第9話 元後輩と忘れ水の話


「——それで、私、その。内定頂いた会社が、隣県にありまして」

 一瞬、申し訳ないような表情を浮かべている理由が分からなかった。

 栞が内定を貰ったと告げた時は、間違いなく私は喜んでいた。それは、純粋にそう思ったからだ。

 だが、栞がその後に続けた言葉がやけに耳の奥に残っていた。

「それで、あの、短い間でしたが、菫さん。一緒に住めて、楽しかったです」

 見当違いな罪悪感を感じているな、彼女の表情に含まれた意味に対して苦笑しながらも、そんなことを思う自分がいて。

 同時に、その言葉を聞いて落ち着かない自分もどこかにいた。

「うん。私も栞と住めて良かったよ。誘った私が言うことじゃないけどさ、なんていうのかな、想像よりもずっと誰かと一緒に住むって楽しいことなんだなって思ったよ」

 それは本心だった。

 その筈だった。

 だというのに、まだ言うべきことがあるかのように、喉の奥で私の預かり知らぬ言葉が息を潜めているかのようだ。

 少しだけ暗い表情をしている栞を慰めるように、私は無理矢理明るい声を出す。

 半ば、勢いのまま言葉を紡いでいた。

「それじゃあ、内定祝いと送別会やらなきゃね。そうだ、今日の夜はどこか居酒屋でも行こうか?」

「いえ、そこまでしてもらわなくていいですよ」

「でも、可愛い後輩の新しい門出だしね。元先輩らしく何かしてあげたいな」

 と自分で言いながら、元先輩という単語に引っ掛かりを覚えた。

 そうだった、私は彼女の元先輩なのだ。そして今度は、元同居人になるのだろうか。

 彼女との関係を示す表現に、過去を表す言葉が付随するのが嫌だったのかもしれない。

 だから、元先輩になってしまった私は、彼女を家に誘ったのだろうか。

 私は栞の、今の人になりたかった。過去の人になるのが、栞にとっての昔の思い出になるのが怖かった。

 解けていくように、霧が晴れるように。

 それでも尚、その理由をもたらす感情の正体は分からないまま。

 レテが餌皿をひっくり返したのか台所の方から控えめな物音が聞こえる。

 多分、それすらも、レテが思い出させてくれたのだろうな。


「じゃあ、家で焼肉でもしますか?ホットプレート、丁度ありますし」


 ◇


 ビールの空き缶が数本転がっている。

 お互い焼肉にはビールが合うというのは共通認識で、二人で買い物に出た時も、肉より先に缶ビールをカゴに入れていた。

「菫さん、ハラミ食べます?」

「んーそろそろホルモン食べたいなぁ」

「じゃ、そっち先に入れますね」

 栞に肉の管理を任せて私はひたすらにビールを傾けていた。面倒見が良いというか、世話好きというか。共に暮らして分かったことだけど、後輩としての気遣いなのか、栞は積極的に細かいところにまで気を配る性格らしい。

 私のコップのビールが少なくなると直ぐに注いでくれるし、焼肉に限らず鍋なんかをする時も大体栞が皿によそってくれる。

 たまには私が、と思って手を動かすと「こーいうのは後輩の役目です」と言って手伝わせてくれない。

 そんな訳で、私はビールを飲みながら次々と皿に乗せられていく肉に箸を伸ばすだけだ。第三者から見たら、先輩という立場を笠に着て後輩に雑用を押し付けているように見えるかもしれない。

 まぁ、この場に第三者なんていないので、栞に甘えることにする。

 菫さん、ビールだけでいいんですか?」

 焼肉といえばビールだが、腹が膨れるばかりで一向に酔いが回らないのも確かだ。

 とはいえ、先日栞の前で飲み過ぎたのもあったので、少しセーブしていたのも事実だったりする。

 私が「んー」とか、言葉を濁していると、半端に残っていた麦焼酎のグラスに注いでから美味しそうに飲む栞に負ける。

 度数の低いビールでは味わえない、直接臓腑にアルコールが沁み渡る感覚に思わず大きく息を吐く。

 アルコールで麻痺した舌の上によく焼けたカルビを乗せる。子供の頃に戻れたら良いのに、と思うことは多いが、この味を知ってしまうと、もう戻れないだろうな。

 なんて馬鹿なことを考え始めているのは、酔いが回り始めた証拠だ。

 それにしても、一人で暮らしていた時もよく一人で晩酌をしていたが、栞と飲む時ほど気持ちよく酔えたことは無かった。

 やはり一人で飲むよりも誰か相手がいた方が良いのかな、とも思うが、以前いた彼氏だとか或いは会社の同僚とか、彼らと飲んだ時もすんなりと理想的な酩酊状態まで進んだ記憶はない。

 飲み過ぎて泥酔するか、或いは気を使いすぎて半端に酔うだけ。

 栞は私にとって、様々な要素で相性の良い人間なのだろう。

 そんなことを考えていたせいか、それとも、酔いが私の心とか感情の類をより直接的に身体に作用するようにしていたのか。

 それは分からないが、その時の私は普段の私からは考えられない程、子供のような無垢さを取り戻していた。

「あ、焼酎無くなっちゃいましたね。確かもう一本あった筈なので、取りに行ってきます」

 と、立ち上がった彼女を見て、不意に栞がこの家を出ていくのを思い出した。

 淋しさとは違う、執着心とも違う。何かよく分からない感情が——気持ちが去来した。

 反射的に栞の手を掴む。

「菫さん?」

 やはり私は栞にとって悪い先輩のようだ。新たに再就職先を見つけて、ようやく改めて社会人としての一歩を踏み出そうとしているのに。それを邪魔しようとしているのだから。

 それでも、酔いは私の心を誤魔化そうともせず、自らの独善的で利己主義的で自分本位で自己中心的な言葉が喉の奥から出てくるのを止められなかった。

 いや、止めようとも思わなかった。


「——やっぱり、この家に居てよ。栞」


 私にとっての忘れ水は、レテなんかじゃなくて、酒だったようだ。

 恥を、思いやりを、常識を、言葉を、嘘を、誤魔化すことを——子供の頃にようやく脱ぎ去った凡ゆることを、大人になってからようやく身につけた凡ゆることを——忘れてしまうのだから。

 だというのに、もっと正直になりたい、もっと我儘になりたい——或いはもっと栞を困らせてみたい。

 そんな気持ちだけが渦巻いて、もっと深い酩酊の先へ向かいたくて。

 私は今この瞬間すら忘れてしまえと言わんばかりに、栞の腕を強引に手繰り寄せる。

 栞の唇を濡らしていた僅かな麦焼酎は、この世のどんな酒よりも、甘くて鋭かった。

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