第7話 君と私の関係性の話

 先延ばし癖があったという訳じゃないけど。

 何となく、叶えば良いなという夢があって、それを叶える為の努力を、そのうち頑張ろうとだけ思っていた。

 目の前にある日常を片付けていくことだけが、目下の目標で、その先にある何かに手をつける余裕なんか無かった。

 それは言い訳でしかないと分かっていたけど、それでも規則正しく整然と無慈悲にやってくる毎日の中で、未来の為に行動する余裕なんて、私には存在していなかった。

 重なっていく日常の中に、その淡く描いた夢が埋もれていったせいで、突然現れた時間の空白はそれを思い起こす事さえ、時間を要した。


 眺めていると、私の中の猫という生き物のイメージとレテは異なるらしい。

 なんとなく、猫は一日中ゴロゴロしているイメージはあるが、殊の外レテは慌ただしい。

 恐らく当人は、その気兼ねなく身体を丸ませる場所を探しているのだろうけど、拘りが強いらしく数秒間落ち着いたと思ったら、すぐに場所を変える。

 コーヒーを飲みながら、レテが部屋の中を動き回る様子を眺めていると、私の存在を思い出した様に本棚の上から私の膝の上に飛び降りて、脚の間にすっぽりと収まった。

 撫でろと命令している様な視線を投げた後、レテは短く鳴いた。

「はいはい……君は良いねぇ、我が儘も呆気なく許されるんだから」

 言いながら喉の辺りを優しく撫でると目を細めたら。

「君のご主人は今日も面接だってさ。大変だにゃあ」

 レテの鼻の辺りを指先で軽く押す。それは嫌だったのか、ふいと顔を背けられたので、仕方なく背中の辺りを撫でる。


 私といえば、再就職自体を考えなくなっていた。

 近頃目を通すのは、調理師の資格の取り方だとか、開業資金に対する補助金だとか、銀行からの融資に対する解説だとか。

 学生の時に何となく思い描いていた、喫茶店という夢を、今更ながら叶えてみようと思ったのだ。

 思えば、半年ほど無職でいても暮らして行けるだけの貯金があるのは、開業資金を貯めていたのだった。

 いつの間にか、慌ただしく過ぎる日々の中で、そんなことすら忘れていた。

 ゆったりと流れるスローペースなこの時間が、栞と過ごす時間が、学生の頃の喫茶店のバイトをしていた頃を何となく思い出させたのかもしれない。

 忘れ水なんて名前のくせに、

「君が来てから、色んなことを思い出すよ」

 ニャア、と鳴くことすらせずに、レテはそっぽを向いて私の足から離れていった。


 ◇


 奥の奥へと隠れてしまった心算が、懐かしい友人の様にひょっこりと顔を出してからは、具体的な計画を立てるのに四苦八苦することになった。

 食品衛生責任者の資格も取りに行かなければならないし、何より事業計画書も書かなくては。

 そういう事情もあり、栞と暮らし始めてから三ヶ月が経過した頃には、部屋に篭ってノートパソコンと睨めっこする日々が続いていた。

 夢は輪郭を持ち始めると、重みを増す。

 そのことを実感し始めていたが、同時に何となく喫茶店を開いてみたいと考えていただけの私は、ケーキ屋さんになりたいという子供の将来の夢と大して変わりはなかったのだと思い知らされた。

 栞が、部屋に引き篭もって作業する時間が増えた私を不審がって、最近何をしているのか訊ねてきたが、はぐらかしたのは、多分それが理由だ。

 28歳にもなって子供じみた夢を見ているという事実が恥ずかしかったに違いない。せめて、もう少し具体的に、いや、現実的な計画段階までいければ、堂々と報告出来るのだろうけど。


 甘い匂いが立ち込める。

 大学ノートに書き込んでいく費用の計算の手を止めて台所を覗くと、鼻歌混じりに何かを作る栞がいた。

 エプロン姿の彼女は私を見ると、花弁が開いた様な笑顔を向けた。

「休憩ですか?丁度今、ジンジャークッキーを焼いていたんですけど、食べましょうよ」

「じゃあコーヒー淹れるね」

 当たり前の様な私達の言葉のやり取りは、普段なら意識もせずに不断と続く会話の筈だった。

 朱色が差し込んだ室内で、僅かに言葉が詰まる。

 共に暮らすとは、家族とは、こういうものだったな。

 久しく感じていなかった感覚を、或いは今まで気付いていなかった栞との関係を、改めて私は感じ取っていた。


 ——上京した時は、あんなにも気安く捨てられたこの感覚を。

 急な雨に降られて同じ軒下で雨宿りをする様な、こざっぱりとした二人の関係性のはずなのに。

 不思議と、それを手放し難く思う自分がいた。

 誰かと共に暮らすその意味を、遥か古の時代より人間が集団生活を送ってきたその意義を。今更思い出してしまうのは、何故だろうか。

 忘れ水と名付けられた猫は、私を見ていた。水の様に流れ行った記憶を、レテは私に注ぎ込んでいる様な、そんな気がした。

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