第39話 二度目の温度
ナクラーは一歩、また一歩と彼らとの距離を詰める。思考がまとまらずに次第に呼吸を荒くする彼に、クリスが声を掛ける。
「…ジン、こっちを向きなさい」
『これが私の全てよ』と囁き、彼女はジンの胸ぐらに手を掛け、半ば強引に二人の唇を重ねた。
予想外の出来事に、ジンは息を漏らしながら顔を離そうとする。しかし、クリスの手が彼の頭を押さえる。
(こんなことで二回目をすることになるだなんてね…)
抵抗しようとするジンだが、温かい何かが自分の体内に深く伝わって来るのを感じた。
「ジン、後は任せたわよ…」
「ああ、安心して見ていてくれ」
ゆっくりと立ち上がり、彼はナクラーと対峙する。
(…胸の辺りが温かい。やっぱりクリスの魔力はすごく、落ち着く気がするな)
『シャアァァァァァッ‼︎』
ナクラーの瞳は完全にジンを捉えており、彼に対して異常なほどの殺意を向け、走り出した。
ジンは右の手をナクラーに向け、深く息を吸い込み、術名を唱える。
「……アイスニードル」
足元に展開された複雑な魔法陣から発生した氷塊が、一瞬にしてナクラーの全身を包み込んだ。ジンを近くで見守っていたクリスの吐息が白く染められる。
その氷塊に一筋の亀裂が入り、次第に全体へと広がって細かく砕け散った。
陽の光を反射し、白く輝きながら舞い降りる結晶の美しさに、クリスは目を奪われる。
そんな彼女の隣に腰を下ろし、ジンは治療を始める。
彼の剣から放たれる黒いオーラも、次第に消えてゆく。
「クリスのお陰で勝つことが出来たよ。…だから、その…あ、ありがとう」
「どういたしまして。お礼は小説の感想で良いわよ」
「そうだな、また貸してもらうとするよ。何かオススメはあるか?」
「…『あの星空を見たくて』なんてどうかしら?分厚いのが十巻程度続くのだけれども…私は是非あなたに読んでもらいたいわ」
「クリスがそう言うなら…頑張ってみようか」
「ええ、お茶ならいっぱい出すわよ」
「またクリスの部屋で読むのか?」
「食後の読書時間…素敵でしょう?」
「確かに悪くないかもしれないな。早速楽しみになってきたよ」
ジンの治癒魔法が心地良く、クリスは瞳を閉じながら、彼との会話を楽しんでいた。
普段以上に頬が緩まるのは何故だろうか。彼女は胸に抱く感情に、そっと身を委ねた。
「ねぇ、ジン。私ね、私はね、あなたのことを———」
クリスの言葉を遮るかのように、二人の近くに何かが墜落した。
数メートルほど地面が抉られ、その先には、傷だらけの上半身を露わにした学園長が倒れていた。
「…やれやれ、やはり老いには勝てんのかのぉ…ごほっ、ごほっ」
咳をするとともに吐き出された血が、大地に落ちる。
「…ジ、ジン…あれってこの前の…!」
クリスは、自分の向けた指の先に立つジャイアントオーガに恐怖する。
それは彼らが以前に魔窟で遭遇したモノとは違い、身体全体を覆うようにして何やら奇妙な黒い紋様が入っていた。
『ミツケタゾ、コゾウ‼︎』
ジンも恐怖に身体を震わせるが、そんな姿を彼女には見せまい、と強がってみせる。
「クリス、すまないが学園長を連れて、ここから離れてくれ。あいつは俺に用があるらしい」
「私がここに居ても足手まといよね…今はあなたの言う通りにするわ。絶対に、負けないでね」
「俺にはまだやりたいことがある。負けられるわけがないだろ」
クリスは学園長に肩を貸し、その場を後にする。あまりの重さに崩れ落ちそうになるが、なんとか耐えながら必死に歩みを進める。
ジンを信用し、戦闘を任せるという判断を下した彼女に、学園長が言う。
「……彼を愛しているのじゃな」
「ジンは私の全てを変えてくれました。その恩返しがしたいだけですよ」
「恩返し、か…。そういえば、ワシもきみの父親には返しきれないほどの恩があったよ」
「父を知っているんですか⁉︎」
「知っているも何も、彼は私の冒険者時代の仲間じゃよ。実は、きみにも幼い頃に会っているんじゃがな。きみの父親一人に全てを背負わせてしまって、申し訳ない」
「…いえ、父は昔からそういう人でしたから。気にしないでください」
「気を遣わせてしまってすまないな、ありがとう」
クリスは自分の父に何があったのか。厄災の日の真実を学園長は知っているのか。問いたいことが山ほど頭に浮かぶが、今は心の奥にそっと閉まっておくことにした。
二人が校舎内に入る頃には、中にいた全ての魔物は片付けられていたようだ。
壁や床に残る血痕が、その場で何があったのかを
学園長の治療を優先するべきだろうが、彼女は無意識のうちに医療室を避け、リリーのもとへ向かっていた。
その道中、彼は立ち止まって口を開けた。
「ここまでで構わん。ワシももうほとんど回復したわい。ほれ、早く想い人の所へ行ってやるんじゃ」
「ですが…!」
「気にするな。一人で歩いたほうがワシも楽じゃしなぁ。ほれ、この通り」
クリスの肩から腕を退かし、一人で階段を上り始める。
彼の言葉に躊躇いながらも、クリスは素直に受け止めることにした。
「ありがとうございます。私…彼の所に行ってきます。学園長もお気をつけて」
「なぁに、ワシは心配されるほどのことじゃないわ」
クリスの姿が見えなくなり足音が消えた頃、彼は壁にもたれ、ゆっくりと腰を下ろした。
「ふぅ…ワシも年老いたもんじゃのぉ…」
(少年よ、その絆は決して手放すではないぞ)
クリスは急いで階段を駆け下りる。
(ジン、待ってて…!すぐに行くから…!)
すれ違う生徒たちは皆ぐったりとしているが、彼女だけは違っていた。
「ねぇシューヤ、あの子なんであんなに走ってんの?」
「さぁな。俺には関係ねぇよ」
そんな声も彼女の耳には届かぬほどに、頭の中はジンのことでいっぱいだった。
無造作に揺れる髪を気にかけることなく、外へ向かう。
(今度こそは絶対に遅れないから…!)
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