枕堂夢話蒐集譚 ~よろづ夢事うけたまわります~
狼子 由
第1話 ようこそ、枕堂へ
カシュッ、と気の抜けた音がした。
ボタンを押しても手ごたえはスカスカして、どうにも乾いたガスしか出てこない。
「おーい、マジかよ。ここでインク切れかぁ?」
真っ赤なインクで汚れた先端からは、なにも出てこない。
諦めて顔を上げた。
スプレーアートは、まだ半分も出来上がっていない。
コンクリートの壁面には、巨大な青年の横顔。
だが、肝心の目から上はかすれて消えたままだ。
「今日こそヤツの顔を世間に晒してやれると思ったのに、運のいい野郎だ……」
肩を持ち上げ、半そでのパーカーで垂れ落ちてきた額の汗をぬぐう。
その背中に、冷ややかな声が飛んできた。
「運のいいのはどっちだ。未完で、しかもヘタクソだけにはっきり誰ともわからない。本人に見つかったら、今度は殺されるぞ」
振り向いた先には、さらりと長い黒髪をポニーテールに結わえた人物が、大き目の石の上に軽く腰掛けている。
日陰とは言え真夏の夕陽を背にして、一滴の汗もかいていない涼しげな無表情。能面のように整った顔立ちは、少年とも少女とも判別がつかない。
唯一瑕疵を言うなら、右目を黒い眼帯で覆っている点だろうか。それですら、綺麗すぎる顔には、ゴシックなアクセサリーのようにも見えて似合ってしまう。
高架下に立つ二人の間を、電車が通り過ぎる。
眼帯の少年――
「わざとなんだが!?」
「ヘタクソなのがか」
「こいつの顔を描いてるのがだよ!」
騒音が消えれば、後に残るのはさらさらと流れる川の水音だけだ。
初対面で面と向かって律に男女を確認して以降、氷点下の態度を取られつつ、これっぽっちも空気を読まない悠は、腕組みで仁王立ちした。
「律はほんとバカだな、見つかるようにしてんだってば。おれはこいつの顔しかわかんねんだぞ? だから、これは指名手配であり宣戦布告なんだ。こいつさえ倒せばおれは、また元のように絵が描けるんだし」
組み合わされた腕のその片方――右手のあるべき場所には、なにもない。
腕の途中で途切れ、絵具で塗りつぶしかき消したようになくなっている。
その腕を見、そして得意げな悠の顔に視線を戻してから、律は大きくため息をついた。
「いずれにせよ、今日はもうよせ。夏とは言え日も暮れてきたし、ヘタクソな絵を見るのも飽きたしな」
「飽きたなら一人でさっさと帰ればいいじゃん」
「馬鹿。俺がいなきゃ迷って帰ってこれないくせに。いつになったら道順をおぼえるんだ」
「おれのためにわざわざ待っててくれてんの? 律っちゃん、やさしー」
上目遣いで片手を口元に当てたわざとらしい態度。
律は腰を上げ、ぱんぱんと細身のジーンズの尻をはたいた。既に帰り支度をはじめている。
「昨日の今日だろ。夕飯時に、半泣きで俺を呼び出したのは」
「う゛ッ……そ、それは……」
悠は、昨日の夕方も、なんならその前も、一度別れた後にわざわざここまで迎えに来てもらっていた。
なにせ、帰り道が難しいのだ――二人が下宿している
夢とうつつの狭間にあるからじゃ、と説明したのは店主の
普通に生きている自覚しかない悠からすれば、「なにが狭間だ、単にわかりにくい場所なだけだろ」なのだが。
「なんかよう、道順おぼえきれなくてさ。曲がり角あんなにくねくね曲がる必要あんのか? もっとまっすぐ、ずどーんといって突き当りをドーンでよくね?」
「壁を突き抜けるな」
「それか、もうこの河原に作ればいいんだよ、あの店」
「店の立地を勝手に変えるな」
言いながら、律は早々に踵を返した。
これ以上は、付き合わないと態度で示され、慌てて悠は足元に転がったスプレー缶をまとめて拾う。
「あ、待てよ。おれも……おっと」
かららん、とそのうちの一つが地面を転がった。つま先に当たり、からんころんと足元から遠ざかっていく。
追おうとして、悠の靴底が石を踏んだ。右手のない身体はバランス悪く、律の背中にぶつかりかける。
気配に気づいていた律は、後ろも見ぬまま、すい、と真横に身を引いた。
おかげで、支えるものを失った悠は、その場で派手にすっころんだ。
「そこで避けるな! 受け止めてくれたっていいだろ」
「お前のミスに俺を巻き込もうとするんじゃ……うわ」
「……きゃっ」
悠ばかりでなく、うまく避けたはずの律まで悲鳴を上げたのは、すぐ横にいた見知らぬ少女に肩をぶつけてしまったからだ。
謝るより先に、律は眼帯で覆われた右目に手を伸ばした。それが彼の戦闘態勢だと知っている悠は、慌てて立ち上がった。
「――誰だ。そこでなにをしている」
向けた視線の冷たさが、そのまま声に現れている。
悠からも、律の背中越しにベレー帽の頭が見えていた。
「公共の場所でそんなに緊張されても困ります。もちろん、あなたたちに用があって来たにしても」
「俺に用があるなんて言う人間に、まともなヤツはいない。いるとしたら、枕堂の客か、あるいは敵か」
「どっちでもない可能性として、おれだっているじゃん」
「お前は後者」
「敵じゃねえだろ!」
売り言葉に買い言葉で睨み合う二人を、ベレー帽の少女が呆れた顔で見つめる。
「あなたたち、本当に枕堂のひとなの? 夢のことならなんでも頼めるって聞いたけど」
ふわふわの長い髪に囲まれた丸い瞳が、悠と律をじっと見ている。
きゃんきゃん吠える悠をいなしつつ、一瞥で、律は彼女の立場を見て取った。
どこか不安げな表情を浮かべながらも、値踏みするようにこちらを睨む。
仕立てのいい高級そうなワンピースを着ているのに、それに見合わない薄汚れた様子だ。
そのちぐはくな様子で、律は状況を理解した。
右目に当てていた手を下ろし、構えを解く。
「どうやら前者のようだな」
「……前者?」
「客だってさっき言っただろ。お前の頭は鶏か?」
口喧嘩をはさみ、話をすっかり忘れている悠を、律は脇に押しのけて黙らせた。
そんな二人の様子に、諦めたように少女が自分を指す。
「わたしは雫です。
「……枕堂では、夢に関わるどんなこともできる。吉夢を願うも、悪夢を消すも、凶夢を送るも、瑞夢を奪うも、請け負える。それで、お前はなにを望む?」
彼女は大きく息を吸い、きっと目を見開いた。
「わたし、自分の夢を取り返したいんです。お金なら、いくらでも出せます」
「やはり客だな。それも資金を持っていて使う覚悟ができている――であれば、案内しよう。枕堂はなんでもできるが、たった一つ、報酬だけはまけてやることができないから」
「夢美さん、怖いもんな……」
必死の声色に、律はゆっくりと目を細める。
報酬を値切る客に向ける店主の顔を思い出し、悠は左手で所在なく頭を掻いたのだった。
■◇■◇■◇■
枕堂は、和の雰囲気漂う店だ。
入口は、格子の引き戸で、普段から半ば開け放たれている。道の奥まった辺りにあるため、客以外に前を通る者がいないからだ。
時代劇の反物屋のように、入ってすぐが座敷になっている。
その中央にしつらえた寝椅子に店主の少女――枕坂夢美が横たわり、客である雫は対面するように座布団に腰を下ろしていた。
のんびりと待つ女性二人に対し、悠と律は、と言えば。
「茶箪笥の右から三番目だ。早くおぼえろよ」
「わ、悪かったな……入って一か月のバイトに多くを求めるんじゃねぇ」
「興味ないってだけの話を一般的な理由に置き換えるな」
「うるさい。どうでもよいから、はよせい」
「す、すみません!」
店主にどやされつつ、悠は存在する左手一本で、茶箪笥の引き出しを開け閉めする。雫に書かせる依頼票を探しているのだ。
律の方はと言えば、奥で客用の茶をいれているため手が塞がっている。
本来なら手の空いた人間が悠を手伝ってやればよいのだろうが、残りの一人――店主である少女は、うっとりと瞼を閉じて寝椅子に寄りかかっているだけだ。
帯もまともに結ばず、しどけなく和服の胸元をはだけさせていても、幼い少女だから問題ない――とは、あまり言えない。
実際、自分よりもはるかに年下で、しかも同性の少女からの、妖艶な色香にあてられてか、雫は時折頭を振っている。
店内には、店先で竹筒を流れた水が手水鉢に落ちるちろちろという音が響き、たきしめられた香の匂いが漂っていた。
深紅の紅葉がちりばめられた和服の少女だけが、恐ろしくこの店に似合っている。
鷹揚に待つ彼女の前に、悠と律がそれぞれ望みのものを差し出した。ようやくすべてが揃ったところで、パシン、と音を立てて少女が扇を閉じる。
「よくぞいらした、客人よ。夢のことならなんでも承ろう。なに遠慮はいらぬ、申してみよ。お代は少々張るが、それだって取り戻すべき商品に比べればさしたることもなかろう」
「……どういうこと、ですか」
「どういうことかは、ぬしがいちばんようわかっておるはずじゃ。夢を奪われたぬし本人がの」
ころころと笑った夢美の声が響くと、雫の膝の上の拳が、汚れたワンピースの裾を掴んだ。夢美のほかに気付いたのは、律の方だけだったが。
「夢を奪われた、と言うたの。もうわかっておるじゃろうが、夢は本来ぬしの一部。それを奪われたからには――ぬしに属するなにかが失われたはずじゃ」
「じゃあ……わたし、は。わたしが奪われたのは……?」
恐る恐る、雫は眼前の少女を見上げた。
すん、と微かに夢美が鼻を鳴らす。
「どうやらぬしは、立場を奪われたようじゃな。ぬしがぬしであるという認識。ぬしとして知覚される存在の情報」
「それで、誰もわたしのこと……」
ここまで矜持を支えていた眼差しが、揺らいだ。
アダムの逡巡に取り入る蛇のように、夢美は甘やかな声で囁きかける。
「うら若き娘が親の庇護も知人のすべても失って、さぞやお困りじゃろう。金額に糸目はつけぬと言うたな? 枕堂ならば、ほれ……問題解決のみならず、今後の再発防止もおぷしょんに乗せて、請け負うぞ?」
細い指でぱちぱちと軽やかに弾かれ、見せられたのはソロバン。
触れた記憶もほとんどなく、読み方も知らない雫の脇から、静かに電卓が差し出される。
思わず見やる先で、電卓を持っている律がぼそりと呟く。
「風呂と着替え、その洋服の洗濯がサービスでつく」
「――払います」
答えを聞いて、夢美が紅い唇をにまりと歪めた。
「よろしい、契約成立じゃ。ここは枕堂、夢のことならなんでもござれ。ただし、お代が払えるなら――さて、心当たりについて、詳しく話して貰おうかの」
夢美に促され、雫は、ぽつりぽつりと話し始めたのだった。
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