咲かなくても花はうれしい

ふたみ

咲かなくても花はうれしい

 家の電話の受話器を置いて私はさっきの啓介くんとの会話を反芻する。え、なにも話せてなくない? そう思うとぞっとした。ていうか、全然、わからない……、私ほんとうにどうやって他人と話せばいいのかわからない、これ啓介くんだけのことじゃない。

 とりあえず、ちゃんとみなみに報告するために私は先ほどの会話をきちんと順序だてて思い返した。まず、電話して、啓介くんのお母さんが出て、すぐに啓介くんに繋いでくれた。もう私が彼に電話するのも三回目だからスムーズだ。啓介くんのお母さんは、最初は知らない女の子からの電話を何か事務的な連絡だと思ったらしくて、何度も確認をするから私は自分の身分を証明しないとと思って「啓介くんと同じクラスだった谷本唯です。啓介くんと幼馴染のみなみさんの友達です」と言ったのだ。そうしたら、次からはすぐ繋いでくれるようになったけど、啓介くんはびっくりしていた。今回もそうだ。なんで私から電話があるのかわからないみたいで、それは私にも理解できる。彼は私にこう言ったのだ。

「谷本さんさ、頭いいじゃん?」

 私はドキッとして、え、いや別に……と言った。

「いや頭いいでしょ、F高校に受かったんでしょ?」

「それは、たまたまだよ」

 言いながら私は、自分でもなんて白々しいんだろうと思う。でも、そんなこと本当はどうでもよくて、私にこういうことを言わせるために啓介くんがそう言い出したことがわかって悲しくて、そのことにショックを受けたのだ。

「ああー、俺高校浪人しよっかな」

 啓介くんは続けてそう言った。その言葉にも、ズキリと私の胸が痛んだ。

「……それは一時の感情だと思うよ。そんなに投げやりにならないで」

 受話器の向こうが黙り込む。しまった、また言ってはいけないことを言ってしまった。そう思うけどどうしようもなくて、私はまたうなだれる。でも、なんでそんなに自分を傷つけることを言うのかな? 啓介くんが本当はそんなことを思ってないことは、なんとなくわかる。彼はただ、受験に失敗してセンチメンタルな気持ちになっているのだと思う。けど、今はそんなことを彼に言ってはいけない。それも私にはわかる。わかるのだけど。

「あのさ、私高校生になったら、バス通学になるんだよね」

「ふーん」

「なんかあこがれない? 映画みたいで」

 こんな話題ぜったい啓介くん興味ない、とこれも私にはわかる。けど、他にどうしたらいいのかわからない。それでも私は、しばらくどうでもいい話題を続けていた。救いは、啓介くんから話題を振られたことだ。

「ていうか谷本さん、スマホ買わないの?」

「え? 買うよ。入学祝いで」

「あっ、そうなんだ。え、じゃあ今なんで家電してんの?」

「まだ買ってもらってないから」

「なんかそれ、すごく谷本さんっぽいなー」

 これはどういう意味なのだろう? みなみにちゃんと聞かないと、と思って私は頭の中にメモする。他にもなにか大事なことなかったかな? と考えるけれど、特にない。会話が続かなくなって、どちらともなく、じゃあね、と電話を切ったのだ。実のある話なんてあるはずがなかった。

 翌日、近くの公園で落ち合ったみなみに、私は歩きながら電話の内容を報告する。私は「すごく谷本さんっぽい」と言われたことが気になったので、そのことをみなみに尋ねるけれど、みなみは別に意味はないと思うよ、と言う。

「そうなんだ……」

 私はがっかりしてしまった。時間はまだお昼前で、お天気もぽかぽかして気持ちいい。私たちは、隣町のショッピングモールへ行くため、最寄り駅に向かっている。私の方がみなみより背が高いんだけど、今日はみなみはかかとの高い靴を履いていて、私より少しだけ身長が高くなっている。足取りもちょっと危なっかしい。爪にもマニュキアを塗っていて、大人っぽくするためにがんばってるなーという感じだ。私も高校生になるはずなんだけど、そういう変化がないから周りからぼーっとして見えるかもしれないと思う。みなみはいつもよりちょっと高い目線から、私にこう聞いた。

「あのさぁ、唯ちんまた電話するの?」

「え。すると思う」

「即答」

「だって、全然話せてないし」

 んんーっ、とみなみがうなる。なんで実りがないのにまた電話するのかと思ってるんだな。私は先を読んで理由を説明した。

「辻原くんたちとつるむのやめなよ、ってもう一回言ってみる」

「目標って感じ」

「目標だよ」

「でもさぁ、啓介が誰とつるんでも関係なくない?」

「でも」私は根気強く言う。「それを言うなら、私が言って何か悪いことある? 何もなくない?」

 みなみは黙ってしまう。段差があって、ちょっとみなみがよろけたので、さっと手を貸してあげる。きゅっと私の手をにぎったみなみの小さい手がかわいい。

「辻原たちがやばいことはわかるよ。卒業式の前も、先生たち警戒してたもんね」

「うん」

「なんで啓介もあっちに行っちゃうのかなー」

「みなみだってそう思ってるでしょ?」

「思う」みなみは繋いだままの私の手をにぎにぎと動かした。「でも、啓介もわかってないと思うよ」

「なにを?」

「えー、なんだろ。うーん。自分でも、自分のことどうでもいいと思ってるんじゃないの?」

 私はそっとみなみの手を離した。その手を自分の背中に回して、指を組む。何度もみなみとはこの話をしてるけれど、いつも話は堂々巡りで先に進まないのだ。

 私だって、今、啓介くんが自分の将来についてどうでもいいと思っていることがわかっている。受験以外にも、何か私の知らない悩み事があるのかもしれないと思う。でも、だからといって、それで投げやりになっていいとは思わない。それとこれとは話が別だ。

 私の通っていた中学校にも不良っぽい子はいたし、悪い噂がある人もいる。だけど、それにも程度があって、なんというか辻原くんたちは質が悪い部類なのだ。私は、彼らが弱い者いじめをするから大嫌いなのだ。そのくせあんまり大人を怖がってる風がなくて、先生たちに注意されてもただ態度が悪いまま黙ってうなずくだけだったりするから余計に嫌。先生にもひるまないくせに、どうして弱い者いじめをするのだろう。

 啓介くんは高校受験に失敗して落ち込んでいるし、無気力になっている。だから、なんかふらふら~って辻原くんたちの方に行っちゃってるのかもしれない。でも、そんなことはやめなよと私は思うのだ。落ち込んだって不安になったっていい、けれど自暴自棄にはなってほしくない。私は彼に大丈夫だよと言ってあげたい。もし悩み事があるなら聞かせてほしい。そのために、これまで特に親しくもなかったのに励ましたり、わざわざ電話をしたり、心配したりしているのだ。

 でも、この気持ちをいきなり言ってもきっと伝わらないと思うから、私は頑張ってチャンスを待っている。いつか自然に啓介くんに伝えたい。きっと大丈夫だよ、と。だから安心していいと思うよ。私たち、ぜったいちゃんと大人になれるよ。

 でも、私にとっては当たり前のこの思いは、周りの人には変に見えるらしい。谷本さん最近どうしたの? え、吉行みたいなヤツが好きなんだ? 谷本さんクールだから意外~。みたいな感じだ。私は啓介くんの迷惑になりたくないから、おおっぴらには行動してなかったんだけど、みんなにとっては予想外のことだったから目立ったらしい。啓介くんが受験に失敗するのは目に見えてたから(自分で「合格しなかったら終わり」だと言いふらしていた)、私はずっとハラハラしていて、結果がわかる前からできるだけ小まめに声かけをしていたのだ。だから、みんなが気づくのは当然だというのは私も理解している。でも、その反応が私には理解できない。

 なんかすごいねー。あはは、頑張ってね。でも、谷本さんも恋愛とかするんだねー。え? いや、それは好きってことだと思うよ。

 こういう言葉には、私の方が「え?」って感じだ。私は別に、啓介くんが好きだからそうしてるんじゃないよ? ただ、これから悪い道へ落ちようとしている人がいるということに気づいたから、そうしてるだけで……私がこれまで、そういう人に出会わなかっただけなんだ。いや、いたかもしれないけど、私は気づけなかった。でも、啓介くんは最初から明らかに悪い方へ向かおうとしているとわかったから、私はただそれを止めようとしてるだけだよ。誰だってそうじゃないの?

 でも、そうじゃないことが今ではわかる。誰も啓介くんを止めようとしないし、誰も彼のことを心配していない。そこは他人が干渉する部分ではない、と思っているらしい。私はそのことにびっくりしている。

 そして不安になる。私は間違っているのかな? 私は志望校にちゃんと受かったし、悪い友達に引き込まれそうになったらたぶん誰かが止めてくれるし、自分のことをどうでもいいとは思わないけど……なんだか、すごく孤独な気持ちになるのだ。

「でもやっぱり」と私は自分に言い聞かせるように口を開いた。「私は、啓介くんのこと、悪い人だとは思わないよ」

 私たちはいつの間にか、卒業した中学校の前まで来ていた。校門から運動場までの敷地に沿って桜の並木が続いている。けぶるように淡い白い花びらが、まるで時間が止まっているみたいに満開だった。

 みなみは立ち止まって、少し首をかしげた。

「唯ちんはそう言うけどさ。でも、啓介はずっとあんなだったよ?」

 啓介くんと幼馴染の友達の言葉に、私は黙っていた。ただ、今ぜんぜん風がなくて、桜の花びらが停止しているみたいに見えるのを、私は見つめている。桜は散るのが綺麗だという。やっぱり、間違っているのは私なのだろうか?


 ***


 みなみとは小学校が違って、中学一年生の時に同じクラスになって仲良くなった。そして中学二年でみなみとはクラスが分かれて、今度は啓介くんと一緒のクラスになった。もちろん私はこの時彼のことを「啓介くん」とは呼んでいない。名字で「吉行くん」と呼んでいたし、実際クラスメイト以上の感情を持つことはなかった。ある時までは。啓介くんは、英語の先生に抗議をしたのだ。

 私たちの英語の先生は、少しおかしかった。小テストで間違った単語や構文一つにつき、三十回も書き取りをさせたのだ。私はテストで間違ってもひとつふたつだから、めんどくさいなぁくらいにしか思わなかったけれど、みんながそういうわけではない。どうしても点数が取れない子もたくさんいるし、そういう子にとってはこのようなやり方は苦痛でしかないのは、私にもすぐにわかった。先生は間違いの多い生徒や書き取りをさぼった生徒を、必ず名指しで叱った。

 でも、学校って変だなと思うけど、授業では先生の言うことが絶対なのだ。五問まちがいでも一五〇回書き取りしないといけないわけだから、やる前からあきらめている子も多かった。どんなに簡単な問題でも、解けない子はいる。実際、いじめだと言われていた。でも、なぜか面と向かって抗議する子はいなかった。

 なんとなく、私はこんなことを思っていた。必ず一定数が守れないルール、心がくじけるだけで成長を促さないルール、毎回叱られることだけが確定されているルール。そんなルールは、果たしてルールと言えるのか?

 でも私にとっては三十回くらいの書き取りはやっぱり大したことがなかったので、誰かが言ってくれるだろうくらいに思っていた。そうやって一学期が過ぎていき、季節は夏になろうとしていた。私たちは半袖から腕を伸ばして、まだクーラーはつかないのかと文句を言っていた。すでに気温はかなり高く、夏みたいで、とても蒸し暑かったのを覚えている。そう、確かこの時期にしては珍しく、かなり早い台風が来るという予報があった。

 そんなある日、私は英語のテストが配られて、急に啓介くんが立ち上がった時もぼーっとしていた。彼は大きなよく通る声ではっきり言った。

「僕はテストで間違った単語を三十回も書くのが嫌です。英語の時間のことを考えるだけで、毎回吐きそうになります。十回に減らしてもらえませんか?」

 私は斜め後ろの席に座っていて、彼の立ち上がった背中しか見えなかった。真っ白なシャツの背中がまぶしくて、私はその白さが自分の視界いっぱいになるのを感じた。小さな波が押し寄せてきて、それはどんどんどんどん大きくなって、すべてを飲み込んだ。クラスのみんなも啓介くんの抗議に同調して、教室は興奮に包まれていた。こんなことは初めてだった。

 英語の先生は、たぶん四十歳後半くらいの男の先生で、いつもきちんとした身なりをしていた。ちょっと雰囲気のある人で、英語の教材にアニメとかではなくサイモン&ガーファンクルの『スカボロフェアー』を使ったりとか、授業中に(中学生にはわかりそうもない)洋画の話題を楽しげに話したりしていた。私から見てもとても神経質な人だということはわかって、自惚れが強くて、たぶんすごくさみしいのだろうなと思った。この時先生は生徒たちにさんざん抗議されて、苦虫をかみつぶしたような表情になっていたが、手はぶるぶる震えて、顔色は血の気がなくなり蒼白になっていた。

 でも、そんな風になっているのに、この先生はルールを変えなかったのだ。私は啓介くんが立ち上がったことにもびっくりしたけど、このことにもすごくびっくりした。けれど、次から先生は、書き取りをさぼった生徒を叱らなくなった。私はずるいやり方だと思った。テストで悪い点を取った生徒は、一部を除いてもう誰も真面目に書き取りをしなくなってしまった。

 表面的には何も変わらなかった。でも、先生がルールを変えなくても、みんなが書き取りをさぼるようになっても、私の意識が変わったのだ。啓介くんへの見方が変わったのはもちろんだけど、私の……なんだろう、もっと大きな何かが私の中で変わったのだ。

 季節が移って、学年が上がって、また私は啓介くんと同じクラスになった。この頃には、みなみが啓介くんと幼馴染だということも知っていたし、彼が特別勇敢な人ではないことだってわかっていた。啓介くんは、こう言ってはなんだけど、普通の人だった。ただ、私にはいつも彼の背中がまぶしくて、その白さで目の前がいっぱいになる感覚を思い出すだけで、なんかいいなぁ、って思えたのだ。

 中学三年生の夏、つまり部活の大きな大会が終わる頃になると、周囲は受験一色になった。ちょうどそれくらいから、啓介くんも不安定になってくる。彼が家族から期待された子供らしいというのは、みなみから聞く話で私も想像がついた。時々、クラスで彼が大言壮語するのを聞いて、私はとても不安になった。中学三年生の秋になって、私はついに啓介くんに声をかけてみた。

「あのー、吉行くん」

 人気のない廊下で啓介くんを呼び止めると、彼は不思議そうな顔で、なに?と言った。

「突然であれなんだけど、なにかぜったいにO高校に受からなきゃいけない理由があるの?」

 突然の問いに、啓介くんは目を丸くして私を見つめて、ちょっとぽかんとした。その後、彼は完全に挙動不審になってしまった。手の平を制服のズボンでごしごしと拭う。

「いや、特には」

「じゃあ、Y高校の方が近くない?」

 Y高校というのは、O高校より一つランクが下の高校だ。地理的にもO高校よりかなり近いので、そういう意味も含めて私は言ったのだけど、啓介くんは「え……」と言ってショックを受けた顔をする。その顔を見て、私は泣きたいような気持ちになった。どうしよう、彼を傷つけてしまった。

「あ、ごめんね、急に変なこと言って」

「いや…うん…?」

「あのー、でもさ、自分で行きたい高校選ぶって、全然不自然なことじゃないよ。えっと、つまり本当に吉行くんはO高校に行きたいの?」

 啓介くんは、私の質問におろおろしていた。私も全身が冷たくなってくる。どうしよう。こわい。

「いや、別に……?」

 疑問形で啓介くんは答える。だったら無理してO高校を受験しなくてよくない? と私は思うけど、うまい言い方を思いつかない。自分に合わせて高校のレベルを落とすことは、全然恥ずかしいことじゃないってことを、彼に言ってもいいのだろうか? ダメな気がする。だから、私は言わなかった。言わなかったけど、それでも心臓がどきどきして、痛いくらいだった。

「えっと、それがどうかした?」と啓介くん。

「ううん。なんでもない!」

「ええ? なんか谷本さんって……」

 そう言って、啓介くんは少し笑った。ぎこちない笑い方だったけど、その笑顔を見て私は少しほっとする。なので、今度はこう質問してみた。

「吉行くんは、英語得意?」

「まぁ、他の教科よりは好きだけど」

 そうなんだ! これはちょっと意外だった。私たちはそのまま教室まで歩きながら話した。たぶん、啓介くんとちゃんと話したのはこれが初めてだ。彼、私のこと変なやつと思っただろうな。

 でも、啓介くんはああ言ったのに、結局O高校を受験する。そして落ちる。辻原くんたちとつるむようになる。私はみなみに啓介くんの家の電話番号を聞いて電話する。スマホを買ってもらってからは、LINEのIDを教えてもらって、LINEにメッセージを送るようになる。高校生活が始まる。けど、やがて彼とのLINEは既読がつくだけで返信が来なくなる。私はあきらめる。やれるだけのことはやったと思う。

 高校生になってからもみなみとは時々連絡を取り合っていて、私は啓介くんのよくない噂を聞く。もう何もしないけど、まだ私は彼のことを心配している。どうして人は、悪いとわかっている方へ落ちるのだろう。そしてもっと、どんどん悪くなってしまうのだろう。私にはわからない。


 ***


 話は一気に十年後に飛ぶ。私はある音楽ライブで、大人になった啓介くんに声をかけられる。

 大人になった、って改めて言うと変だけど、そうとしか言いようがない。声を掛けられて、私はすぐに彼だとわかったけれど、それ以上に、えええー男の人だーと思った。

「あ、俺の事覚えてないよね」

「吉行啓介。くん」

「即答!」

 私は友達と来ていたけど、啓介くんは一人のようだった。私たちがそれこそ中学を卒業して高校生になる頃に解散したバンドの再結成ライブで、そこそこ混んでいて、この中でよく出会えたなーと思う。大人になった啓介くんは記憶より体つきががっしりしていて、心なしか声も厚みが出た感じだった。がやがやした会場の中で、私は友達に彼を紹介して、彼にも友達を紹介する。

「谷本さんはぜんぜん変わってないね」

「それはあんまり嬉しくないな」

「え。はい」

 私は冷たくなったと思われるかもしれないな、と思った。でも、そう思われてもぜんぜん構わない。だって本当のことだから。

 私は啓介くんに連絡を取らなくなってからも、もし誰かが悪い道へ落ちようとしていたら助けたいと思っていた。次はうまくやろうと思っていたし、うまくやれるようになりたいと思っていた。でも、その時はとうとうやってこなかったのだ。私は誰かが道を踏み外そうとしても気が付かなかったし、もっと言えば、気づいても特に何もしなかった。なんだかそこまで一生懸命になれなかったのだ。でも、それなりに楽しくやってきて、大学に入って卒業して就職して、今はごく普通の社会人をしている。

「谷本さん、覚えてる?」

「なにを?」

 ライブが始まる前、お互いに軽い近況報告をしたあと、私の友達がトイレに行った。なのでその間だけ、私たちは二人きりで話した。

「俺が高校落ちた時、すごく話しかけてきてくれたじゃん」

「うん。覚えてるよ」

「全然話したことなかったのに、電話もくれたよね? びっくりした」

「高校大丈夫だった?」

 啓介くんは喉の奥で苦笑して、首を横に振った。

「いや……すごいバカだった。今は反省してる。てか、なんで知ってんの?」

 みなみが教えてくれたのだと、私は説明した。啓介くんのご両親は今おばあさんの実家に移っていて、啓介くんだけが市内に残って一人暮らしをしているのだという。専門学校に行ってから地元の中小企業に入って三年目。話していてもすごくまともで、不安定なところがなくて、啓介くんは穏やかだった。

 友達が帰ってくると、啓介くんはLINEってまだできるのかな?と言った。

「できるんじゃない?」

「送ってみていい?」

「どうぞ」

 啓介くんからのスタンプが送られてきた。また連絡するかも、と彼は言って、さらっと私たちから離れてしまう。その後のライブではもう会うことはなくて、その日の深夜に啓介くんからライブの感想が送られてきた。こうして私たちは、また連絡を取り合うようになった。

 一緒に映画を観に行った帰り、私たちは喫茶店でお茶をする。啓介くんは、中学生の時私がなぜ話しかけてきたのか知りたがったので、英語の授業で彼が先生に抗議したことを話した。

「ええー、それは、なんで?」

「なんでってなに?」

「いや、意味がわからん」

「そうかな?」

「もっと違うことだと思ってた」

「違うことってなに?」

「いや、あの頃構ってくれてすごく嬉しかったからさ。もしかしたら、俺が何か特別なことしてたのかと思って」

 でも、嬉しかったと言いながら啓介くんは私のメッセージを既読スルーして返信してくれなかったわけで、私も意味がわからない。嬉しかったなら私の言うことをちゃんと考えてほしかったし、私の言葉に返事もしてほしかった。そう言うと、啓介くんは「谷本さんのそういうところ怖いんだよね」と言って私の顔を覗き込む。そして、「下の名前で呼んでもいい?」と言った。私はいいよと答えた。

 私も彼に聞きたいことがあったけれど、それは話しているうちにすぐにわかった。彼は専門学校に入って始めたバイト先の先輩とすごく仲良くなって、その人がとてもいい人で、だから「このままじゃだめだ」ということに気づいたそうだ。それでとても頑張ったらしい。私は、なーんだと思った。すごく単純な話だ。そして私は、彼を変えたのは自分の行動ではなかったのか、と悔しがっている自分を発見した。私は自分の浅ましさにびっくりしたけど、そのことに気づけたことにホッとして、ようやく張っていた肩の力が抜けた気がした。

 それがわかってから、私はようやく自分に啓介くんを好きになることを許した。ちょっと意外だけど、啓介くんも私のことが好きらしかった。なので、今は彼と付き合っている。このまま付き合うのかはわからないけれど、この間、たまたま私たちは車で卒業した中学校の前を通った。ちょうど桜が満開の時期で、いつか見たように、それはまるで時が止まっているみたいに見えた。

 ずっと啓介はああだったよ、とみなみが言った言葉を思い出す。やっぱり啓介くんは変わっていないのだろうか? 私もあの時のままなのだろうか?

 わからないけど、私の隣では啓介くんが車を運転していて、私は満開の桜を目で追いながら、ふと「たぶん私たちは結婚するんだろうな」ということを思ったのだった。

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咲かなくても花はうれしい ふたみ @tateshima411

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