最初からなかっただろう。代わりに娘をよこせなんて言う男は普通ではない。君のママがなぜ目を覚まさないか、わかる気がする」
それは、SM以上のアブノーマルセックスだと想像した。交錯したセックスが忘れられないのだろう。平凡な主婦を地獄に堕とす男か、もしこの子が誘拐されたらと想像するだけで血の気が引いた。そんな男は何をするかわからない。仲間を募り、この子を抱かせるぞと誘って拐うかも知れない、一刻も早く手を打とう!
7章 episode 5 士郎のアドバイス
◆ 舞美を守るために本気になった士郎がやったこと。
「これから言うことをよく聞いてくれ。絶対にその男が舞美ちゃんの家へ電話したり、近寄ったりしないようにする、ガードする。そして、東京の舞美ちゃんの安全は僕が守る。必ず守る、約束する。だから神戸に住んでいる男の名前を教えてくれ」
どうせチンピラだろう、女を食い物にする人間のクズだ。余罪もあるだろう、警察の力で封じ込めよう。舞美ちゃんをそんなチンピラのおもちゃにされてたまるか!! 安全が確保できるまで、あの子の警護を要請しようと考えた。
「パパに電話して言って欲しいことがあるが、家よりも職場に電話しなさい。ママに聞かれたくないことだ。
用件は3つある。まず1つめは、舞美ちゃんの安全は必ず僕が確保するから心配いらないと伝えなさい。2つめは、家の電話は留守電にして、不審な番号は受信拒否にすることだ。3つめは、通帳や印鑑、家の権利証、株券など、現金化できる物は銀行の貸金庫に預けろ。金庫の暗証番号はパパの頭の中だけだ。当面必要な現金だけを手元に置けばいいだろう。そして、ママに銀行カードを持たせちゃダメだ」
「どうしてですか?」
「娘の代わりに金を渡せと言われたら、金を振り込むだろう。一度でも金を払ったら何回も要求する。それを防止するためだ。わかってくれるね」
士郎は舞美の涙を拭いて、
「舞美ちゃん、お願いだ、僕にひとつだけ約束してくれ」
「はい、何でしょう?」
「キン蹴りはしないでくれ。怖くて近づけない」
「しません、約束します。大好きなおじさんの息子さんなんだもの。キン蹴りしたらバチが当たります」
あーあ、この子は俺よりも親父が好きなんだ、俺は見えてないな、士郎は少しがっかりした。
「何かあったらいつでも電話しなさい」
名刺を出してケイタイ番号を書いた。大袈裟な肩書きはなく、名前と泉谷事務所が記載されたシンプルな名刺だった。
「舞美ちゃん、涙を忘れよう、ほら」
士郎は舞美を横抱きにして、グルグル回った。
「こうすれば涙は飛んでいくだろう。そうだ、ディズニーランドへ行こう。家来をたくさん連れて来ていいよ。1dayパスポートがいっぱいある、どうだ、泣き止むか?」
階下の泉谷たちは時間が経っても士郎は戻って来ない、何をしているのかと不審に思った。そのうち物音が階下に響いて来た。
「騒がしいなあ、何やってるんだ、まさか、士郎は!?」
中村が行こうとしたのをおばさんが止めて、そっと階段を上がって行ったが、口を押さえて笑いを噛み殺し、忍び足で戻って来た。
「坊ちゃんは舞美ちゃんと飛行機ごっこをやってます」
「あれか? 子供を横抱きしてブーンと回るやつか?」
「そうです。きっと舞美ちゃんをなだめてるんでしょう。呆れましたよ」
「ほぉ! 仏頂面で屁理屈ばかり並べる士郎がか? 信じられない!」
SPの山本と中村は、士郎さんも舞美ちゃんの家来になったかと可笑しかった。
舞美は父に士郎から言われたことを伝えた。
「言われてみれば確かにそうだ。そんなことは考えてもみなかったが、早速そうしよう。その男が何も出来ないようにしてくれるのは有難い、本当に感謝する。お礼を言っても足りないなあ。
実は東京で舞美が危ない目に遭うかも知れないと心配していた。今度は息子さんに世話をかけたのか、泉谷さんしか出来ないことだなあ。息子さんを家来にしてやりなさい。いつでも連れて来なさい。舞美の心配がなくなって気が楽になった。ママだけに心配を向けられる。本当にありがとう、舞美にずいぶん助けられたなあ」
翌日から警視庁は誘拐の恐れがあると判断して、舞美の身辺警護を始めた。舞美は士郎に電話した。
「パパの心配を減らしてくれてありがとうございました。パパは感謝しても足りないと本当に喜んで、心配をママだけに向けられると言ってました。私ってボケだから、自分が危ないなんて思ってませんでした。パパは気にかけていたようです。パパの許しが出たから、士郎さんを家来にしていいですか?」
「はあ? 僕は家来か、恋人は無理か?」
「あのね、家来は手柄を立てたら恋人になれるんです。それからね、いつでも遊びに来てください、パパが言ってました。本当にありがとうございました」
泉谷は、士郎が顔を紅潮させて喋っているのを見ていたが、
「今のは舞美ちゃんか? あの子はチンピラから狙われても不思議ではない。お前が警視庁を動かしたことは知っている、いい判断だ。やっと家来か? 俺は恋人だ。早くお前も恋人にしてもらえ」
7章 episode 6 東京駅で誘拐未遂
◆ 主犯の渡辺も逮捕されたが、壊れた日常は戻らない。
数日後、南条から連絡をもらった。
「舞美んちに行って掃除して来た。おばさんはぼんやりしてたけど、舞美が帰って来るまでに大掃除しましょうと言ったら、普通に戻ってくれた。一緒に家中をピカピカにしたよ。
おばさんが『プリンスくんに掃除させては悪いわ』と言ったから、舞美は僕のプリンセスだから当然ですと言ったら、昔のように笑ってくれた。
母から薬を預かった。おばさんには、傷や痣が早く治るようなビタミンとタンパク質の薬だと説明した。薬剤名がわからないように新しいカプセルに詰め替えたが、実は精神安定剤だ。おじさんには本当のことを言った」
「ありがとう、リュウ。狙われてるかも知れないって、警護の警察官がついてるけど、どの人だかさっぱりわからないの。でも明後日に帰って来る。リュウ、ありがとう」
「おじさんは元気だ。心配はない。だけど僕の心配は増えた。今度は偉い人の息子さんが家来だって?」
リュウの心配を舞美は豪快に笑い飛ばした。
名古屋に戻る前に、寮で受験講座のバイトが終わった市村に話を聞いて欲しかった。
抱かれる度にキン蹴りや、母が帰って来たことは話していたが、母が変わってしまったことを話そうとしたら、
「藤井くん、元気そうだね。良かった」と大声で世間話を続けながら、ノートに『外にお前の警護がいる。高感度のレシーバーを持っている。話は出来ない。しばらく俺の部屋に来るな。南条と会ってもホテルに行くな、そいつらは泉谷に報告するだろう。気をつけろ、我慢しろ。男と仲間が捕まったら、警護は引き上げる』
「元気で戻って来いよ」、市村は手を振った。
学生の冬休みは短い。年が明ければ学年末試験が始まる。舞美は25日に帰省して、5日には大学に戻る予定だ。25日の早朝、新幹線ホームで見知らぬ男が舞美を呼び止め、もう一人の男が腕を掴んで連れ去ろうとしたとき、「警察だ!」と声が響き、逃げようとした男たちは瞬く間に逮捕された。普通の青年にしか見えない男たちだった。
「藤井さん、大丈夫ですから乗車してください。車内にも警察官がいます」
舞美はそのまま新幹線に乗った。
家に着いた途端、無事で良かったと父が転がり出てきた。
「泉谷さんから電話をもらった。舞美を拉致しようとしたらしい。大学内でも狙ったらしいが、家来がいて手が出せなかったらしい。これは誘拐未遂だ。指令を出した主犯の男も懲役だと聞いた。こっちにいる間は愛知県警が警護をつけてくれるそうだ。ほっとしたよ。マスコミに漏れるのを警戒して、泉谷さんが必要最小限の報道に止めてくれたそうだ」
そうだったのか、ひったくりだと思ったが、えーっ、誘拐された? 信じられなかった。
「ママはいないの、どこに行ったの?」
「南条医院だ。先生に話を聞いてもらっている。辛いことも女同士だとわかり合えるらしい。話を聞いてもらうと少しは気持ちが楽になるようだ。
この前、龍平くんが掃除してくれた。舞美が心配かけたせいであの子も立派な青年になったよ。ダメなのは僕だけだ。ママは少しずつ戻っているが、急におかしくなるときがある。普通じゃない環境にいたからそれはしょうがないことだ」
「パパ!」
父と娘は言いたいことはたくさんあっても、言えないことが多すぎた。
南条が母を送って来た。
白髪が目立った髪は綺麗にダークブラウンに染められ、ゴワゴワだった肌にファンデーションが塗られていた。
「ママ、夕飯は任せて。手伝いはリュウがいるから大丈夫! 洋風でいい? ビーフシチューを作るから買い物に行って来る。そうだ、新作も披露するね。リュウ、スーパーに付き合ってね」
7章 episode 7 すれ違う夫婦
◆ 逮捕された渡辺はどこにでもいる普通の男に見えた。
スーパーへ行く道すがら、誘拐されそうになったこと、今も身辺警護が付いているからホテルはだめよと小声で告げた。南条は信じられないとつぶやき、舞美をじっと見つめて、
「誘拐!! なんてやつだ、ゾッとする。ぶん殴りたい、いや、殺したい!」
南条は顔を真っ赤にして怒った。
「怖くなかったか? もう大丈夫か?」
「うん、私は何が何だかわからなかった。男たちはすぐ逮捕されたの。でもママの相手はテレビに顔が出るかも知れない。私の身元は公開しないようだけど、男の逮捕を知ったママの反応が怖いの」
「そーか、そうだな。母に電話するよ。舞美が心配でたまらない!」
山ほど食材を買い込んで、途中の公園で小さなキスを何度もして家に戻り、料理を作った。
「ママ、『厚揚げのそぼろ生姜煮』よ。私の新作なの、つまみにしてパパとお酒飲んで待っててね」
コトコト煮込んだビーフシチューやチーズ餃子を出したら、ほんのり頰を染めたママは、
「舞美は料理が上手になったわね、ママにも教えてちょうだい」と褒めた。
南条が耳打ちした。
「舞美、あの男が捕まったことは隠せることじゃないから、母は心配して僕に泊まりなさいと言った。おばさんがもし錯乱したら、僕が絶対止めるから」
午後8時の中京テレビのニュース番組は、東京在住の女子大学生をわいせつ目的と身代金要求のため誘拐しようとした実行犯2名と協力者1名、誘拐を指示した主犯格の神戸市在住の渡辺亮太を逮捕したと伝えた。
母は驚いてテレビ画面の渡辺を食い入るように見つめて、「舞美、ごめんなさい、ごめんなさい。私のせいで」と眼を伏せた。
渡辺の顔を初めて見た父は「こんな優男なのか」と天井を見上げた。確かに渡辺はどこにでもいる普通の爽やかな茶髪の男だった。
「舞美は東京駅で連れ去られそうになった、もし拐われたら舞美はこの若さで人生の大半を失っただろう。この悲惨さがわかるか!」
父は母に迫った。
「舞美は元総理の泉谷さんと息子さんのお陰で回避できたが、それは奇遇だ、100万分の1あるかないかだろう。その人たちが警察を動かしてくれた。普通の女子大生なら簡単に誘拐され、事件は世間に埋もれてしまい、舞美は悲惨な人生を辿ったと思う。
泉谷さんや息子さんは、僕の知り合いではない。舞美が出会って心を通わせ、信頼していただいた人たちだ。娘が世間の波に揉まれながら、多くの人と出会い、人生を切り開こうとしているのに、娘の足を引っ張らないでくれ! 他のことは全部我慢できる。お願いだ、舞美の人生の邪魔だけはしないでくれ!
ママはそれだけのことを舞美にしたんだ、わかっているのか! はっきり言おう、母親として最低だ、失格だ!
あの男を愛したことは咎めない、僕にも責任がある。だが、舞美を失いたくない。目を覚ましてくれ、舞美は苦しんでいる。あの男をキン蹴りしたことだ。泉谷さんから聞いた。あれがなかったらママは男と幸せに暮らせたと悩んでいる。夫婦の問題は舞美には関係ない。舞美を不幸にしないでくれ。舞美は僕の宝物だ」
そう言い残して居間に向かった父を母が追った。こっそり南条と見に行ったら、火の気がない居間で二人は抱き合って泣いていた。その夜、南条は客間に泊まった。
舞美は眠れなかった。多分、誰も眠れなかっただろう。南条がそっと部屋に入って来た。
「リュウ!」
「しーっ、おじさんは言いたいことをずっと我慢してたんだ、舞美を心配していた。おばさんが彷徨っている世界とは違う、現実をわからせたかったんだ。僕たちも抱き合おう、だけど声を出さないで」
南条は息が詰まりそうな永いキスをして、唇を塞いだまま愛撫を続け、静かに踊り込んだ。舞美に温かい幸せが蘇った。
翌朝、ダイニングでコーヒーを飲んでいると、父は晴れやかな表情でおはようと言った。コーヒーを淹れようとした舞美に、
「これくらいはやれるようになった、心配するな。君たちは朝めしは食べたのか?」
これからだと答えると、3人分の目玉焼きを作り、トーストした。へーッと驚いていたら、「ママはお疲れだ、寝かしておこう」
はぁ? 失ったものを少しずつ取り戻してね、父の背中を見てそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます