第4話 ルームメイトが酔っ払った話
過去に意味なんてあるのだろうか。
時々思う。
自己肯定感の低さは、恐らく過去すらも否定したくてたまらないのだろうけど、それをしてしまえばいよいよ私という存在に何が残るのかも分からない。
だからといって、未来に希望がある訳でも無い。会社が倒産した直後だというのに未来に希望がある人間なんているのだろうか。人生お先真っ暗だなんて、人生そのものを諦めるほど年齢を重ねた状態での倒産ではないから、まだそこまで悲惨では無いけれど。
それでも、これから先の将来に対して明るい想像を描けるほど無邪気な年齢でもなかった。
多分この軽い憂鬱な状態は、再就職が決まるまで続くんだろうなぁ。と不安に駆られる部分とは別のところで、他人事のようにそう思っていた。
だというのに何故だろう。
まだ働き先は決まってもいないのに、先輩——和泉さんと一緒に暮らすことになってからは、未来に対する不安を抱えなくなっていた。
誰かといることがこんなにもネガティブな心を麻痺させるだなんて、知らなかった。
少なくとも、過去にいた彼氏達は、そんな効力を持ってはいなかった。
レテは私なんかよりずっと和泉さんの方がお気に入りらしい。
毎日のように私の布団に潜り込んできていたレテは、今では和泉さんと一緒に寝るのが日課になっている。
それでも思い出したように時々私の布団で寝るので、憎たらしい程に可愛い愛猫だ。
和泉さんもレテがお気に入りみたいで、暇な時はよくレテと玩具で戯れているの見かける。
和泉さんはレテなんかより警戒心の高い動物だと思う。
レテと戯れている姿も、スウェット姿でビールを飲みながら連ドラを観ている姿も、大きな欠伸を噛み締めながら彼女の日課らしいラジオ体操をしている姿も。
全て、最近になってようやく私を意識せずに自然とそういう振る舞いをしてくれるようになった。
和泉さんと暮らし始めて、一ヶ月が経とうとしていた。
「おぉー。いいねぇ」
最近分かったことは、ほろ酔い状態の和泉さんは陽気になることだ。
今も二人で晩酌をしていたのだけれど、缶のウーロンハイが三杯目に差し掛かったところで、レテの顎の下を撫でながらテレビに写る野球中継を眺めていた和泉さんは贔屓のチームの主砲がホームランを打つと歓声を上げる訳でもなく、陽気に手を叩きながらそんなことを言った。
「和泉さんは、ハマファンなんですか?」
「うん、チャキチャキのハマっ子だからねぇ」
「いや和泉さん、北陸の出身ですよね?」
何でそんな分かりやすい嘘をつくのか。
まぁ、これもアルコールのなせる技なのだろう。しかし、それにしたって今日はお酒の飲むペースが早い気がする。いつもなら缶ウーロンハイであれば二杯程度で止めているのに。
「藤堂さんは?どっかの球団のファン?」
「そうですねぇ……まぁファンって程じゃ無いですけど、やっぱり出身地の球団は応援しちゃいますね」
「ってことは鷲っ子なんだ」
言いながら、和泉さんはゴロンと横になる。当たり前のように、座椅子に座る私の膝の上に頭を乗せていた。
「酔っちゃいました?」
私は少し笑いながら訊くと、和泉さんは膝の上で私を見上げながら、声のトーンを落とす。
「………ね、本当のところさ、前の職場での私の指導ってどうだった?」
指導……?
他の同期と比べると確かに、ご飯に連れて行ってもらったり、気さくに話しかけてもらったりとかは無かったけど。
それでも、私は和泉さんが不器用なりに、私に真摯に向き合ってくれていることを知っていた。
そりゃ他の同期よりも独り立ちするのは遅かったけど、その分私は和泉さんに多くのことを教えてもらえたと自負している。
叱り飛ばすのが部下への愛だと思い込んでいる先輩達よりも、まるで友達のように接するのが良い先輩像なのだと思い込んでいる人達よりも。
ずっとずっと、私は大切にされてきたと思っている。
だから、と、私は和泉さんの頬に手を添える。アルコールで体温が高くなっていて、じんわりと温かい。
「私は、和泉さんが私の教育主任で良かったって、思ってますよ」
「本当……?」
泣いている。
そう表現してよいのか、疑わしくなる程度の、たった一筋の涙が和泉さんの目尻から流れる。
「もちろんです。私は先輩が誰よりも、私のことを考えてくれていたって、分かってますから」
「そっかぁ。なら、良かったよ……」
どこか子供っぽく微笑んだ後、和泉さんはゆっくりと目を閉じて、静かに寝息を立て始めた。
藤澤さんの言っていた、和泉さんが泣き虫だという話を思い出す。
先輩なのだから少し生意気かもしれないけど、まるで猫が二匹に増えたようだ。
私の膝の上で眠る和泉さんの頭を撫でつつ、私はそんなことを思いながらテレビの音量を下げた。
残念ながら、和泉さんの贔屓のチームは勝ち越しホームランを打たれて試合終了となっていた。
「うぁ……?」
時刻はすっかり深夜だ。膝の上で寝ている和泉さんを起こすわけにはいかないので、ゲームをしながら起きるのを待っていると、半分寝言に近い言葉と共に和泉さんは目を覚ました。
「起きました?」
「……あ、えーっと、ごめん。すっかり酔っ払っちゃったよ」
言いながら、和泉さんは身体を起こして、机の上の水を飲む。
「なんか変なこと言ってた?」
「いえ、特には」
「あ、そういえば」
思い出した訳ではないけど、一つ思いついた。
「え?やっぱり何か言ってた?」
「
しれっと嘘をつく。でも、いつまで経ってもお互いに苗字で呼ぶ合うのは、何となく一緒に暮らしているのにどこか壁を隔てているようで。
いくらルームメイトといえども、お互いに社会人なのだからそれなりに壁があるのが当たり前だとは当然思う。
でも、そんな壁さえなくしてしまいたいというのは、私の我儘なのだろうか。
「え、そんなこと言ってた?」
「はい。だから私も、
「え、あ。うん」
どこか納得いってないような、不意を疲れて生返事になってしまったかのような。
そんな返事を言質にして、少し悪いことをした気分になりつつも、名前を呼ぶだけで距離が縮まったような気がして嬉しくなる。
「菫さん、私にとって、やっぱり菫さんは一番の先輩ですよ」
「……?うん、えっと、ありがとう?でいいのかな?」
イマイチ話を飲み込めていない菫さんを横目に、私はテーブルの上に残っていた緑茶ハイを一気に飲み干した。
照れて赤くなってしまっているであろう、この顔の理由を、少し恥ずかしいことを言ってしまったこの高揚感を。
全てアルコールの所為にしてしまおう。
上手くいけば、明日も貴女を菫さんと呼び続けられる。
そんな気がするのだから。
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