第10話 元先輩と恋の話
理解を拒んだのは、私の意思では無かった、と思う。多分本能が、それを紐解くことの無意味さを既に知っていて、磨りガラスの向こう側の景色の様に、輪郭をぼやけさせてしまっていた。
本当はそれの正体を知っているのに、知らぬふりをするのは、恐れというよりも小狡さがそうさせている様な気がしていて、素直な部分を愚直だと言い直すような、そういう大人らしい部分が私にもあるのだと少し驚いた。
朝が忍び寄る。降って沸いたような陽の光に目を開くと、菫さんの寝顔が飛び込んできた。
ドラマや小説のように、意識して昨夜のことを思い出さずとも、自然と何が起きたのか寝起きの頭でも理解していた。
もう立派な大人なのだから、酒の勢いの所為にはしたくないし、する必要もないと思っていた。
全て真正面から受け止めたのだ。だから、後悔をするどころか、菫さんとそういう関係に慣れて嬉しいという気持ちもあった。
目は冴えているが、布団から出る気は無かった。
浅い呼吸に合わせて肩が僅かに上下している。姿形でも無く、心でも無い。彼女を不思議と愛おしく思うのは、感情の所作なのだろうか。
揺れ幅の少ない私の感情は、一定のリズムを刻みながらも、菫さんにゆっくりと惹かれて行っていたのだろうか。
衝撃的でも突発的でも無い、じんわりと浮かび上がった私の彼女への好意は、すんなりと心の中に住み着いて馴染んでいた。
「……栞?」
そんな菫さんの頬に手を伸ばすと、ひんやりとした外気に触れて冷えた指先が、彼女の睡眠を妨害したらしく、ゆっくりと目を開けた。
「おはようございます、菫さん」
「……うん、おはよう」
一緒に住んでいるが、床を同じくするのは初めてなので、当然目を覚ましてすぐの菫さんを見たことはないが、どうやら寝起きは良い方らしい。普通なら数分は布団の中で過ごしていたくなる様な寒さの中でも、すぐに上体を起こして大きな伸びをした。
「……寒いね、今日は」
寝起きが良いというのは、やはり昨晩のことを憶えているということで、菫さんは少しぎこちない言葉を呟く。
「でも、布団の中はあったかいですよ?」
上体を起こした菫さんの臍の辺りを抱える様に腕を回す。お互いの素肌が触れ合って、その温い感覚を伝え合う。
それと同時に、私に促される様に再度布団の上に横になると、菫さんは少し身体を動かして私を抱きしめる様な形になる。
「ね、良かったの?」
「えーっと、それはどっちの意味ですか?」
菫さんの確認する様な言葉に、私は少し悪戯心が働く。困った様な表情をしているのだろうか、私は今抱きしめられた状態で菫さんの胸元に顔を埋めているので、顔を見られないのが残念だ。
「そりゃ、どっちも。私とこういう関係になるのも、内定を蹴るのも、さ」
私にとっては、どちらも同じ結末にしかならないけれど、菫さんにとっては違うのかもしれない。
それでも、私の方が先に好きになったのだ。そういう、意味のない自尊心があった。彼女からしてみれば、もしかしたらそんな可能性を少しも考えていないのかもしれないけれど。
それを知らしめてやりたいとも、もう少し内緒にしてみたいとも思った。
「私は、菫さんの傍にいられることが、一番大切ですから」
言いながらグリグリと顔を押し付けてみる。やっぱり顔をは見えないけど、何となく彼女は控えめに笑っている様な、そんな気がした。
◇
大人は恋をしてはいけない、という訳ではないけど。
でも何となく、それを恋だと思うのは少し気恥ずかしいような気がした。
だから、私は卑怯なまでにそれを恋とは認めなかった。本当は、恋だと知っていたけど、好きという感情に、年齢を重ねてしまった私は不釣り合いな気がしていたのだ。
「……ね、就職活動は続けるの?」
取り敢えず寒さと闘いながら布団を抜け出して、二人して温かいシャワーを浴びてから朝食を終えると、食後のコーヒーを作りながらそんな話題を菫さんは切り出した。
「ええ、その予定ですけど」
「これ、見てくれる?」
菫さんはスマホをテーブルに置く。スクリーンショットか何かの画像が表示されていて、それは何かの資料の様なものだった。
間取りの様な図面と、その建物の外観の様な写真。
いくら二人で住むといえど、少し広過ぎる気がする。何より一軒家だし、家賃もバカにならないだろう。住所も数駅隣の駅近くだ。
「引越し先でも探してるんですか?」
「そうじゃなくてさ。喫茶店、やろうかなって考えてるの」
「へぇ、菫さんの珈琲美味しいですし、良いと思いますよ」
「学生の時に喫茶店でバイトしててね、いつか自分の店を持つのが夢だったんだ。仕事だって開業資金を貯めるためにしていた筈なのに、いつの間にか忘れてた。というよりも、叶いっこ無い夢だって、思い込もうとしていたのかも。飲食店は厳しいとか、個人経営は税金とか保険とか大変だとかさ、ネガティヴな情報ばかり集めて諦めようとしていた」
菫さんは慣れた手つきでコーヒーをカップに注いでいく。湯気を立てて、心安らぐ香りを振り撒きながらその珈琲は私の前に運ばれてきた。
「でも、レテと栞が思い出させてくれたんだよ」
忘れ水、なんて名前のくせにね。
菫さんは言いながら笑った。レテが珈琲の匂いに釣られてテーブルに一足飛びで飛び乗ると、直ぐに菫さんの指先にじゃれついた。
最近、レテは珈琲の匂いに慣れたのか、その匂いを嗅ぎ取ると菫さんの方に甘えにくる。
菫さんは苦笑しながら突然やってきたレテを撫でる。
「ね、栞。もし、良かったらなんだけどさ。私と一緒に、喫茶店やらない?」
「えっ!?私が、ですか?」
そもそも珈琲なんて詳しくない。そんな私が、喫茶店なんて出来るとは思えない。
「そう、栞は料理の腕は確かだし、デザートとか軽食を任せたいなって」
「…——」
私に夢はないと思っていた。だから、夢があるのだと語った菫さんが羨ましく思えたし、そんないつかは叶えたいということが何もない私が酷く惨めにも思えた。
だけど、どうやら私の菫さんに対する好意というのは、恋だと認めなくてはならないらしい。
というのも、私は彼女の夢を叶えてやりたいと思ってしまったのだから。菫さんを支えたい、そんないじらしい少女のような願いを、それが私の夢だと言い切れる程に青臭い理想が私の中にあるのだから。
逃げた先には何もないと思っていた。私の逃避が終われば、その先には希望も何もない、ただ続くだけの何でもない日常が広がっているのだと思っていた。
だというのに、私の逃避行の終着点には、新しい夢が待っていて。かつて地元で私を押し潰そうとしてきた、無責任な期待とは別の種類の期待を、その菫さんの眼差しを、私は真正面から受け止めたいと思っていた。
「ね、菫さん。知らなかったですよね?私、本当は少し前から菫さんのことを好きだったって」
「えと、そうなの?全然気が付かなかった……」
「菫さんって、結構鈍いですよね。だから、自分から言いますね。私って、好きな人には尽くすタイプなんです。そういう、重い女なんですよ」
だから、と私は紡ぐ。
菫さんは何かを言おうと口を開きかけたけど、それを遮るように言葉を続ける。
「だから、恋人になったからには、一緒の職場がいいって思うのは当然ですよ?」
大人に恋なんで言葉は似合わないと思っていた。だけど、不思議だな。菫さんとの関係は、恋人と呼んでみたいと思っていた。
子供っぽい恋を、もう一度してみたいと、思ってしまった。
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