第6話 夢のトラック、不屈の領域
いつも通り、
悠と律は隣合うことを避ける、カトウは雫を律から遠ざけようとする、雫はカトウの隣を恥ずかしがる――という具合に、論理パズルめいた状況に陥った。
最終的には、焦れた夢美の小さな白足袋が、四人を布団に蹴り込んだ訳だが。
幸い、うまく全員の希望が通る並びになっていたのは、幸運であった。
夢にはいり込むまでの間、悠が、隣のカトウにこっそり確認したところ、雫はどうやらクラスの男子から高嶺の花と呼ばれているらしい。
面倒見がよく優しくて、いつも女子に囲まれ微笑んでいるお嬢様然とした美少女。カトウから聞く雫の姿は、どうも悠の知っている姿とは違うようだ。
悠の知る雫は、嵐のようにドタバタと枕堂にやって来ては言いたいことを言って去っていく女だ。高嶺の花どころか、向こうから悠と律を巻き込みに来る、くっつき虫のような娘である。
まあ、知らないというのは、案外そういうものかもしれない。
いつの世も、触れられないものは、触れられないからこそ価値があるように見える訳だし。
■◇■◇■◇■
四人が無事に降り立った夢は、かつては広大なグラウンドだったらしい。
単純な線で構成された、戯画じみた顔のマークに塗りつぶされてさえいなければ、立派な陸上競技場を風のように走るカトウの姿が見られたのかもしれない。
カビのような薄汚い緑色の水彩絵具の下に、塗り残された赤茶けたタータントラックがのぞいていた。
中途半端に残っているために、カトウはショックを受けて押し黙る。
もちろん、こんな時にも空気を読まない枕堂コンビは、相変わらずぎゃーぎゃー騒いでいるのだが。
「なんか、このふざけた顔マーク、前にも見た気がすんぞ?」
「馬鹿。雫自身の夢も含め、雫が持ってきた十五件のうち、半数以上が似たようなマークで塗りつぶしてただろ。どいつもこいつも、技だけを怪しげな辻占や通信教育で聞いたなんてこと言ってやがったが」
「同じ顔だけに、後ろにいるのは同一犯なのでしょうね」
きっぱりと雫が断言する。二件目、三件目の頃にはまだ判断を先延ばしていた律も、さすがに今回は深く頷いた。
「同じ地域でこれだけ頻発していれば、たぶんそうだろうな。常に実行犯は別にいて、教唆したヤツがここまで一度も姿を現していないのが腹立たしいが」
「……あっ、思い出した!」
それまで、うーんと唸り続けていた悠が、はっと顔を上げる。
「おれさぁ、この顔、雫の夢の前にさ――」
言いかけた悠の身体が、真横に吹っ飛んだ。
一瞬のことだが、律は即座に隣の雫を庇って体勢を下げる。その動きは、目に見たものを、脳が判断するより早かった。
棒立ちになっていたカトウが、続けて吹っ飛んでいく。
その様子を見て、ようやく雫はなにが起こっているか理解した。
二人とも、横から飛んできた絵具に押されて吹っ飛ばされているのだ。
べちょんっ、とグラウンドの外周付近で重たいものが落ちる音がした。
べたべたの絵具で観客席のフェンスに貼りつけられていた悠が、もがいて地面に落ちたようだ。
「――てんめぇえええ! あのクソ……ッ」
緑の絵具に汚された顔を擦って、悠が駆け出そうとする。
その左手を、立ちはだかった律が強く引いた。
「邪魔すんな、律!」
「邪魔じゃない。落ち着け、馬鹿!」
律の視線を追って消えた右手に気付いたのだろう、悠は肩の力を抜いた。
その右腕の先に自分の右手を近づけ、律は低い声で囁く。
「掛けまくも畏き
二人の様子をグラウンドに伏せたまま眺めていた雫の耳に、ぺっちょ、ぺっちょ、と濡れた音が入ってきた。
振り返れば、悠と同じく絵具に吹っ飛ばされたカトウが片足でバランスを取りながら戻ってくる足音だ。
「クッソ、あいつら、呑気になにやってんだ?」
「カトウくん、伏せてください。こういうことはプロに任せるのがいちばんです」
「夢咲はそう言うけど、オレの夢を汚した上に絵具まみれにしやがって……オレだってやり返してぇよ!」
「気持ちはわかります。だからこそ任せるんです。犯人をぎったんぎったんのめっためたにぶっ倒して、裏で糸引いてる最悪なヤツを引きずり出してもらいましょう」
「お、おう……?」
クラスのアイドルに、真顔でぎったんぎったんなどと言われたカトウは、目を白黒させた。
そうこうしているうちに、律の祝詞が終わり、悠の右手が眩しく輝く。
左手に比べてほっそりと綺麗な右手を振ると、いつの間にかその手に大きな絵筆が握られていた。
「――人を邪魔するために絵具飛ばしてくるなんて、絵描きの風上にも置けねぇ、ぞッと!」
勢いよく振られた筆の先で、再び飛んできていた絵具が弾けて落ちる。
ばしゅっ、と鮮やかな風切り音を響かせ、悠は重ねて筆を振っていく。
跳び上がっては絵具を弾き、転がっては赤茶けたタータントラックを元の通りに塗り直していく――がたつきなく引かれた白線に、隣でカトウが息をついた。
同じ姿勢で地面に伏せながら、雫は、そちらに向けてほほ笑んで見せる。
「ね、言った通りでしょう?」
「うん。あいつら、ただの漫才コンビじゃないんだ……」
「そうですとも。でなければ、わたしはあの二人を頼ったりしません。なにせ、この落書きで夢を奪う術を広めている愚か者を、わたしは許してませんので」
ざり、と手のひらで音が鳴る。
無意識に地面に爪を突き立てようとしていたことに気付いて、雫は慌てて手を払った。
「あらこれは、わたしとしたことが、はしたない」
「……夢咲って、もしかして怒ると怖いタイプ?」
「怒るなんて、そんな。ただわたし、バカは嫌いなんです」
「えっ」
「すみません。間違えました。友人を唆してわたしの夢にバカな絵を描かせたバカが嫌いなんです」
ざりざりざり、と大きくなっていった音は、最後に、ぶちぃ!という断絶音で途切れる。
カトウの顔色が少々青ざめているように見えたが、ま、それは緑の絵具によるものだろう。
一人納得して、雫は、跳びまわる悠の姿に視線を戻した。
そこでふと、悠がなにか喚いていることに気付く。
「――で、動きがなんか鈍いんだよ、律! いつもはもっと軽いはずだ、あんたの能力、なんかおかしくなってんじゃないか!?」
「馬鹿、なんでも人のせいにするな。重いのは、この領域のせいだ」
律が、強く地面を踏んで見せた。
「相手の塗った範囲――領域の上に長時間いると、奪われた能力の影響を受ける。つまり、この夢の中で言えば、お前の足が遅くなるんだよ」
「はぁ!? そんなの聞いてねぇぞ! 何回か夢の中にも入ったけどさぁ、そんな影響受けたことなんてなかったのに」
「これまでは、お前の塗り直すスピードが異様に早かったから、意識せずにいられたんだろう。だが、今は――」
雫は、少しだけ顔を上げて、ぐるりと周囲を見回す。
軽やかに跳びまわる悠に対し、再びどこからか絵具が飛ぶ。筆を払いながらも、悠はあからさまな舌打ちを鳴らした。
払いきれなかった絵具が、地上でいびつな線を描いていく。領域が広がる。
そして、もとの領域である、広い陸上トラック全体に描かれていた不気味なマークは、まだほとんど塗り直せていない。
先の見えない目標と途絶えぬ妨害に、悠は大きく肩で息をついた。
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