【七夕】明日、たとえ息ができなくなったとしても。

 今日は七月七日。七夕である。


 例年、新宿『彼岸屋』では七夕にちなみ私有地で取れた立派な笹を玄関の大広間に飾り、用意した短冊に願いを綴り笹に結ぶ『七夕祭り』を一週間程行っている。

 いつもより賑やかな館内に、先程『御神送おみおくり』を終えやってきた行実ゆきざねはるは少しだけその盛況におののいた。


 例年のごとくたくさんの願いが、まるで呪詛のように羅列を作っている。いいことも悪いことも見境なく綴られているのが恒例となっていた。

 ふと目の前を見遣ると、彼の相棒である彼岸ひがんめいが二人の高校生に迫られていた。

 迫っていた高校生は鳴の双子の妹で、おそらく自分も願ってみたらどうだと言われているのだろうと晴は推測した。

 というのも、鳴という男は無欲な人間で、こういった行事を行う立場にいる反面、参加することは滅多にないのだ。

 お客様第一の精神がモットーである彼は、主催者である自分が参加することはあまり宜しくないと考えているのだろう。

 少しして鳴が折れたのか、一枚の短冊を妹たちから受け取っているのを遠目に確認した晴は、その微笑ましい光景を眺めてから着替えるために自室へと戻ったのだった。


 ◆◇◆◇◆


「ねえねえ、お兄、何書くの?」

「何って……書く予定なんてなかったんですから、何も考えてないですよ……」

「でも書くんでしょう?」

「まあ、手に持ってしまったからには、書かないと……」


 とは言っても、何を書こうか何も思いつかない。

 鳴は唸りながら一枚の短冊を手に止まっている。書かなくても良いと思いながらも、手にしてしまった以上書かざるを得ないと考えてしまうところが彼の律儀なところである。

 しかし何を書こうか。

 何を願おうとも、叶うはずもないのに。分かっているのに人々は願わずにはいられないのだと鳴は少しだけ馬鹿げているなと思ってしまい苦笑した。


「……願い、か」


 妹たちは興味がどこかへ行ったらしい。いつの間にか彼女たちは鳴の傍からいなくなっており、鳴はぽつんと一人、笹の前に立っていた。妹たちの目が無くなったので書かなくても良くなったのだが、一度手にしてしまったものを手放してもいいのかと迷う。

 何か書いてみれば気持ちが変わるかもしれない。

 そう思い立つと、鳴は早速短冊に文字を鉛筆で書き始めた。


〈来年もまた、こうしてみんなで七夕祭りが開催できますように。〉


 今思ったことと言えば、そんな些細なものだった。

 しかし、こんなありきたりな願いに意味があるのかと思ってしまった鳴は、机に用意されていた消しゴムを使い、優しく文字たちを消していった。


〈来年、〉


 そこまで文字を消してから彼の手が止まった。

 ああ、短冊に『来年』について書くなんて、まるで遺書みたいだ。


 ——こんな読んだらきっと晴は怒るだろうな。


 短冊に文字を書く手を止め、鳴は苦笑した。


 ◆◇◆◇◆


 以前、生きることに疲れたので休みたいとぽつり呟いた時があった。


 仕事第一の鳴がこう言うのだから、少しは不思議がって、でもカレンダーを見て「ああエイプリルフールか、くだらない」という一連の流れを彼は期待していた。

 けれど、その時の答えは鳴の想像を遥かに超えていた。


 その時の晴は「そうか。じゃあ、海に行こうか」と言った。


「なんで海?」と訊けば「綺麗な景色を見ながらいくのもいいだろう?」と苦しげな微笑みが返ってきた。


 彼の言う「いく」とは、「逝く」ことを意味する。


 とどのつまり、彼は鳴に入水心中を提案してきたのだ。鳴と晴は『あの日』から言葉通り一心同体の身であり、晴の世界は鳴を中心に回っていた。鳴が言うことを彼は一言一句疑わず絶対に聞くのだ。


 あれがしたい、ここに行きたい、なにそれを頼みたい。


 それら全てをどんなに時間をかけようと晴は必ず遂行する。

 だから、疲れたと放ってしまった嘘が死にたいという言葉に変換されてしまったことに気がついた時には、すでにこの関係は歪んでしまっていた。


 鳴が死を望めば晴も共に逝くと言う。

 鳴が生を望めば晴も共に生きると言う。


 嗚呼、僕らってなんて残酷な関係なのだろう。


 もう二度と彼の前で自死を連想させる言葉は発さないと、鳴はこの時強く誓った。


 ◆◇◆◇◆


 回想という名の罪悪感から戻ると少し胸のあたりが痛んだ。鳴はゆっくりと深呼吸をして、その痛みを和らげようと努力する。

 傍から見れば、何かしらの発作を起こしているようにも捉えられてしまうだろう。段々と、あれ? と焦りが募る。手が、震え始めた。


 ——本当に苦しい……かも。


 自覚してしまった胸の苦しみに、段々と加速する呼吸音。ドクドクと心臓が鳴り響いて煩い。視界が歪んで、震えて、立っていられない。鳴は喘ぐように荒々しく息をしていた。


 どうやって息って止めるんだっけ?


「——鳴っ!!」


 机に手を置きもう片方の手で胸を抑えていた鳴の耳に、鮮明なまでに綺麗で男らしい、求めていた声が届いた。


「どうした、鳴? 苦しいのか……誰か、タオルか袋か持ってきてくれ!」


 ああ、晴だ。今帰ったんだ。お疲れ様。今日はどうでした? 楽しかった?

 色々聞きたいのに、呼吸は落ち着く様子を見せない。苦しくてたまらない。

 鳴は無意識に晴の袖をぎゅぅっと強く握った。晴はすぐに振り向いて鳴の体をあやすように抱き締める。ちょうど彼の肩あたりに鳴の口が当たった。


「ひゅー、はっ、はァっ、あ」

「大丈夫だ。ただの過呼吸だから。息吸いすぎなんだよ。少しずつでいいから吐いてみろ」

「はっ、はぁー、かひゅ、うっ……は、はう……むぃっ! ……げほっ」

「出来てる出来てる」


 背をさするリズムに合わせて、鳴は息を整えるように努力する。涙が、唾液が、体の中のありとあらゆる水分が言うことを聞かなくなって全身から逃げていくような感覚だ。

 ふざけるな、これは僕の体だ! と胸中叫んでみるが治まる気配は一向にしない。幼い頃に治ったはずの喘息が顔をひょっこりと出して、リズミカルに鳴の肺で喘鳴音を鳴らす。舌っ足らずな言葉たちは宙に溶けていくばかりだ。


 少しして従業員の一人がバスタオルを持ってきたのでそれを口元に当てがおうとしたが、鳴は晴から離れようとしなかった。いや、出来なかったと言うのが正しいか。今離れてしまえば気持ち落ち着いた呼吸が逆戻りそうな気がしたのだ。


 僕が死ねば晴も死ぬ。

 心理的にも、物理的にも。

 あの時僕が彼のこれからの幸せと未来を奪ってしまったのだ。苦しむくらいでは済まされない。


 永遠にも感じられる、実際は十分にも満たないであろう短い時間が経った頃、ようやく鳴の呼吸は戻りつつあった。肩で呼吸をしてはいるものの苦しげな様子はない。従業員一同並びに宿泊客は安堵の息を零した。


「……落ち着いたか、鳴?」

「…………は、……ぅ……?」

「……頑張って、疲れただろう。寝てもいいぞ」

「…………う…………ん……」


 鳴はそのまま死んだかのように気絶した。一瞬寿命が縮む思いをした晴だったが、自分が死んでいないことを確認すると意識を飛ばしただけなのだと確信する。

 晴は鳴が完全に眠ったことを確認すると、そのまま横抱きにして彼の自室へと向かった。鳴の体は引くほど軽くなっていた。


 もうその時も、近いのかもしれない。


 ◆◇◆◇◆


 彼岸屋の方は残った妹たちと古参の女将に任せた。下手にイベントを終わらせる必要は無いのだ。最後まで楽しんでもらえたら幸いだ。

 鳴の部屋はいつも空っぽだ。心臓を共有するようになってからいつでも居なくなれるように物を捨てているらしい。まるで終活だ。今だけは生きていることを実感してもらいたいが、言ったところで鳴は聞かないだろう。

 いつかは死ぬ。けれど、そのいつかが目の前に亡霊として現れ続けている限りは、考えを改めることはないだろう。


 少しして、うう、と鳴が呻いた。気を失っただけなのですぐに起きるとは思っていた。「鳴?」と晴はできる限り優しい声音で訊く。目をゆっくりと開いた鳴は晴の方へ向くとその合わない焦点で「……どうして」と呟いた。


「……『どうして』?」

「だって、ぼく、ぼくは、しんじゃったんだよ……? なんで晴もここにいるの……?」

「————」


 晴は目を見張り絶句した。

 鳴の記憶は今、あの地獄と化した『あの日』へと誘われているらしい。彼は死に際のことを少なからず覚えていると言っていた。その過去と現在の記憶が混濁しての発言だろう。晴はゆっくりと耳を塞ぎ俯いた鳴の震える体を優しく抱き締めた。


「鳴、聞け、」

「晴はここにいちゃダメなの、ぼくのせいで、幸せ逃げちゃうの……ぼくが、ダメな子だから……!」

「そんなことない」


 ショックによる幼児退行は、もう見慣れた光景だった。

 鳴はなおも引き攣るような息遣いで晴に伝える。

 今夜は、月が嫌味なほどに輝いていた。


「……鳴。俺はちゃんと生きてる。お前も生きてる。だから不思議な事なんて何も無い」


 鳴の髪を梳くようにして撫でる。過呼吸を再発しないように、丁寧に、落ち着くように。


「ほら、心臓の音、聴こえるだろ」


 そうして鳴をぐっと自分の胸まで引き寄せる。自分ではあまり分からないが、きっとトクトクと鳴っている、生きている心臓音を聴かせる。その音を聴き始めてから鳴は徐々に落ち着いていった。


「……鳴。俺はちゃんとここにいるよ」

「……晴……?」

「ああ、ここにいる。いるから。生きてるから」


 やっと、目の焦点が晴に合う。水分を含み潤む瞳はしっかりと晴を捉えている。もう大丈夫だ。


「……生きてるね」

「そりゃあな」

「んふ、生きてる」

「生きてる」

「生きてる、ねー」


 何度も彼らは確かめ合う。二人にしか理解し難い時間が流れる。この時間が、いつまでも続いてほしいと、願っている。目先の最期おわりを知っているから、そう願ってしまう。それでも、願わせてほしい。願うだけなら、許してほしい。

 ウトウトと小舟を漕ぎ始めた鳴を抱きながら、晴は心の中で何度も独りごちた。


 ◆◇◆◇◆


 翌日、目を赤く腫らした鳴に思わず吹いた晴は案の定彼からビンタを食らった。渇いた平手打ちの音が廊下を通り抜けた。

 二人で広間へ向かえば、昨日のまま飾られた笹が残っていた。たくさんの利用客が、それぞれの願いを短冊に込めていた。


 お嫁さんになりたいですと書かれた子供らしい可愛い文字。

 病気が治りますようにと震えた字で綴られた言葉。

 お金持ちになりたいと豪快に書かれた短冊と、願いは三者三様だった。


「こういうのって人間性が出るよな」

「うん、どれも気持ちがこもっていて面白いです」

「そうだな」

「晴はお願い事はしないんですか?」

「しないな。俺は現実主義者なんでね。こういう類のことは信じない」

「言葉は言霊と言うのに……まあ、参加は個人の自由ですけど……」

「お前は?」

「え?」

「昨日、何か書こうとしてただろ。願わなかったのか」

「……ああ、あれ。……もういいんです。叶いましたから」

「? そうなのか」


 はい、と鳴は微笑んだ。その手には昨日書き損ねた短冊が握られていた。


〈来年も、少しでも長く、生きたい〉——と。


 吐息にも似た彼の願いは、きっと今叶っていて、そして永遠に叶わない。


「——さて! 今日も沢山働いちゃうぞ! 晴、遅れないでくださいね〜!」

「病み上がりが調子乗ってんじゃねェぞ!! おい鳴、廊下を走るんじゃない!」

「あははは!」


 ならば、ささやかなる日常を願うだけ。

 明日、たとえ息ができなくなったとしても。

 一日一日の日常を生きることを願うだけなら、日々彼の願いは叶い続けるのだ。

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