第2話 奪われた夢、夢の入り口
思い返せば、変な噂はちらほら聞こえていた。
雫の通っていた幼稚園からエスカレーターの私立校では、そういう話は楽しみの一つなのだ。
だから、その噂もそういうものだと思っていた。
現実みのない、自分とは関係ない世界のふわふわした話だと。
雫がはじめてその話を耳にしたのは、放課後の教室、次の土曜日どこに遊びに行こうかと相談していたときだった。
窓の外からは、どこかの運動部の走り込みの声が入り込んでくる。夕陽の中でクラスメイトの一人が、話し出した。
「そう言えば最近ね、夢泥棒っていうのが出るんだって。部活の後輩の友達が、被害にあったって」
他の友人が、とっさに問い返す。
「夢って……将来なにになりたいとか、そういう夢のこと?」
「ううん、違うよぉ。寝てる間に見る方。それを奪うから夢泥棒。奪われると、夢と一緒にその人の何かを奪われちゃうんだって」
「何かってなによ?」
「何かは何かだよ。人によって色々なんだって。名前とか、才能とか、性格とか……?」
「なるほど、夢と一緒に何かを奪っていく夢泥棒。ロマンティックな名前ですが……名前通り、夢のような話ですね」
きっぱりと告げた雫に、話題提供者が白けた様子でわざとらしく口をとがらせて見せる。
「雫ったら、夢がないよぉ。ちょっとしたホラー、日常の怪談ってヤツだよ。だいたい雫は、夢を奪われるの怖くない?」
「怖いですよ? 家族とか友人とか、わたしには奪われると困るものがたくさんありますから。後でトイレに行くの、ついてきてくださいね」
理路整然と述べながら隣の少女の袖を掴む姿に、周りの少女たちが軽やかに笑う声が重なる。
「ほらぁ、最後まで聞きなよ。この手の怪談は、解決法もセットなんだって。撃退の呪文とか、おまじないとか」
「早く教えてください」
「雫、手が震え過ぎだって。サキの制服の袖破れちゃうよ」
「あのね、本当にそんなことが起こったらね、相談するといいんだって。あの通学路のさ、大川の橋の下にね、おっきなストリートアートの宣伝出してるから――」
片手を離さないまま、空いた手でしっかりスマホにメモを取る雫の様子で、もう一度教室には少女たちの笑い声が満ちたのだった。
ここまでは、一週間前に実際あったこと。
そして、一昨晩。雫は、そのことを夢で思い出していた。
夢の中の友人たちは、一週間前とまったく同じ雰囲気で喋り、笑い合っていた。
――突然、雫の目の前に座っていた友人の顔が、真っ黒に塗りつぶされるまで。
「……え?」
まるで、教室の背景と一緒くたの一枚の絵に、上からインクを塗りたくったみたいだ。黒いインクははみ出て垂れ落ちている。
雫は、思わず隣に座っていた友人から手を放した。
その指の先で、友人の身体は全身をこげ茶に塗られ潰されていく。
「や、やだ……」
みるみるうちに、友人たちが、柔らかな日の光が、教室のあれもこれもが薄汚れた緑色に塗り替わっていく。
がたんと椅子を蹴って立ち上がった。
雫の目の前で、放課後の楽しいひと時は、おかしな模様に塗り上げられていった。
円と棒で戯画化された、奇妙に人を苛立たせる笑顔の絵に。
「そんな、なんで――っ」
と、悪夢にうなされて、目が覚めた。
跳ねる心臓と汗まみれの身体を押さえ、雫はベッドの上で起き上がる。
「……今の、なに。ヘタクソな絵……の、夢」
夢、そうただの夢だ。
そう言い聞かせ、なんとか朝の支度を整えて階下に降りた。
だが、ただの夢では終わらなかった。
雫の顔を見て、父母が悲鳴を上げる。
まるで、誰とも知らない他人が、勝手に家に上がり込んでいるかのように。
「何者だ、君は! 他人の家に勝手に入り込んで……今すぐ出て行きなさい!」
母を背中に庇った父が、雫を追いやろうと大声でわめく。震える母にすがりつこうとした雫の手を、払いのける。
「パパ、ママ。どういうことですか……わたしは」
「君にそう呼ばれる筋合いはない! とにかく出て行け、ここはお前がいる場所じゃないぞ」
強い力で腕を引かれ、外へ放りだされた。
混乱した頭で誰かに助けを求めようと登校し、そこで――高校の友人たちは、誰一人として、雫の顔をおぼえていなかった。
「……あんた、誰?」
狂人を見る顔でサキが訊ねた瞬間に、ぽきりと音がして、心が折れた気がした。
■◇■◇■◇■
「さよう。それが、立場を奪われるということじゃ。ぬしという存在が周囲に関連して持つ情報のすべてを、相手に奪われたのじゃ」
よろづ夢事うけたまわります――表書きを眺めつつ、夢美はふうと息を吐きだした。
雫は思わず身を乗り出す。
「それで、どうすればいいんですか! 詳細がわかったらなんとかすることが……」
「ふむ、今の話を聞くに、ぬしはやはり夢の中で夢を奪われておる。立場を奪ったからには、犯人がそれを利用しに来るやも……が、それを確保するには、しばらくぬしの学校やら家庭やらで見張りをせねばならぬ。ちと厄介じゃな」
夢美が眉根をぎゅっと寄せる。
不安げに、雫が訊ねた。
「あの、なにか問題があるんですか? 必要なら、経費も時間もいくらでも――」
「いや、単に
「同感」
「お前は黙ってろ」
身もふたもない夢美の言葉に同調した悠を、律が横からはたいた。
慣れている夢美は二人のやりとりをスルーして話を続ける。
「となれば、夢の中で犯人を押さえ、ついでにぬしの夢を取り返すのが良かろうの」
「夢の中で、ですか?」
「そうじゃ、
「……気が進まない」
二人の会話に対し、はあ、とため息をついたのは、律だった。
「
「お前は気楽でいいな。頭がそんだけ軽ければ、肩こりの苦しみはなさそうだ」
「おう、肩こりとかなったことないな!」
「……皮肉くらい理解しろ」
「二人ともうるさいわ。妾が決めたことになんぞ問題があるか?」
ぱし、と音を立てて夢美が扇を閉じる。
二人が無言で首を左右に振るのを見て、夢美は満足げに店の奥にあるふすまを指した。
「さて、話が決まれば奥の座敷を使うが良い」
無言の律が、がらりとふすまを開ける。
その奥に、布団が一組敷いてあった。
「……布団?」
「お前、隅っこ行け」
「いや、隅っこって言われても。待てよ、まさか一緒に入るってことか?」
「だから嫌だって言ったんだ。そこの――ああ、雫、だったな。お前が中央だ」
「えっそんな、男二人に挟まれる位置なんて、うら若い少女に」
「お前に手を出すつもりはない。夢美さんも見張ってるだろ」
「見張っておるぞ」
ひらひらと手を振っている。
それでも躊躇した雫に向け、律はいらいらと舌打ちした。
「いい加減にしろ。俺をこいつの横に寝かせるつもりか?」
「えっと――きゃあっ!?」
言葉に詰まっているうちに、雫の身体を律が持ち上げる。
慌てて足をばたつかせていると、布団の上にぽいと放られた。
「ひゃあ!」
「悪いが、黙って付き合ってくれ」
律が横に寝ころび、ふわりとその上から羽根布団を掛ける。
互いの長い髪が絡み合って、雫の頬の脇にさらりと流れた。
「近すぎません?」
「同じ布団じゃないとダメなんだ。お前の夢に入るためには、お前と同じ布団に入る必要がある」
「……それってよぉ、もしかして」
絶望的な表情で、悠が二人を見る。
律はその顔を睨み返し、雫の反対側を顎で指した。
「お前の場所は、その端っこだって言ってるだろ」
「も、もうちょっとそっち詰めろ。さすがに布団からはみ出てるじゃんかよ」
「こっちだってぎちぎちなんだ」
「じゃあ今すぐ痩せろ、律」
「俺の身体にこれ以上なくすとこないんだよ。痩せるのはお前の方だ」
雫の身体を挟んで蹴り合いながら、つまらない喧嘩を繰り返している。
夢美の、はぁ、という妙に色気を感じるため息が聞こえた。
店先に飾ってある風鈴が、ちりーん、と音を立てる。
途端、悠と律は脱力したように布団に身を預け、大人しくなった。
「……あれ? あの、夢美さん」
「この店の風鈴はすこぅし特別製での。内心を通して夢に働きかけ、引き出したい感情に強く響かせる――うまく利用すれば、これこのように、感情の昂りを抑えることも可能じゃ」
「な、なるほど……」
ちょっとした麻酔じみた効力に聞こえる。
たじたじとなった雫の横で、律がため息をついた。
「ただし、増幅できるのは、本人の持つ感情だけだ。だから、例えば……悠を賢くするなんてことは不可能だぞ。こいつには知性の泉がそもそもないからな」
「誰がバカだよ!」
「馬鹿とは言ってない。知的でない、と言ったんだ」
「そっか。じゃあいっか――いや、よくないだろ!?」
夢美が、ぱこん、ぱこんと二人の頭を扇で叩く。
「えぇ加減にせぃ。いいか、すこうし手狭じゃが、ま、眠るまでの我慢じゃ」
雫に向かって笑いかけ、それから再び二人に向き直った。
「これ以上だらだらしておるつもりなら、力づくで眠らせるぞ」
「やだよ、それなんか痛そうなやつじゃん」
「遠慮こうむります」
「――であれば、わかっておるの」
両者の否定を承諾ととって、夢美は艶やかに笑ったのだった。
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