第5話 栞と過ごす時間の話

 念願だった石川富山の北陸旅行は、四泊五日の行程だった。主要な観光スポットは抑えたし、何より黒部ダムの壮大さには、来て良かったと思えた。地酒も美味しいし、温泉もなかなかのものだ。

 羽を伸ばすとはよく言ったものだが、仕事の悩みや不安の種が無いだけでここまで開放的な気分で旅出来るとは思っても見なかった。

 一応、藤堂さん——栞を誘ってみたのだけど、やはり面接やら筆記試験やらで忙しいようで流石に五日間も旅行に行く余裕は無いようだ。

 まぁ、元々一人旅が好きだし、別にいいんだけどさ。

 その筈だったんだけど。

 最近栞と過ごす時間が多かったせいか、不思議と何処となく寂しさを感じてしまった自分もいたりする。



 フライパンのまま食卓に並べて、そのまま食べる——なんて事は一人暮らしの時はしょっちゅうだったけど、流石に今はそういうことは躊躇われる。

 同い年の同居人とかなら出来たかもしれないが、元とはいえ後輩も同じ食卓につく。不要な筈の先輩としての自尊心が、ある種常識的な考えを家の中にまで発揮してているおかげで、今ではすっかり家の中であろうと真人間になっていた。

 扉を開けたままトイレなんてしなくなったし、テレビのトークに対して相槌を打つこともなくなった。

 そういう不自由さの代わりに手に入れたのが、栞との時間なのだろう。孤独にしか癒せないものがあるけど、誰かと過ごさないと得られないものもあるのだということを彼女は教えてくれた。

 それが良い事なのか、悪い事なのか。

 いずれにせよ、そういう考え方を出来るようになってしまった私はもう元には戻れないのだろうな。

 ミルクの入ったコーヒーを再びブラックコーヒーには戻せないように、私は誰かと過ごす必要性に気づいてしまった。


「ただいま帰りました、菫さん」

「お帰り。どうだった?」

 見た感じ疲れ切っている栞は、鞄を置くと台所にあるスツールに座る。

「んー微妙でした。まだ一次面接なのに、手応えがなさすぎて……」

「そっか……じゃあ、ご飯出来るの暫くかかるからさ、着替えてお風呂にでも入りな?」

「すみません、夕飯作ってもらってるのに、お風呂まで先にいただいて」

 いいのいいの。

 と、答えて私は栞を風呂に入るように促した。

 私は半年間はニートをすると決意しているが、流石に同じ部屋に住む後輩が就職活動を頑張っているのを横目にすると多少は引け目を感じる。

 しかし、営業職を目指してるのかしら。

 別に彼女の就活に口出すつもりは無いけど、私は前職で営業は懲りたのだけど、どうも栞は違う印象を受け取ったらしい。

 私は学生の時に取った日商簿記と文書情報管理士の資格があるので、事務系にでも転職するかなと何となく考えている。

(或いは、人生設計の予定を大幅に早めるっていう手もあるけど)

 なんてことを考えていると、食卓に料理が並んだ丁度良いタイミングで風呂上がりの栞が出て来る。

 ホットパンツにTシャツ姿の寛げる服装に着替えた彼女は、並べられた料理を褒めてくれたが、私はそれどころじゃ無かった。

 普段は下ろしているが、風呂上がりにポニーテールにして髪を上げた栞の僅かに湿った髪の毛とうなじに、何故か目を奪われてしまったからだ。

 殆ど毎晩見ている姿なのに、何故今日だけこんなにもドキッとしてしまうのだろうか。

「菫さん?」

 ボーッと見ていた私を訝しんだ栞は、心配そうに声をかける。ようやくそこで私は我にかえった。

「ん、ごめん。じゃあ、食べようか」

 旅行の際に、栞がいないことに寂しさを感じてしまったせいだろうか。

 そんなことを思ったせいで、栞を変に意識してしまっているのだろう。

 私はそう結論づけて、茄子の煮浸しに箸を伸ばした。


 ◇

 今日も栞は面接に向かっていった。

 この調子ならすぐにでも就職先が見つかるだろう。

 とは言っても昼過ぎには帰宅すると言っていたので、昼ご飯は二人分のナポリタンを用意しておく。

 折角一人だし、と旅行先の珈琲店で購入したコナコーヒーをハイローストに焙煎して飲んでみる。

「……うん。やっぱりコナは深煎りの方が美味しいかな」

 どうせなら自分のオリジナルブレンドでもと思ったけど、まだ自分の納得できるだけの豆に出会えていない。

 私の数少ない趣味のコーヒーだが、栞もまさかここまで本格的に楽しんでいるとは思っていないだろう。

 隠している訳じゃ無いけど、なんとなく、ここまでのめり込んでいる趣味となると誰かに見られるのは躊躇してしまう。

 今度は水出しコーヒーに挑戦してみようかな。あれは時間がかかるって聞くけど、今の私には時間は有り余っている。

 サイフォン式の器具だって欲しい。

 ——うん、そうと決まれば、ニート期間はコーヒー作りに時間を費やそう。

 そんな決意をしつつ、早速栞を待つ間にコーヒーを一杯飲もうと、コーヒーメーカーを起動する。

 コーヒーの匂いにつられて、ベランダで日向ぼっこしていたレテがやってくる。

「レテは飲めないよ。ほら、オヤツあげようか?」

 レテば私の言葉を理解しているのか分からないが、どうやら様子を見に来たようで構うとつい、と背を向けてまた何処かへと去っていく。


 私も猫のようになれたらな。

 ふとそんな事を思ってしまう。

 猫のように気ままに、やりたい事をして生きていけるのであれば、それはどんなに幸せなことか。

 でも、もしかしたら。

 気ままに我儘に、望む事だけを望み、愛する事だけを愛することは。

 以外と簡単なのかもしれない。

 コーヒーの香りが室内を満たした頃。

 いつかは、と思っていた遠い夢に向かって、歩き出すのもまた一興なのかもしれない。

 そんな事を考えていた。


 気付けば、私のスマホのブックマークには、不動産屋のページが新しく追加されていた。

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