第8話 貴女を求め飢える話


 飢えていた。

 餓えていた。

 それは個人にとっての世界の在り方を左右する物だとして、それだけの価値と重みがあるものだとして。きっとそれを手にした人間は成功者だとか呼ばれるのだろう。

 それを求める事が人生だというのならば、それを満たされた後の残りの時間はなんなのだろうか。それが見つからない人生はなんなのだろうか。

 求め飢える時間は、終わらないのだろうか。

 私は何に飢えていたのだろうか。



 身に覚えの無い心の所作が、仄かに過去を言い訳にしていた。

 望むべきでは無い事と、望んではいけない事の違いは、ただ直向きに心の中の倫理観に問われるべき事柄で、それこそ頭の中で判断するべきことでは無いだろう。

 とは言え、それに値するだけの確信的材料を持たない私は、この悩める時間に少しばかり浸ろうと思っていた。

 問題の解決を先延ばしにするのは、逃避ではなく優越であると、思いたい。過去の私に対する当てつけの様な優越感だけが、例え未来の私に対する過去の残滓に成り果てようとも心地良かったのだ。

 しかし、残酷なまでに時間はいつも私の敵になる。


「二週間……ですか?」

 本来なら喜ぶべき事なのだろう。それを目的として、それを当たり前として活動してきたのだから。

 だというのに、私は突如として降って沸いた事実に、動揺していた。

 何故もっと早く、いや、何故もっと遅く。キリキリと痛む胃が、ストレスの様な何かを感じ取っていて、表情を歪めた。

「はい。もし内定を辞退される場合は、早めのご連絡を頂きたいのですが、二週間以内にご連絡が無ければ、内定を取り消させていただきます」

「はぁ……。わかりました。二週間以内にご連絡させて頂きます。ありがとうございました」

「はい。では、ご連絡お待ちしております」

 以前ではなんとも思っていなかったけど、こういう事務的な声色の会話は、何処かで疲れを感じさせる。

 そうは言っても、今の私にとって疲れを感じさせない会話を交わせるのはたった一人だけで。

 それでもなお、それを手放そうとする自分がいて。

「レテ。おいで」

 畳んだ布団の上で丸くなっているレテを呼ぶと、私の方へゆっくりと寄ってくる。

 背中をさすってやると、目を細めて私に身を委ねた。

「ねぇ、レテ。また、忘れさせて欲しい事があるんだ」

 可能なら、ここで過ごした数ヶ月間の記憶と、菫さんへの気持ち。

 それらを一挙に白紙に戻せるのならどんなに楽なことか。ようやく、自由に対する贖罪を見つけたというのに、私はそれを無かったことにしようとしている。

 それはどんなに愚かしくて、女々しい判断なのかを理解しているけど。

 それでも、現実は続く。




 珈琲の匂いがするというのに、その頭に「いつもの」という副詞が付かない。

 菫さんの淹れる珈琲ではなく、目の前に置かれているのは、喫茶店の珈琲だからなのか。

 珈琲の違いなんて分からないくせに、ふとそんなところで違和を感じてしまうのは少し可笑しい。

 なんとなく、家に居づらかった。内定が決まったことを伝える事が、不思議と躊躇われた。

 私だけが一足先に再就職を決めたという罪悪感という事ではない。

 多分、内定そのものが問題ではない。

 内定を貰った会社が隣県にあるということだ。

 子供ではないのだから、その程度の距離を遠いなんて思いもしないし、望めば週末くらいは共に過ごしてくれるだろう。

 一緒に住めなくなることが寂しいが、それ以上にそれを寂しいと悟られることが怖いのだ。

 とはいえ、分かっている。

 夢を見るのは自由だけど、大人は見るだけしか権利を与えられていないのだということを。

 追い求める、叶える。

 それらは、子供達だけの特権なのだと。


(この珈琲を飲んだら、家に帰ろう)



 ◇



「お、帰ってきたんだ」

 家に帰ると、眼鏡を掛けた菫さんが迎えてくれた。眼鏡姿ということは、パソコンで作業でもしていたのだろうか。

 普段は裸眼だけど、事務仕事している時はブルーカットの眼鏡を使用していたのを思い出す。

「あの、菫さん。ちょっとお話いいですか?」

「うん、どうしたの?」

 言いながら、菫さんは自然と自分の部屋へと招いた。

 二部屋しかないこの家は、自然とどちらかの部屋に集まるのが普通なので、お互いの部屋には来訪者用のクッションや座椅子が備わっている。

 菫さんの部屋のいつもの座椅子に腰を下ろすと、半ば無意識のような動作で茶菓子をテーブルに出した。

 目分量の気遣い。

 他人に対する過剰な気配りという訳でもなく、かと言って不躾な訳でもない。

 そういう関係が今の私達で、半端なその関係が心地よかった。

「……えと、内定を貰いました」

 だけど、それを手放そうとする私は。

 やはりどこか滑稽で。


 私の内定を祝ってくれる菫さんの声が、遠く感じた。

 本当に心の底から喜んでいて、自分のことのように祝ってくれている。

 内定を貰った会社が遠いから、この家から出て行くと言ったら、菫さんはどんな反応をするのだろうか。

 寂しがってくれるのか、悲しんでくれるのか、それとも——。


 飢えていた。

 餓えていた。

 私が求めるものは、ある意味地位や名誉なんかよりも世俗的で、財貨や宝飾よりも即物的だ。

 これを恋だと呼ぶのなら、きっと人は薄汚い存在だ。

 これを愛だと呼ぶのなら、きっと人は下劣な存在だ。

 私は、菫さんに傍に居てほしいと思われたかった。

 私に依存して欲しいと、思っていた。

 或いは。

 彼女に依存する私を受け入れて欲しかった。


 またお前は逃げ出すのか。

 レテはそう言わんばかりの鳴き声で、私を諌める。

 ——飲んだだけで凡ゆる記憶を忘却することが出来る水が本当にあるのなら。

 私は迷わず、それを口に含んでいたことだろう。

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