第4話 夢取り合戦、夢の終わり
サキは、雫にとってクラスメイトの中でもいちばんの仲良しだった。
小学校に上がる前から、ずっと一緒で。
だというのに、彼女がこんな表情を浮かべるなんてこと、これまで知りもしなかった。
憎しみを込めた視線が、ぎろりと雫を睨みつける。
「往生際が悪いのよ、あんた。あのまま黙って消えてれば良かったのに」
「サキ、どういうことですか」
「どういう? あたしの前でうろちょろして、いかにも天然ですって顔で邪魔ばっかりしてたくせに?」
「邪魔だなんて……」
声の冷たさに、雫は思わず自分の肩を抱いた。
「わたしのこと邪魔だって、ずっとそんな風に思ってたんですか? それで、わたしの夢を奪ったの……?」
「そうよ。いつだってあんたが輪の中心で、あたしは添え物。あんたがいる限りずっとそう。だったら、あんたの立場ごとぜんぶあたしが貰ってあげようって思ったの」
「勝手な言い分だな」
口を挟んだ律に、サキは見向きもしない。
熱に浮かされたように、雫だけを見据えて喋り続ける。
「立場だけじゃいなくなれないっていうなら、今度は存在ごと奪ってあげる。――二度と、あたしの視界に入れないようにしてあげるわ」
「サキ、もうやめて。わたしたち、友だちじゃないですか」
「友だちなんかじゃない! あんたなんかいなくなればいいって、ずっと思ってた!」
振り上げた彼女の手には、いつの間にか大きなサインペンが握られていた。
水性インクの滲むペン先が、まっすぐに雫を狙って振り下ろされる。
「――悠!」
「おうよ!」
真横から返事とともに、絵具の塊が勢いよく飛んできて、ペン先にぶつかった。
大きな質量に横を押され、少女が体勢を崩す。
「なにすんのよ!」
「なに言ってんだ、他人様のモン
サキがサインペンを握り直している間に、悠の絵筆がどんどん夢を塗り直していく。
瞬く間に完成していく放課後の教室。
その穏やかな時間にナイフを入れるように、サキは眉をぎゅっと寄せてサインペンを突き刺した。
「あんたなぁ! 油絵具は乾きが遅いんだぞ! そんなとこ突いたら穴が開いちまうじゃねぇか」
「邪魔しに来たんだから当然でしょうが!」
「つったって、その辺ぐちぐち弄ってる間に、おれはもうこっちほとんど塗っちまったけどなー」
大口を叩きながらも、悠の手は止まらない。
律と雫は、縦横無尽に走り回る悠とそれを追うサキの姿を、並んで見ていた。
「なるほど、口だけのことはありますね」
「そうか? 適当にべたべた塗りたくってるだけだろ」
「そうは言っても、わたしのおぼえている通りの教室が復元されています」
「……いや、ダサいだろ。こんなん」
ぼそりと呟き、そこで会話を終わらせようとしたらしい。
が、雫は振り向いて、小首をかしげて見せた。
「ダサいとは言っても、ヘタクソとは言わないんですね。河原の時みたいに」
返ってきたのは沈黙だけだ。
聞き違いようのない答えに、雫は満足して悠の方へ向き直った。
ふと、光を感じて、空を見上げる。
差し込んでくるのは、間違いようのない、静謐な朝の光だ。
雫と律の視線を追って、悠もまた足を止め、上を見た。
「おっ、朝か! うんうん、半分をはるかに超えておれの絵が勝ってるな!」
「うるさいのよ! なんで……なんか、途中でうまく動けなくなっちゃうし!」
悔しそうに顔をゆがめたサキが、サインペンを振る。
制限時間に達した今となっては、もう遅い。だが――
「なんでよ、いつも雫ばっかり! あたしだって、あたしだって……!」
ぎゅっと握ったペンを、まっすぐに雫に向けた。
泣き顔にも似た懸命さで、雫の方へ突進してくる。
律が庇おうとした腕を、雫はあえて押しとどめ、サキの前へと歩み出た。
「……サキ」
彼女を受け入れようと、両手を開く。
ペン先が、勢いよく雫の胸を突き刺す――その、寸前でぴたりと止まった。
「……なんで、なんでよ……あたしだって……あんたみたいに、なりたくて……」
声と共に震えるペンが、朝日を浴びたところから、白に塗りつぶされるように消えていく。
サキの姿も、セーラー服とともにかき消され、後には、ぽつり、と地面に落ちた水滴だけが残っていた。
「サキ。そんなのは、わたしの方だって……」
言いかけた口が、固められたようにうまく動かなくて。
そう言えば、悠と律はどこへ、と見渡す視界が、眩しいほどの純白に埋め尽くされる。
思わず閉じた瞳が次に開いたときには、柔らかな掛布団に遮られた、古風な和の天井を捉えていた。
右隣に横たわるのは律、左が悠――もちろん、律の手は既に元の場所へ戻っており、悠は途中でかき消された右手を少し残念そうに眺めていた。
「お、戻ってきよったな。よしよし、ようやったぞ」
さりさりと足音を立て、夢美が枕元へ近寄ってくる。
頭の傍で衣擦れの音がして、小さな手が、額をぽんぽんとあやすように軽く叩いた。
その温かな感触に触れ、雫の瞳からは、なぜか――ほろりと涙が零れ始めたのだった。
■◇■◇■◇■
「先日は、お世話になりました」
深々と頭を下げた雫は、菓子折りをすすっと差し出した。
悠と律が驚いたのは、菓子折りの豪華さよりも、雫の隣にむくれた顔のサキがちょこんと座っていたことだったが。
「なあ、あれって今回の件の犯人なんじゃなかったっけ、律?」
「ああ、女の友情はよくわからん」
「そこ、人前でこそこそ話は失礼ですよ」
雫に言われ、二人は渋々前に向き直った。
悠に言わせれば、一番失礼なのは、相変わらず寝椅子に横たわったままの夢美だろう。ただし、これを口に出せばどうなるかわからない、と思える程度の知能もまた、悠にはある。
枕堂に再び雫が訪れたのは、一週間後のことだった。
約束の礼金とともに、菓子折、そして事の経緯を添えて。
経緯とは言っても、犯人の――サキの動機やら二人の友情は無事回復したかなんて話ではない。
「サキが言うには、通りがかりに見つけたそうです。その占い師を」
「占い師?」
「……辻占っていうの? なんかさ、家に帰る道の脇から声かけられたわけ。そんで、そいつが雫を少し……懲らしめてやらないかって。雫の夢の中に入るためのおまじないと、夢を奪うために……サインペンを……」
「なので、サキは騙されただけなんです!」
どうにも言いにくそうなサキを無視して、雫は床を叩いて熱弁した。
こういう女なんだな、と律は一人で納得する。
雫に対するサキの暴走も、なんとなく理解できなくもない。どんなに憧れてどんなに求めても本人は意に介さないタイプの女なのだ。視界に入る方法が、他になかったのだろう。
思いのたけをぶちまけて、多少はすっきりしたのかもしれない。
――たぶん、雫によって、強制的に仲直りさせられたのだろうけど。
雫は、鼻息荒く拳を握る。
「その占い師とやらをとっちめてやろうと思ったのですが、最初に会った道端にはもういなくて! まったく、何者なのやら! 今度会ったら許しません!」
「畳がけばだつので、やめとくれ」
淡々とたしなめた夢美を、律はちらりと見上げた。
寝椅子の上から、夢美もまた律を一瞬見ていたような気がする。
「……他人の夢を奪えと唆す
「本当ですか!? じゃあ、そいつをぎたんぎたんに――!」
「じゃが、それは任せて貰おうかの。なにせ妾にも今はそやつの居所が掴めんで困っておるのじゃ。無事見つけたら、ぬしの代わりにぎたんぎたんにしておいてやるわい」
けらけらと笑って、夢美は菓子折りを開けさせるのだった。
二、三、近況の報告や改めての礼を述べると、雫とサキは、立ち上がり店を出ていく。
入り口の引き戸をくぐったところで、きちんと振り向いて深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました、この御恩は忘れません」
「よいよい。これは取引じゃ。ま、またなにか困ったことがあったらいつでも来るがよいぞ」
寝椅子の上から扇を振る夢美に、もう一度目礼した。
入り口の脇まで出てきた悠と律には、手を取ろうと両手を伸ばした。
「二人も、ありがとう。おかげで大事な友人を失わずに済みました」
「おう、おれだったら絶交だけど、まあお前が納得してんならいいだろ!」
「……まあ、こういうのは二人の間のことだからな。俺たちが口を挟むことでもない。せいぜい仲良くやってくれ」
「ええ、いずれまたお礼をしますから」
笑顔で握手を交わす悠と、固辞したはずなのに無理に取られてぶんぶん振られ嫌な顔をする律。
二人をおいて、雫はサキを連れ、手を振りながら店から離れて行った。
その後ろ姿が角を曲がるところまで見送って、悠と律は店の中へと戻る。
「……ふむ、すこうし心配じゃの」
「あの二人のことですか? まあ、多少強引ではありますが、仲直りしたなら後はうまく――」
「いや、それではない」
夢美が、寝椅子に転がったまま、もらった菓子折りを開けていた。
「寝たまま食べようなんて行儀が悪いぞ、夢美さん。おれにもくれ」
「ほれ」
中身の饅頭を放り投げた。
悠の元に届く前に、律の手が饅頭を奪ったが。
「おい!?」
「どういうことですか、夢美さん」
「夢に入り、夢を取り戻す――一般人には……ん、もぐもぐ……ちと珍しい経験じゃ。こういった経験をしたものは、時に……むぐむぐ……夢に魅入られることがある」
「魅入られる、ですか……?」
饅頭を奪い返そうと周りを駆け回る悠から、ひょいひょいと避けながら、律は夢美に近づいていく。
夢美の方は、既に三つ目の饅頭に取り掛かろうとしていた。
「そうじゃの、具体的には……ふぐふぐ……夢を奪われる事件に、遭遇しやすくなるとかかの」
「そういうものですか。
かつての家業を思い出し、拳に力がこもった。
が、どうやら隣にいた悠は、饅頭の方がよほど気になったらしい。律の様子に気付いた風もなく、改めて饅頭を取って食べ始めた。
「ん、なかなかいけんじゃん、これ。……で、雫はなんか対策とかする方がいいのか?」
「時折、様子を見てやればそれでよかろ。あふたーけあの範囲、というやつじゃな」
「なるほど。まあ、それくらいなら」
こくりと頷き、律は茶を淹れなおしに店の奥へと戻った。
そのときは、まさか思いもしなかった。
店を出てたった一時間で、雫が駆け戻ってくるなんて。
ばたばたと騒がしい足音の後、がらりと勢いよく扉が開く。
顔をのぞかせたのは、ついさっきまで店にいた当の少女である。
「あの、助けていただきたいんですがっ! 主に夢に関することでっ!」
「……いくらなんでも早すぎやせんかの」
「あんた、さっき出てったばっかじゃん」
「様子を見るまでもないとはな……」
入口に立つ雫に、枕堂の三人は呆れた視線を向けたのだった。
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