第3話 夢塗りの右手

 気付いた時には、雫はそこにいた。

 見覚えのある奇妙な円と線――戯画のような顔マークで塗りつぶされた場所。

 横を見れば、枕堂で不本意ながら一つの布団に入った悠と律も、並んで立っている。


「ほーん、夢の中ってこんな風なんだ……うわ、ヘッタクソな絵」


 悠が、げぇ、と吐く真似をしながらぼやいた。


「あんたの夢、趣味悪ィな」

「わたしの夢じゃありませんけど」

「ああ、なるほどな。お前の絵と同じくらいにはダサい夢だ」

「おい、誰の絵が悪趣味だって!?」

「悪趣味とは言ってない。ダサいと言ったんだ」

「だから、わたしの夢じゃありませんってば!」


 勝手に喧嘩を始める二人に、雫は無理やり割って入る。


「あのですね、さっきから思ってましたけど、いちいちいがみ合うのやめてください。話が進まないので。そもそも、わたし自身の夢はこの下に塗りつぶされてるんです。趣味悪かろうがダサかろうが、わたしのせいじゃないんですってば」

「え、塗りつぶされてんの? じゃあこれはそいつの趣味が悪ィのか」

「説明しただろう。夢を上塗りすることでことができる。お前は、実際に見るのははじめてだろうが」


 驚いた表情の悠と、訳知り顔の律。

 どうやら二人は仲が良さそう(?)に見えて、持っている知識に差があるらしい――と、さすがに雫も気が付いた。


「えっと、悠さん、でしたよね? 見るのがはじめてってどういう意味ですか?」

「ん? そのまんまだぞ。夢に入るのがはじめてってことだ」


 悪びれもせず答えられて、雫は頭痛をおぼえかけた。

 似たような表情で額を押さえた律が、ため息をついている。


「だから先に教えてやったのに。さっきだって、夢入りするだけのことで手間かけさせやがって」

「なんだよ。誰だって最初は苦労するもんだ。そもそも、あんたちょっと説明不足なんだよな」

「言ってあるさ、枕堂に来た初日に。お前がちゃんと聞いてなかっただけだろ」

「口で言うより手取り足取り教えてくれよ。言っただけで、おぼえられるわけないだろ!」

「ああ? 教わる方の態度がそんなデカいことってあるか!?」

「だーかーら! いちいちいがみ合わないでくださいって言ってるでしょうが!」


 雫の怒声で、二人はとにかくいったん口争いをやめた。

 妙に薄汚れた落書きのような夢の中に、しんと静寂が戻る。まあ、この静かさもいつまで続くかというところではあるのだが。


「で、つまり。そんな偉そうに言いながら、律さんはともかく悠さんの方は、今日が夢の中もはじめての、初心者ってことですね?」

「別にいいじゃん。はじめてだって、天才はいるもんだろ」

「お前……初回からよくそんな無根拠な自信を抱えていられるな」


 律にまで呆れた声で突っ込まれ、悠はさすがに悄然と――は、しなかった。


「だって、夢の中ははじめてでも、絵を描くことについちゃ、いつだっておれが最高だし」

「またそういう大言壮語を」

「たいげ……え? なんだって?」

「馬鹿のクセにデカいこと言いやがってって言ったんだ。実力以上の口を叩くな」

「実力以上かどうかは、これからだろ。見せてやるから、黙って

「……チッ」

「え、貸す?」


 首を傾げる雫の前で、悠と律はしばし無言で睨み合う。

 互いに視線をそらさないまま、肘の上で掻き消えている悠の右手が、律の方へ差し出された。

 律は、その手の先端に自分の右手を近づけると、低い声で囁き始める。


「――掛けまくも畏き 寝目津日神いめつひのかみの」

「えっえっ」

「御前に拝み奉りて 諸諸の禍夢 凶夢 穢有るをば祓い給え清め給えと申す事を 聞し召せと 畏み畏み申す――」

「ちょっと、なんですか、和歌?」


 慌てる雫の方をちらりと見て、悠が屈託なく笑う。


「これがさ、魔法の……なんだっけ、えっと……おまじない? 呪文?」

「馬鹿、祝詞のりとと言え」

「祝詞、ですか? いったいなんの――」


 雫の問いかけに応えるように、悠の存在しない右手が一瞬、眩しい輝きを放つ。

 光が薄れ、ぎゅっと目を閉じていた雫が再び視線を戻したときには、悠はそこだけ妙に色素の薄い手のひらをぐっぐっと握ったり開いたりしているところだった。


「悠さん、あなたの右手――」

「確かにぞ、悠。言うだけの力、見せて貰おうか」


 吐き捨てた律の右手は、まるでさっきまでの悠の手と同じように、肘の上で途切れて搔き消えていた。


「期限は朝まで。それまでにこのクソみたいな落書きの半分以上を塗り返せ。それで、この子の」

「雫です」

「――雫の、夢を取り返すことができる」


 律は、面倒くさい女だな、という表情を隠しもしなかった。

 一瞬、蹴ってやろうかと思ったが、律義に名前を呼び直したことを評価して、雫は大人しく頷き返した。

 それに、一応は雫の話を聞いているらしい律よりも、もっとマズい状況のヤツがそこにいる。


「半分? ふーん、はいはい、わかった了解」

「おい、本当に聞いてんだろうな!? 俺は初日に言ったぞ」

「聞いてる聞いてる。まあ、いいじゃん。聞いてなくても今聞いたって」

「お前なぁ!」

「朝までならなんとでもなるさ、大丈夫。こうして、おれに右手さえ戻ればな!」


 ぐるんと腕を振り回す。

 その右手の中に、いつの間にか、悠の身長ほどもある大きな絵筆が握られていた。


「聞けよ。その右手は俺のだからな。あくまで一時的に貸すだけだってわかってるんだろうな!?」

「えー、返す必要あるか? だっておれは天才だし、そもそもあんたが持ってても仕方ないじゃん。律はを奪われて、獏役ばくえきができないんだろ。だから、おれがかわりをするために雇われたって」

「だから! それは――」

「はいはい、わかってますってば。まあ見てろって。あんたなんかよりはるかにうまく塗ってやるよ!」


 とん、と悠の脚が軽やかに地面を蹴る。

 Tシャツの裾をはためかせて宙を跳ぶと、落書きじみた表情のマークの中央に降り立った。

 右手がうなりをあげて、巨大な絵筆を振り回す。


「おらぁッ! こういうのがッ、あったんだろッ!」

「……それ、は」


 バシャッ、ズシャッと、絵具がしぶきをあげる。

 落書きが塗りつぶされていく。

 巨大な絵筆は一振りごとに色を変え、気付けば見慣れた光景が描き出されていた。

 今になっては懐かしい、夕陽に当たる教室の壁の色がまざまざと浮かび上がる。


「どうだ? こんな感じでいいか?」


 頬を赤い絵具で汚しながら、悠が振り向く。

 褒められるのを待つ子犬のような表情に、雫はぎゅっと両手を握りしめ大きく頷いた。

 確かに雫がおぼえている放課後のひと時。

 あの時、一緒に話をしていたクラスメイトたちまでが、生き生きと。


「はい、そうです! わたしの隣にサキ、その隣にエリと、リカと……」

「ふっふーん、だろだろ? ところどころ塗り残ってるとこ見れば、だいたいこういう感じだなってのはわかるもんさ。ま、おれの絵が最高にうまいのも間違いないんだけど」


 途端に、隣で律が大きく舌打ちを鳴らした。


「……いいから早くしろ」

「はっはーん、りっちゃんったら、おれのウデマエが予想してた以上で、びっくりしてるんだな?」

「うるせぇ、いいから早くしろ!」

「あらぁ、声を荒げて大人げないでちゅよー。いつもいつもおれをバカにしてっから、デキるおれをなかなか認められないか? それとも、自分にはできないことをおれがやってることにジェラシーか?」

「それだから馬鹿だって言ってんだ! いいか、今お前が夢を塗り直してるってことは、夢泥棒にも伝わってるんだぞ、つまり――」

「――雫」


 ふと背後から名前を呼ばれて、雫は思わず振り返った。


「……サキ?」


 雫の真後ろに立っていたのは、まさに今、悠の筆でよみがえったばかりの、セーラー服姿の友人だった。

 たった今描かれたばかりの笑顔が、奇妙に歪んでいる。


「えっと、サキ、はあっちにいたはずで――ん、でもこれは夢だから、当たり前のことなんでしょうか?」

「――近づくな」


 クラスメイトのもとへ歩み寄ろうとした背中を、律の残った左手が引いた。

 くん、と後ろに繋ぎ留められ、雫は不満げに後ろを振り返る。

 律の険しい視線は、雫を通り越してサキの姿へと向けられていた。


「塗り返されたことに気付いて、邪魔しに来たか、

「……え?」


 振り向いた雫の前に立っていたのは、今までに見たことがないような邪悪な笑みを浮かべた友人の姿だった。

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