【節分】鬼と酒と女
今宵は
毎年ながら新宿にひっそりと佇んでいるこの老舗旅館『彼岸屋』では、節分になると盛大な豆まきイベントを開催するのが定番で、地域住民の子どもたちが一同に彼岸屋の敷地へと集まる交流会が行われる。
賑わしい昼間は此岸で豆まきイベントが行われるが、その後のスケジュールは一変、地獄である。
「
地獄と喩えられる理由――それは彼岸屋での
◆◇◆◇◆
嫌われ者の大きな赤鬼がいた。
その赤鬼は此岸の村に悪さをしに、毎年二月三日に『節分鬼』となり此岸へと下り、人間たちを襲った。
たちまちその村は恐怖に染まった。
ある年のこと。村の勇気ある若者が節分鬼に勝負を挑んだ。剣の才もない若者だったが、彼は家業である豆農家で育てた豆を赤鬼目掛けてまいた。
赤鬼はその人間の若者の勇気に敬意を評して、満足げに此岸を離れた。
若者の行動は「豆は鬼の邪気を祓う」と村民に信じさせた。
そうして"豆まき"という文化を村を越えて国までに浸透させたのだ……――
これが節分の始まりなのだと、目の前で笑う『節分鬼』が言う。
本当かどうか定かではないが、笑顔を絶やさず話を聞くのは彼岸屋の若旦那、彼岸鳴だ。
五メートルはあるであろう巨体には似つかわない、彼の手ほどの朱の盃が可愛らしく見える。そんなあべこべな光景が可笑しくて、鳴は盃に口をつけながら微笑んだ。
「豆まきというのは、実にひとが分かる争いよ。誰を犠牲にするか、いや……誰が犠牲になるのかが如実に現れるのでな」
「しかしその歴史にあなた様がいなければ節分という文化は成り立たず、生まれもしなかった。日の本にこうした楽しい文化が生まれたひとつの意味が節分鬼様なのですね」
「お主、なかなか見る目があるなあ」
「光栄でございます」
上機嫌な節分鬼が鳴の盃に酒を入れていく。
この酒席は今に始まったものではなく、すでに三時間は経過していた。周りの小鬼や、鳴の付き人である行実晴、従業員はすべて潰れており、残るは節分鬼と鳴のみだった。
「しかしお主も臓が強いな」
「こればかりは、遺伝のおかげでございます」
「ほう? 誰の遺伝だ」
鳴の口元が、一瞬だけひくついた。
「さあ……? どなたでしょうね」
鳴は微量の動揺も悟られぬよう、薄い笑みを浮かべて盃に口をつける。
「儂は知っておるぞ。知っておるとも。何故なら儂は、お主の母とも、祖母とも酒飲み対決を持ちかけたことがあるからだ」
「……そうでしたか」
鳴は今どんな顔をしているのかを確かめるために盃に自分の顔を映した。そこにはぎこちない笑顔を見せる自分がいた。
これ以上この仮面を被り続けても意味が無いということか。
鳴は表情を落として節分鬼を見た。節分鬼は、待っていたと言わんばかりの顔をして笑っていた。
「その飲み会、どちらが勝たれたのですか?」
純粋に、知りたいと思った。
こんにちまで関わろうとも思わなかった母と祖母の話題。訊かなくてもいいのだが、節分鬼の目が語りたいと言っていた。
目は口ほどに物を言う、とはよくいうが、これからお帰りになる節分鬼の機嫌を取るのも鳴の仕事のひとつだった。
「どちらも…………儂の勝ちよ」
当たり前の回答に、鳴は拍子抜けした。
「……そうでしょうとも。何者も、節分鬼様には勝てませぬ。私も、そろそろ酔いが回って——」
「無いな」
ぐびっと、節分鬼が盃の中の酒を飲み干す。舌を回し、口周りに付着した酒を取る。まるで人を食らうかのごとく、豪快な飲みっぷりだった。
「先から見ていたが、一向に酔う様子が無い。酔えぬのだろう?」
(――すべてお見通しか)
「さすがは節分鬼様……鋭い観察眼をお持ちのことはあります」
「例の獣のせいか」
「……」
沈黙は肯定。鳴は盃を膳に置く。
「
「お会いになられたことは?」
「いや、ないな。儂は烽火の獣についての噂を聞いたことがあるまで。……ああ、一度でいいから酒飲みの勝負をしてみたかったものだ」
そう言って節分鬼も盃を膳に置いた。
「そろそろ開きにしよう。いくら酔わん体とはいえお主は人間の身。飲みすぎて死なれても困る」
節分鬼はそのまま座敷を立つと、ぐぐぅっと体を伸ばした。彼岸屋の酒樽を全て飲み干した節分鬼、その姿は昔語りの中の赤鬼だ。
優しい、悪の化身だ。
「……節分鬼様」
「ん?」
「いつか、必ず勝負ができましょう。器は、壊れかけておりますから」
あなたが望むというのなら、必ずその望みは叶う。
そんな意味を込めながら、鳴は自身の胸に手を当て微笑む。
節分鬼には彼の意図が伝わったのだろう。複雑な顔をして何も訊かず、ただ苦笑した。
◆◇◆◇◆
時刻は二十四時を回ろうとしている。
今年の節分が無事に終了した。節分鬼一行の帰郷支度も終わり、あと残すは見送りだけとなった。
「起きてください、晴。節分鬼様がお帰りになりますよ」
「うう……っ、もう、飲めねェ……」
「んふ。完全に潰れてる」
「すまなかったなあ。こんなにも酒に弱いとは思わなかった」
「いいえ。人間であれば、この程度が普通ですよ」
私がおかしいだけなのです、と鳴は困った顔をした。
「……此度も我が日の本に節分をお招きくださり誠にありがとうございました。またの御宿泊をお待ちしております。節分鬼様」
「ああ。世話になった。また酒飲み勝負に付き合ってくれよ、彼岸屋」
節分鬼の言葉に、心が痛む。
またの機会に、果たして自分はまだこの世界にいることが叶うのだろうか?
鳴は、残された時間がどれだけあるのかを把握出来ていない。明日にも死ぬ命かもしれない。来年まで生きていられるかもしれない。
――それは、神のみぞ知る、
顔に陰を落とした鳴の危うい姿は、節分鬼の目に儚く映る。
これ以上の長居は無用。最後に、と節分鬼が鳴に振り返る。
「此度の節分は、楽しかったか? 彼岸鳴」
節分鬼の言葉は、すっと鳴の心に溶けた。ハッとして顔を上げた鳴の目に、先ほどまでの陰りは消えていた。「ええ」と鳴は心からの笑顔を節分鬼に見せ、その笑顔を見届けた節分鬼は、満足して帰郷して行った。
――ちなみに。
節分鬼は帰り際に「また飲み会おうぞ、行実の
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