第17話 涙の理由

 二十一時を過ぎ、ジンは約束通りにクリスの部屋へと向かった。また風呂から出たばかりの自分と遭遇されては困る、とクリスのほうから提案したことだった。

 食堂から戻り、風呂に入った後暇を持て余していた彼だったが、先日借りた本を読んでいるとあっという間に時間が過ぎてしまっていたのだ。


「いらっしゃい、こんな時間に呼び出してしまって申し訳ないわね」

「気にしないでくれ。俺もいろいろしていたらこの時間になっていたし、それにまだ寝る時間ではないからな」

「そう、それなら良いのだけれど」


 クリスはジンの制服を受け取り、早速ボタンを縫い始めた。

(こういうときは眼鏡をかけるのか)


「クリスも裁縫できるんだな…」

「これくらいは簡単よ。幼い頃からよくしていたもの。ここも破れてしまっているわね、ついでに直しておくわ」

「何から何まですまないな」

「良いわよ。多分今日の実技のときでしょう。わざとではないとは言え、原因は私にあるのよ。これくらいさせてちょうだい」

「あぁ、お願いするよ。……そういえば、クリスはこれを見てどう思った?」

「これってなんのことかしら?今は目が離せないのだけれど、口で説明して欲しいわ」

「俺のペンダントだよ。魔法階級が2で、こんな物を使っているだなんて、幻滅したか?」

「はぁ…、呆れたわね。あなたの実力が凄いことは既に知っているわよ。そんなことくらいで幻滅するわけ無いじゃない。それに——」

「それに、なんだ?」

「いいえ、なんでもないわよ。気にしないで」


 クリスの頭に、ひとりの男の姿が浮かんだが、それ以上考えることはしなかった。

 ジンも深く追求するようなことはせず、次の話題を探した。異性と二人きり、それも出会って間もない者と無言で時を共有するというのは、彼にはとても気まずく感じられたのだろう。

 本棚を眺めながら、ここはこの前借りた『黄昏のラブコール』の話をするべきだろうか、と考えるが、ひとつの疑問が彼の頭に浮かんだ。


「ここには歴史や神話の本が多いようだが、そういうのが好きなのか?」

「好きではないわよ。ただの知識として頭に入れておきたかっただけ。過去を知ることが、大きく未来を変えるとは思えないけれど、できることはやっておきたいのよ」

「いったいなんの為にそこまでするんだ…?」

「奇跡を待ち、望むだけなら愚か者でもできる。私の父がよくこう言っていたわ。だから私は少しでも行動していたいのよ。…なんの為かは分からないけれどもね」


 最後のボタンを付け終えた彼女は、制服を畳んでジンに手渡した。丁寧にアイロンまでかけられており、シワひとつ残されていない状態だ。そのあまりの出来栄えに彼は感嘆した。


「——なんだか、新品みたいだな」

「大袈裟よ。また何かあったらいつでも言いなさい。…決して、サラさんに頼んではいけないわよ」

「分かってるよ。他のバディに迷惑を掛けるつもりはないさ。何かお礼をしたいんだが…」

「そうね…それなら、『たそラブ』の感想を聞かせなさい。あの本は私の中でも上位に来るほど気に入っているのよ」

「タソラブ…ってなんなんだ?」

「『黄昏のラブコール』よ。ギルティ・プリティ先生の、初めて書かれた恋愛モノの小説…もしかしてまだ読み終わっていないとでも言うの⁉︎」


 突然顔を近づけてきた彼女の勢いに押され、ジンは言葉を発することもできず、黙って頷いた。その視線は、彼女の唇から胸元へと移り、最後はそれらを誤魔化すように壁のほうへと向き、ゴクリと喉を鳴らした。


「仕方ないわね…それならこの本を今から読みなさい。これならすぐに読めるはずよ」

「それで気が済むのなら…」


 クリスに渡された本を手に取り、表紙を開ける。タイトルは『赤く染まったメリーゴーランド』というものだった。

 それは輪廻転生をテーマとした物語で、赤い糸に結ばれた二人の魂は姿形を変えてもなお、再び出会い結ばれるという内容であった。

 所謂いわゆる恋愛小説であるが、そのストーリーの深さに彼は惹き込まれ、彼女に出された茶に一切手を伸ばすこともなく、次々とページをめくった。

 まるで未知の世界に目を輝かせる幼い子どものような彼の姿を見て、クリスは静かに微笑んだ。

(誰かとこうして過ごすときが来るなんて、考えもしなかったわ。案外悪くはないものね。私も何か読もうかしら…)

 部屋に響くのは、秒針の動く音と、軽快に紙を捲る音のみとなった。恐れていたはずの無言も、今では心地良いと二人は感じられるようになっていた。

 しばらくして、全てを読み終えたジンが口を開ける。


「——これは、なかなかの名作だな」

「ええ、私が一番好きな作品よ。愛し合う魂が形を変えても惹かれ合う。——例えそれが悲劇でも、二人は幸せだったんじゃないかしら…。ねぇ、ジンあなたは来世を信じる人かしら?」

「……俺は信じないな。魂はその身体の中で眠りにつく。だからこそ、人は”死”を悲しむものなのだと思うんだ」


 まるで自分が過去に同じ経験をしたかのように、彼は深く語った。その拳は膝の上で強く握られるが、テーブルで死角となっており、クリスがそれに気付くことはなかった。


「そうね、亡くなった人たちの魂はもう二度とこの世には還って来ないのかもしれないわね。だからこそ、私たちの胸の中に記憶として生き続けるのよね。…いつか、忘れてしまうときが来るとしても」

「俺は覚えているよ。この世界が忘れ去ろうとしていても、俺だけは、ずっと…」


 自分の兄、エルノードのことを思い浮かべ、彼はそう呟いた。

 ジンを庇い命を落とした彼の最期、血を洗い流す雨の痛さ、そして、頬に触れた冷たくなった手の平の感触を。その景色は、五年以上経った今でも鮮明に、ジンの胸の中に残っている。思い出す度に溢れ出す後悔や絶望も、形を変えずに留まっている。

 罪悪感と寂しさで押し潰されそうになった彼は、震える手でペンダントを握りしめた。

 そうやって苦しそうにするジンを、無意識のうちにクリスは力強く抱きしめていた。

 彼が小刻みに震えるのが、腕を通して彼女に伝わってくる。


「…あなたの過去を私は知らないけれど、辛いのなら我慢する必要は無いわ。お兄さんの代わりにはなれないけれども、これからは私が居るのだから…」


 ジンは何度も嗚咽を繰り返した。必死に抑えようとするが、それでも時折声を溢してしまう。涙がクリスの肩を濡らすが、彼女はそれを一切咎めることなく、ただひたすらと彼を抱きしめたままでいた。何も言わず、彼が泣き止むまでこうしていようと考えていた。

 クリスはジンの過去を知らない。だからこそ、こうやって触れ合うことで彼を支えようとしていたのだ。自分を孤独から救い出した彼の為に。それが唯一、彼女に与えられた選択だった。

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