第6話 菫さんとお菓子作りをした話

 いつのことだったか。

 ふと、何もかもが虚しくなって、ふらりと一人旅に出たことがあった。別に会社を無断欠勤した訳じゃなく、真っ当に飛び石連休に有給休暇を使って四連休にしたのだけど。

 でも、その一人旅は完全に思いつきで、行く当てもなくレンタカーで気侭にあちこちを回った。

 人生で初めての車内泊も、その時経験した。想像していたよりは楽しいわけではなくて、単に身体が痛くなるだけだったと知った。

 あの時の私は何に対して虚しいと感じたのだろう。

 何から逃げ出したかったのだろう。

 今となっては、それだけが思い出せない。



 最近室内にコーヒーの匂いが漂うことが多くなっている。

 菫さんは、コーヒーにハマっているらしく、最近は家に帰るとコーヒーで出迎えしてくれる。

「どう?今回のは」

 笑みを浮かべながら、私の反応を見る彼女は少し幼く見える。思わず微笑を浮かべた。

「ちょっと酸味が強いかな……。あ、私の好みですけど」

「うーん、浅煎り過ぎたかな」

「あ、でもチーズケーキとか合うんじゃないですか?」

 最近お菓子作りしていなかったことを思い出して、口を撞いてそんな提案が出てくる。

「確かにそうかも。んー後でレシピ調べてみるかな」

「だったら私が作りましょうか?午後は暇ですし」

 午前中に面接を終えた私だったが、最近は就職活動ばかりだったので、良い気分転換になると思った。


 面接官の顔に張り付いた嘘の笑い顔とか、無理に肯定的な言葉を投げかけるあの空間に辟易していた。

 お互いに心の中で何を考えているかなんて、面接ではなくともこの社会で生きている限り歯牙にも掛ける必要の無い当たり前の事実なのだろうけど。

 そういう事に小慣れることが、大人になるという事だと知っていたし、慣れていると自負していた筈なのに。

 他人への不信感というのが、心を弱らせていく。

 菫さんと一緒に暮らしていて良かった、と思う。

 まだ彼女がどんなことを考えているかなんて、分かりようもない筈なのに。その点で言えば、面接官も菫さんも同じ筈なのに。

 私は菫さんに対しては、何故だろうか、そういうことを考える事はなかった。多分、一緒にいる時間の長さとか、社交辞令のような煩わしさが無いからとか、そういう他愛の無い理由があるのだろうけど。


「で、今日はどうだったの?」

 クリームチーズを撹拌しながら、菫さんは訊く。

 結局二人で作る事になったチーズケーキは、簡単なベイクドチーズケーキという形で落ち着いた。

「えーっと、そうですね……。多分ダメだったと思います」

 面接官の渇いた笑い声を思い出す。

 営業経験があるとはいえ、たった一年なのだ。即戦力を期待する中途採用では、私はあまり求められていないのだろう。

 気落ちするという訳ではないけど、心が疲れているのを感じる。

「そっか。ま、ダメでもさ、別の会社は沢山あるからね。なんて、就職活動をしてない私が言うことじゃないけど」

「あの、菫さん。菫さんは、不安とかないんですか?」

 これを訊くのは、少し無遠慮過ぎたかな。言ってから僅かに後悔したが、菫さんは気にする様子も無く、卵と薄力粉をボウルの中に入れる。

「不思議とね、無いんだよ。私って昔からそうでさ、人間関係とかそういう部分は過剰な位に気にする性格なのに、自分の事となると、そういうのは全然」

 強い人だ、と思った。

 同時に脆い人だとも、思った。

 酔っ払った菫さんが泣きそうな表情で、私に先輩としての自分がどうだったのか訊いた夜を思い出す。

 優しい人なんだろうな。

「あれ?」

「ん?どうしたの?」

「あ、いえ、そろそろ型に入れても良さそうですね」

 菫さんが優しい人だと改めて思った時、ふいに違和を感じる。

 それを誤魔化すように、次の工程を菫さんに伝えたが、型に流し込まれるチーズケーキの種のように、何か粘度の高い粘ついた感情が胸の内に存在していることに気づいた。

 上手く言語化出来ないけれど、それでも無理矢理言葉にするのなら、

(優しさだけで、私と一緒に住む選択をしてくれたのなら、何となくだけど、それは嫌だ)

 自分でも理解の出来ない気持ちが一瞬、胸の中に広がった。コーヒーの中に溶けていく、ミルクのように、私の彼女に対する気持ちを根底から変えていくようだった。


 ◇



「お菓子作り、得意なんだ」

 焼き上がったチーズケーキに舌鼓を打つ菫さんは、顔を綻ばせている。

「あ、えーっと、はい。洋菓子は趣味ですけど、実家が和菓子屋なんですよね」

 それも、江戸だか明治だかから続く地元では有名な和菓子屋だ。

 それを菫さんに伝えるつもりはないけど、当然のように実家を継ぐべきだという、家族や周囲の人々の空気を思い出す。

「成る程ね」

 それきり菫さんは深く追及する事は無かった。気を遣わせたかな、と思う。

 実家から喧嘩して出てきた、とは言ってしまったしなぁ。

「私もあまり実家に帰るの好きじゃ無いし、似た者同士かもね」

 コーヒーに合うチーズケーキのように、もしかしたら栞は私とウマが合うのかも。

 なんて、菫さんは何でもないように言う。コーヒーを一口食べてから、菫さんは今しがた言った言葉を忘れたかのように、再び美味しそうにチーズケーキを咀嚼する。



 実家を出た時、私は好きだった彼氏と一緒にいたいから実家を捨てたのだと思っていた。

 今にして思えば滑稽だと思う。自由に生きるためには、家族を裏切らなければならない事実が横たわっていて。

 私は家族愛よりも恋人への愛を選んだのだと、自分を慰めただけに過ぎなかった。

 あの時の彼氏に対して感じていた好きという気持ちは、本当にあったのかもしれないけど、それでも愛するという気持ちとは別だったに違いない。

 そうでも思わないと、実家を出た時以上に鳴り響く鼓動の煩さの説明がつかないのだから。


 虚しさの正体は、自由を望んだ癖に私には何も無い空っぽな存在だったからだ。

 実家を捨てた癖に何も為したい事のない虚しさから逃げたかっただけだ。

 だけど、私の逃避行は。

 たった今、終わりを迎えた。

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