第7話 夢の走者、双方の行く先

 相手のを削ってはいる。

 だが、悠の速度に不利効果デバフを与えてくる領域は広い。

 相手の領域に踏み込まない限り、領域を塗り替えることはできない――板挟みに、単純な悠は焦れて足を踏み鳴らした。


「――クッソ、ふざけんなよ! 塗っても塗ってもキリがねぇじゃんか!」

「落ち着け。そうは言ってもお前が押してる。このまま落ち着いて塗れば――」


 律が宥める間にも、飛来した絵具がびしゃりとカトウの横の地面を塗り返していく。カトウは、慌てて悠の塗り直した領域へ跳ね戻ってきた。


「悠さんが焦るのもわかります。確かにこれじゃ、一進一退ですから。せめて、妨害する相手を探し出してふん縛ることができたらいいんですが。どこから飛ばしてるんでしょうか……カトウくん、わかります?」

「あっはい、すみません、夢咲さん」


 いつの間にか敬語になっているカトウに、雫は首を傾げた。少なくとも本人には、カトウを脅した自覚はない。

 よくはわからないが問題はなさそうだと判断して、そのままぐるりと辺りを見回し、絵具の飛んでくる出元を探る。

 平面に塗り潰された夢の、どこから濡れた塊が飛んでくるのだろう。

 一面の落書きは、夢全体を薄っぺらく平べったい存在に貶めている。そんな夢の中で、隠れるところもないはずなのに、一体どこから。


「――ぶあっ!?」

「悠さん、大丈夫ですか!?」

「ぶへっ、げふっ……だ、大丈夫だけど、ちくしょっ! また領域に入っちまった」


 もったりとした動きで、悠は足元を塗り直そうとする。

 その間も風を切って飛んでくる絵具を、律が歯がゆそうに睨みつけた。


「悠、情けないぞ。あんなヤツに後れを取るとは」

「うるせぇな、あんたらがうまく避けてるか気になんの!」

「こっちを気にするな。俺たちに当たったところで、痛くも痒くも――いや」


 ふと、律は、絵具まみれのカトウに視線を向けた。

 塗り潰された大地と同じ、腐ったような緑色にまみれている。


「……もしもこのまま、絵具に塗られたまま朝が来れば、もしかすると」

「もしかすると、なんだよ!?」

「俺たちもこの夢の風景と一緒に、夢の中に閉じ込められてしまう……」

「ほーらなっ! だから言ったろ、ちゃんと避けろって!」


 理屈は理解できなくても、結論は理解できたらしい。

 悠は、慌てた様子でしっしっと手を振った。

 苛立たしげに、律が噛みつき返す。


「なにを――最初に塗られたヤツが、偉そうに!」

「はん、うるせぇから端っこ行ってろ! 見てるしかできねぇんだからあんたは黙って見てりゃいいんだよ。おれだって一生懸命なの!」

「なんだと!? 見てるしかできないのは――」


 律の左手が、悠の右手に向かって伸ばされ、それから眼帯を押さえた。

 その手は、微かに震えるほど力がこもっている。

 自分が動けさえすれば――そう思う気持ちは、雫にも痛いほど理解できた。

 だが、今の律も雫も無力だ。無力な三人を守ろうとすれば、悠は思うように動けない。


「律さん、とにかくわたしたちは移動しましょう。飛んでくる方向を考えると、当たりにくい場所があるはずです。このままここにいても……」

「……わかってる」


 静かに息をついた律は、既に落ち着きを取り戻していた。

 

「多少移動はしているが、飛んでくる絵具の角度から考えて、今は向こう側にいるはずだ。反対側へ距離を取れば――」


 言いかけて、ふとなにかを気付いた様子で、律は動きを止めた。

 その片方だけの目が、改めて悠へ向けられる。


「……おい、悠」

「なんだよ」

「お前、本気で俺たちが夢に閉じ込められないように朝まで守るつもりか?」

「……だって。あんたらがそんなことになったら、大変じゃん」


 視線をそらしたまま、駄々っ子のように唇を突き出している。


「いつも喧嘩ばかりですけど、本当は悠さん、律さんのことが大好きなんですよね」

「がああぁああっ! やめろっ! 別におれは律のことなんて――」

「――そんなことはどうでもいい」


 照れて騒ぐ悠の言葉を、ぴしゃり、と律が冷ややかに止めた。


「お前、勘違いしてるぞ」

「な、なにがだよっ!」

「夢に閉じ込められるのは、俺たちに絵具がついた上で、朝までこの夢を塗り返せないままだったら、だ」

「わかってるよ、そんなこと!」

「いーや、わかってない。お前はこの夢、負けて終わるつもりか?」


 挑発に、悠は大きく目を見開いた。


「――負けるつもりなんか、ねぇ」

「だろうが、馬鹿。だったら、俺たちを守ったりしなくていい。さっさと塗り直して夢を奪い返すぞ」

「了解」


 答えるや否や、悠の身体が地を蹴って跳ぶ。

 律のことも雫のことも、もうその目には映っていない。元の夢を読み取り、活き活きと塗り直していく筆だけが動いていた。


「あ、あの……」


 残された三人のうち、絵具を塗られてしまったカトウが、おずおずと声を上げる。


「あいつの気合はあれでいいのかも、だけどよ。結局、朝までにあいつが塗り直せなかったら、オレは……?」

「さっき言った通りだ。このまま、夢の一部として吸収されるな」

「そんな!」

「困るんだが!?」


 雫とカトウの声に片手を上げて応えると、律もまた地を蹴って駆け出した。


「安心しろ。俺たちは報酬が目当てだ。無事に完遂しないことには支払って貰えない。だから――ここからは俺も足掻かせてもらう」

「待て、どこ行くんだよ!?」

「絵具の飛んでくる方だ。絵具は抑えられなくても、その出処を抑えることはできる。お前の夢を奪った犯人がどこに隠れているか探し出すんだ。妨害さえなければ、悠は十分にこの広いトラックを塗り直せる」

「なるほど。わたしも攻勢の方が好きです」

「……こいつら、顔に似合わずケンカっ早い!?」


 走る律を、やる気満々の雫が追う。

 二人に置いていかれてはたまらない。仕方なくカトウも二人の後を走った。


 ばしゃっ、と律の真横で音が弾ける。身のこなしも軽やかに絵具を避け、その避けた角度でなおさら絵具の出どころを把握する。


「待て。あそこ――あのグラウンドの端、観客席の入り口だけ、元の夢が塗り残されてる感じがしないか?」

「確かに、あそこだけ平面になってないですね……あれ? それってつまり――」


 雫が首を傾げている間に、律は片足のカトウを引っ張って、グラウンドの端へと駆け込む。


「ぎゃあああっ!? コケるっコケる――もうちょいスピード緩めてくれよ!」

「うるさいぞ、黙って走れ――ビンゴだ」


 近づけば、観客席に上がるその階段だけが立体のままだった。

 見上げた柵の内側で、誰かがさっと身を隠した気配を感じる。


「よし、登りましょう!」


 腕まくりをした雫が、先頭を切って階段を駆け上がっていく。

 隣のカトウを引きずりながら、律もまた鉄製の階段をガタガタと揺らして跳んだ。


 すぐに吹き抜けの上階に出る。視界が開ける。

 瞬間、視線の横から、なにかが飛んでくるのが見えた。

 考えるより先に、律はカトウの身体から手を放し、雫を前方に押し倒した。


「――きゃっ!?」


 飛んできた絵具は三人の頭上を掠め、階段にべちゃりと付着する。

 顔を上げれば、絵具の出元であった場所には、人影が立っていた。


「――お、まえ……! ヤマウエ!?」


 雫の横からカトウが大声を上げる。

 カトウの声に応えるようにゆらりと身体を揺らして、悠に似た大きな絵筆を携えた少年が、姿を現した。


「カトウ先輩が、こうなってもまだ戻ってくるなんて。ねぇ、なんで諦めてくれなかったんスか」


 ヤマウエと呼ばれた彼は、暗い表情のまま、上目遣いでじっとこちらを見ていた。

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